過保護上等
「おはよう」
「おはようございます、弦一郎お兄ちゃん。今日も早いね」
「ああ、お前もな」
「うふふ」
真田家で一番の早起きは、おそらくは次男の弦一郎だろうが、彼の妹でもある桜乃も彼に負けず劣らずの早起きさんである。
兄の早起きの目的は、日々習慣として身に染み付いてしまっている朝の鍛錬の為なのだが、妹の桜乃の方は専ら家族の胃袋を満たす朝食の準備の為であった。
食事は、人の身体にも精神にも活力を与える非常に重要な行為。
勿論、それを任されているという責任感を感じている桜乃に、手抜きの出来る筈はなく、今日も食卓には見事な品々がずらりと並べられていた。
家族の弁当においても然り。
多少は朝食や昨夜のおかずと被ってしまうところはあるものの、出来合いの冷凍食品等の類は一切使用しておらず、吟味に吟味を重ねた食材を使用した、かなり質の高いものである。
真田の屈強な肉体は、彼自身の努力によって作られたものであるのは間違いないが、妹の愛情こもった料理も一役かっているのも否定出来ないだろう。
「朝も心地良い季節になったよね、道場はもう冷えてない? お兄ちゃん」
「ああ、流石にな…有難う」
「どういたしまして」
その道場でずっと鍛錬をしていた兄に、温かい緑茶を出すと、桜乃は対面の形で彼の前に座る。
これが二人の食卓での定位置なのだ。
朝は大体、真田と妹の桜乃の二人だけで朝食を摂ることが多い。
別に親と気まずい仲である訳ではなく、二人の起床及び登校時間と、親達の出勤時間が合わないだけだ。
真田は学校では男子テニス部の副部長を務めており、その部活のレベルが非常に高いものである為、朝練も結構早い時間から行われる。
それに間に合うように朝の鍛錬の時間を早めている事もあり、真田は家で一番の早起きなのである。
桜乃が同じく早いのは、当然、彼の食事の準備と弁当作りの為であった。
こう見ると、完全に兄の生活スタイルに妹が引き摺られている形ではあるが、別に真田が彼女にそれを希望したのではなく、桜乃自身が望んで行っていること。
何しろ、幼い時から家族の中で真田の事を一番慕っているお兄ちゃんっ子なので、この程度のことはさして苦でもないらしい。
そして真田の方も、普段は「超」が付くほどに厳格な男なのだが、親代わりに面倒を見てきた桜乃に関してだけは、「超」が付くほどに甘いのだった。
「でも、今日は特にあったかくなるみたい、お天気予報でも晴れだって。だからかな、何かぽかぽかするし」
「ふむ?」
ぽかぽか?
確かに冬の寒さは過ぎて久しいが、今日はそれ程あたたかいと言えるだろうか?
兄が疑問に思う前に、桜乃はあっさりとそれについての見解を述べた。
「料理していると火を使うから、暖を取れてちょっと役得だよね」
「成る程な」
そういう事なら納得…と思いつつ、真田は再び朝食に集中する。
それからまたしばらくは静かな食事の時間だったのだが、不意に桜乃がぽつんと呟いた。
「…立海に入学して毎日充実はしているんだけど…」
「ん…?」
何だ、早速何か悩み事か?と兄は懸念したのだが…
「お兄ちゃん見ていると、部活もいいなぁって思っちゃう。すごーく面白そうなんだもん」
「ああ…そう言えばお前は帰宅部だったな」
取り敢えず、重い話ではないらしい、と内心ほっとする。
「お夕食の支度とかあるから、あまり遅くは帰れないんだけど、それ程に時間が取られないものなら入ってもいいかも。でも色々と目移りしちゃって…」
「お前なら手芸部でも調理部でも難なくついていけそうだがな」
「…それは小学生の時に入ったんだけど」
しゅん…と桜乃は力なく肩を落とした。
「習う為に入ったのに、いつの間にか教えてる側に回っちゃって、結局自分のレベルアップには…」
「すまん、安易だった」
相手の言葉に、真田も渋い顔で即座に謝る。
そうだった、彼女は既に家事のレベルは熟練の主婦並だった。
「運動部もいいかなーって思ったんだけど、どこもピンと来ないんだよね」
「お前が運動部…?」
少し不安げな顔で、真田は相手を見遣って思い悩む。
実は、元々虚弱だった桜乃は、幼い頃から軽い運動をしても、その後で寝込む事が少なくなく、それを近くで見てきた真田は、彼女に限ってはスポーツをさせる事には否定的だった。
