新しい家族
秋も深くなると、一日一日、日が短くなるにつれ肌寒くなってくる。
それは、ここ真田家でも例外ではなく、大きな屋敷だけに空気の冷たさは身に染みるのだ。
「は〜〜、流石にこう冷えるとスリッパが手放せないなぁ」
今日も、この家の末っ子である桜乃は夕食の片付けに取り掛かるべく、居間と台所の間をぱたぱたと何度も往復して、食器を運んでいた。
特に女性の身体は冷えには弱い。
更に桜乃はこの家の中では一番小さく、体力も決してある方ではないので、普段から風邪などひかないように出来るだけの注意をしている。
「桜乃?」
「あ、弦一郎お兄ちゃん、食器持って来てくれたの? 有難う」
「ああ…」
自分の分の食器を台所に運んで来たのは、桜乃のすぐ上の兄となる、次兄の真田弦一郎だった。
見た目既に高校生か大学生と言っても通じるが…実は中学三年生。
なまじ幼少時より祖父より厳しく育てられた影響もあってか、齢十代前半にして既に精神年齢は二十歳を超えているのではないかという噂すらある。
そして厳しく育てられた分、本人の性格も真っ直ぐで厳格…他人にも自分にも厳しい。
但し、妹の桜乃を除いて。
「ここに置くぞ?」
「うん、後は私が片付けておくから…今日は特にお兄ちゃん、食欲旺盛だったよね」
かちゃかちゃと食器を洗いながら、桜乃が笑顔で振り返ると、相手はそうか?と言いながらも照れ臭そうに笑った。
「流石に寒くなってきたからな…鍋物になるとつい箸が進む」
「分かる〜…ここだけの話、準備する方も楽でいいの」
「そうか」
こっそりと正直に言う妹に笑みを浮かべた兄は、ふと、台所のシンク脇に置かれていた小皿に目をやった。
その上には、今日の鍋の具材がつみれなどを含めて少量ずつ置かれている。
最初は誰かの食べ残しかとも思ったが、どうも見た目はそれより綺麗だ。
食べ残しというものではなく、丁度それだけを取り分けているといった方が自然だろう。
「それは?」
「あ、えーと…」
真田の視線での指摘を受けた桜乃は、ほんの少しだけどもる様子を見せながらも、相手に答えた。
「お、横着かもしれないけど、明日のお弁当の具にしようかなって思って…ダメ?」
「いや、駄目ということはないが…」
そんなに気にしなくても、夕食のおかずが次の日の弁当のそれになる事はこれまででもよくあった事だし、畏まる必要はないと思うのだが…
「食べ物を粗末にするよりは余程いい事だ、気にするな」
「うん」
これからまた洗い物に集中するのだろう妹を労って、さわりと頭を優しく撫でてやると、それ以上追求する事もなく真田は自分の部屋へと戻った。
(明日の授業の準備をしなければ…時間割は…)
教科書や参考書を本棚から取り出しながら鞄に入れる作業をしていると、外からびょうびょうと強風が吹きつける音が聞こえ、それに続いてがたがたと窓が鳴った。
「…冷えてきたな」
もう秋か…と思いを馳せながら、ふと真田はしまった、と思った。
明日の授業の準備が終わったら、ここで少し読書でもしようと思っていたが、どうせなら台所に行った時にでも茶を貰えばよかったか…
「ふむ…」
あらかたの準備が終わった鞄を眺め、彼は読書に入る前にもう一度台所に戻ることにして、足早にそこへと向かった。
「桜乃? すまないが茶を煎れて…む?」
いない…?
「桜乃?」
先程までここでシンクに向かっていた筈の妹が忽然と姿を消していた。
もう片づけが済んだのだろうかと思っていたが、まだ食器はシンクに溜まった状態である。
あの娘が仕事を途中で放棄する事は考えられないが…何か急用でも出来たか?
仕方ない、出直そうか、と考えていた真田がふと視線を移すと、その先に半開きになって揺れる裏口の扉が見えた。
「…」
その時、初めて真田の背中に何か分からない悪寒の様なものが走った。
(先刻、ここに来た時にはあれは開いていなかった筈…なら、もしかして桜乃はその扉を開けて裏口から外に出たのか?)
因みに裏口から出ると、そこはもう庭である。
こんな夜に、一体庭に何の用が…?
まさか庭から玄関に回って、誰にも内緒で外出をしたとか…?
(い、いや、まさか桜乃がそんな不良の様な真似をする筈が無い! きっと何かの理由があるのだろうが…)
しかし、こんな所でそれを考えていても答えが出ないのもまた事実であり、真田は逸る気持ちを抑えつつ、同じく裏口に置いてあった外履きを借りて庭へと出て行った。
一歩外に出ると、強く吹き付ける風が遠慮もなしに肌の熱を奪ってゆく。
しかし、心が焦っている真田には、それを自覚する余裕もなかった。
何しろ可愛い妹の素行に関わる問題である、親代わりに面倒を見てきた男にとっては、何よりもその確認が優先事項になっていた。
「……?」
じっと耳を澄ますと、微かに風の声とは別物の、小さな声が聞こえてきた。
微かなその音は、音程から察するに女性の声だ…となると…
(…桜乃? 誰かと話しているのか?)