桜乃自身が望み、敢えて運動をさせてみた事もあったのだが、その後に寝込んで苦しむ妹の姿を見て、後悔した事も一度や二度ではなかった。
その兄の苦悩を感じ取ってか、いつしか本人も自分からそういう希望を言わなくなってしまったのだ。
少しでも前向きになった事は喜ぶべき事だろう、しかし彼女の身体を思えば止める…べきなのだろうか、ここは……
「一番入りたいのは、お兄ちゃんがいる男子テニス部なんだけど」
「不許可!!」
止めるべき、どころではない、絶対に何が何でも阻止!!とばかりに、兄は妹に怖い顔で迫った。
妹と一緒の部活に入るというのはやぶさかではないが、あそこはヤバ過ぎる。
真田が一番警戒しているのは、自身と同じテニス部のレギュラーメンバー達だった。
テニスの活動や学生生活の中では、互いに親密に付き合っている気のいい奴らなのは認める。
だがしかし、妹の存在が関わってきたら話は別。
入学式の日に早速妹を彼らに紹介する羽目になってしまったが、あの時から、間違いなく彼らの桜乃に対する視線が、他の女子へのそれとは違うと真田は感じていた。
特に、部長であり、幼馴染でもある幸村精市は昔から桜乃を知っており、彼女を非常に気に入っている節があるので、真田にとっては目下、監視対象にもなっていた。
そんな男共の中に可愛い妹を投げ入れるなど、想像するだに恐ろしい。
たまに妹が見学に来る時ですら、心配で仕方がないというのに…
「入れないのは分かってますってば。私、一応女子なんだから」
男子テニス部に入れる訳ないでしょ?と苦笑する妹だったが、真田がきっぱりと例外もある事を提示した。
「マネージャーという手もあるだろうが」
あの部長なら、にっこり笑いながら特権乱用して桜乃を引き入れてもおかしくない。
「成る程〜〜」
「兎に角、ウチの部に入る事はまかりならん。女子の運動部であれば、まぁ、お前の身体次第だ。だが、あまり負荷が大きいものは止めておけ」
「うーん…そっかぁ」
確かに、自分は身体が強い方ではないし…でも、一度部活に入ったらやっぱり、他の部員と同じメニューをこなさないといけないんだよね…もしついていけなくなったら、迷惑掛かるだろうし…止めておいた方がいいのかな……
それからは特に他の話題も出る事もなく、真田はいつも通り、妹の手作り弁当を受け取ると、朝練に参加する為に家を出て行ったのだった……
午前中の授業が終わり、チャイムが鳴ると同時に、生徒達は楽しい昼食時間を迎える。
真田はこの日はテニス部レギュラーと活動内容に関して検討する事があった為、昼食時間から彼らと集まり、弁当を共に食べていた。
「相変わらず弦一郎のお弁当は豪華だね」
「うわ、美味そう〜。なぁなぁ、これ一個貰っていい?」
真田の弁当に対する仲間の評価も常に高く、それだけによく狙われる。
「一個だけだぞ」
「サンキュ!」
丸井のおねだりに応じて分けてやっている間にも、柳を中心とした検討会は続けられていた。
「ふむ…では、こちらの練習内容は一時据え置きとし、こちらの改定案を…」
「そうだね…俺もそれで問題ないと思うよ」
「もーちょっと楽になりません?」
「たわけ」
二年生の切原がまぐまぐと二個目のパンにかじりつきながら提案したが、それは勿論副部長の真田によって即座に否決されてしまう。
否決しながら、ぱく、とおかずの一つを口に入れた真田だったが、その顔がどうにも腑に落ちないといった表情で、首が僅かに傾げられる。
「? どうしたの? 弦一郎。さっきから浮かない顔だね」
「いや…何となくいつもの味付けと違う様な気がしてな」
幸村の指摘に真田も不可解だといった口調で答えたが、おかずを分けてもらった丸井は異議を唱えた。
「厳しいな〜、すげえ美味いじゃんかよ。あんまり要求高いと、おさげちゃん可哀想だぞい」
「おさげちゃん言うな」
何を馴れ馴れしく…とぶすっとして注意した後に、真田はそうではないと訂正する。
「別に不味いと言っている訳ではない。単にあまりこういう事がなかったからな」
「もっと美味しくしようとチャレンジしているのかもしれないぞ」
ジャッカルが前向きな意見を唱えたが、まぁ、あの努力家の少女ならその可能性も否定は出来ない。
「けど、よく分かるもんじゃのう。殆ど熟年夫婦じゃな」
「ほっとけ」
ふんっと鼻を鳴らして仁王の冷やかしに返していた真田に、柳生が声を掛けた。
「真田副部長」
「ん?」
「あちらにいらっしゃる女子…お知り合いでしょうか?」
「え…?」
相手が指し示したのは、教室の前方の扉。
半分開かれ、廊下に開放されていたその扉の向こうから、一人の女子が教室の中を覗きこんでいた。
彼女が注ぐ視線の先は…どうやら真田の様だ。
しかし彼にとっては全く記憶にない女性であり、当然、真田は困惑してしまう。
「…誰だ?」
「知りません」
思わず柳生に尋ねてしまったが、向こうも速効でそう返してきた。
「?」
おかしい、と思い再度向こうを見ると、視線が合ったところで申し訳なさそうに会釈してきた。
確かに…自分に何らかの用事があるらしい。
「…ちょっと行って来る」
「デートのお誘いかの」
「殴るぞ」
更なる仁王の冷やかしを切り返しつつ、真田はその女子の方へと歩いて行った。
「…何だろうね?」
「三年生ではないな…下級生か」
幸村と柳が純粋に興味をもって相手の様子を眺めている脇で、切原も首を傾げて考え込む。
「何か委員会の用事っすかね」
既に男女の仲を疑う思考が皆無なのが、真田という人物の固さを伺わせる。
そんな彼らが何事だろうと見ている中、当の真田は暫く相手の女子と話していたが、急に顔色を失い表情も逼迫したものに変わったかと思うと、教室を飛び出し慌てた様子で何処かへ行ってしまった。
自分達に断りを入れることすら忘れた様子で。
滅多にない男の姿に、流石に見ていたメンバー達は驚いた様子で顔を見合わせた。
「な、何だ、今の?」
「物凄い慌ててなかったかい? 真田の奴」
ジャッカルと丸井が顔を見合わせている脇では、切原が呆然としている。
「…何か問題が生じたのでしょうか?」
柳生が眼鏡に手をやりつつ呟いている間に、がたっと席を立った幸村が、すたすたと扉の方へと歩いて行った。
「ねぇ、ごめんね、ちょっといいかな」
声を掛けたのは、直前まで真田と話していたあの女性。
確かに、本人がいなくなっても、その原因をもたらしたであろう人物に訊けばいい話。
流石、状況判断の素早さは特筆すべきものがある。
「は、はい…?」
相手の女子は最初こそ驚いた様子だったが、幸村の柔和で美麗な笑顔を見ると、すぐに意識はそちらへと向いてしまった。
校内でも一番の人気を誇る色男から間近で声を掛けられたら、普通の女子ならそれだけで心が浮ついてしまうだろう。
しかも、そのすぐ後からも彼にひけをとらない色男達がぞろぞろとついて来たものだから、女子にとっては正に予想外の収穫だった。
「弦一郎と何を話していたの? 随分急いでた様だけど、何処に行ったのかな?」
「あ、あの…」
幸村の背後に立つ若者達も無言ではあったものの、その周囲からは『なに? なに? どうしたの?』と教えてオーラが出まくっている。
それに拒否を示せる程、相手は心が強くはなかった。
「私…真田さんのクラスメートなんですけど…あ、真田先輩の妹さんの」
真田桜乃のことか、と全員がすぐに理解する中、相手は真田に伝えたであろう事柄を再度彼の友人達にも伝える。
「彼女、風邪引いちゃったみたいで、授業中にダウンして保健室で休んでいるんです。心配掛けるから言わないでって口止めされてたんですけど、一応お兄さんには同じ学校だしお知らせしておいた方がいいかと思って」
「え…桜乃ちゃんが?」
あの子が、病気で倒れた…?
真田程の過剰反応ではないにしろ、その場にいたメンバー達が一様に表情を固くする。
確かに彼女は頑健な兄とは大違いで、非常に儚い印象だ。
病に倒れたと言っても、何ら不思議には思わない。
「そんなに酷い症状なのですか? ダウンと仰いましたが…」
柳生が不安そうに女子に尋ねるも、向こうも困った様に曖昧な返事を返すに留めた。
「授業中、立った時に眩暈がしたみたいで倒れちゃったんです。でも意識はありましたから、そんなに酷いものではないと…」
「ほっそいからなぁ…おさげちゃん」
風が吹いただけでも、沖縄ぐらいまで飛んでいっちゃうんじゃ…と、丸井はあり得ない事を心配している。
「確かに、少々不安だな…」
柳が呟いて、皆が沈黙した後…
「…話し合いは終わりにしようか」
部長の一言で、彼らの予定は大幅に変更されることとなった。
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