そう予想を立てた瞬間、今度は真田の顔色が一気に蒼白になってゆく。
ちょっと待て! 家の庭で誰にも知られぬ様に何者かに逢おうなど…それではまるで…
(まさか…逢引きっ!?)
何処の誰とも知らぬ輩に、家人の目を盗んで逢っているのでは!?と、真田はいよいよ混乱状態に陥ってしまった。
普段は常に平常心を保っている男が、この時ばかりは動揺も露にせわしなく辺りを見回し、更に声を頼りにそちらへと向かってゆく。
そして、家の外壁の角を曲がる少し手前で…
『…あんもう、そんなに焦らないでってば…』
いきなり壁の向こうから、明らかに妹の声色でそんな台詞が聞こえてきて、真田はその場で卒倒しそうになってしまった。
(な、な、な、な、な〜〜〜〜〜っ!!??)
まさか、まさか桜乃が本当に…何処かの男と逢引きをっ!?
心拍数が跳ね上がっている兄の耳に、更に妹の甘い声が聞こえてきた。
『やぁだ、くすぐったい…舐めちゃダメだってば…』
最早、卒倒のレベルは裕に突破し、真田の怒りの炎に、思い切りガソリンがぶちまけられた。
真田家の娘に恥じぬよう、これまで育ててきた自分の努力は何だったのか!?
そして、その妹をたぶらかした、不届きな男は絶対に許さんっ!! 刀の錆にしてくれようか!!
「桜乃―――――――――っ!!」
怒りも露に問題の角を過ぎ、妹の逢引きの現場を押さえようとした真田の怒声が庭中に響き渡った。
「きゃあああああっ!!」
「この兄に内緒でお前は何という不埒な…!!」
兄の叫びに慄き、こっそりと家の角の影にしゃがみこんでいた桜乃の悲鳴に構わず、尚も相手を糾弾しようとした真田の声が、中途半端に止まった。
「…ん?」
いない…桜乃一人しか。
逢引きならば、このタイミングであれば相手の男は逃げる隙も無かった筈なのに、そこには妹の姿しか見当たらなかった。
「…え?」
どういうコトだ…?と戸惑う兄の前で、桜乃はびくびくと小さく縮こまりながら、必死に相手に詫びていた。
「え――――んっ! お兄ちゃんごめんなさい! だって絶対に反対されると思ったから〜〜〜っ!!」
その桜乃の身体の向こう…先刻台所で見た鍋具材入りの小皿の傍で、小さな三毛猫がにゃあと可愛い鳴き声を上げていた……
翌日の立海…
昨日の真田家の騒動を聞かされた親友の幸村は、珍しく声を上げて笑っていた。
「ふふふっ、で、可愛い妹さんの逢引き相手は、子猫ちゃんだったって訳か」
「全く…人騒がせな」
ぶすっと仏頂面の真田は、他のレギュラー達も揃った昼食時のテラスで、その子猫事件についての顛末を話していた。
「どうやら、親猫からはぐれた一匹らしい。家の軒下で出産した様だが、親猫も他の子猫も見つからんでな…あいつが気付いたのは生ゴミを処分する為に庭に出た三日前で、それからこっそりと餌を与えていた様だ…」
「さっすがおさげちゃん、やっさしいよな〜〜」
嬉しそうにそう評する丸井はまごう事なき人間であるが、彼もよく桜乃からお菓子という餌を与えられて懐いている。
「何を呑気に…あれからこっちは大変だったぞ。桜乃は少しでも猫を家に置いてほしいとねだるし、親達の説得を頼まれるし、夜中にコンビニを回って最低限の物品を買いに走るし…とんだ騒動だ」
「………でも結局付き合ったんだよね? 弦一郎」
「………」
(あいっかわらず妹激ラブ…)
幸村の予想を、むすっとしながらも否定しなかった副部長に、全員がうわ〜っと感嘆の視線を向ける。
その通り。
何だかんだとここで愚痴は零しているものの、桜乃の秘密を知ったあの夜、真田はそれ程反対の意志も見せずに妹の望みを聞いてやったのだった。
この寒くなった時節に子猫を放置したら死なせるに決まっている、と、桜乃は兄に泣きついた。
そして、内緒で餌を与えて飼っていたことは素直に詫び、その上で改めて子猫の飼育をしたいと希望したのだという。
いつもならそこまでスムーズにはいかなかっただろうが、妹が男と逢引きをしていなかったので、もうその時点で他の事などどうでもよくなったらしい。
桜乃が変な男に熱を入れあげるぐらいなら、猫一匹に執着していてくれた方がマシ!と思ったのかは定かではない。
兎に角、真田は三毛猫の存在を家人に明かし、桜乃と共に当面の飼育の許可を貰い、それから街のコンビニを回って、取り敢えず必要な物を買って回ったのだった。
「へ、下手に反対したら、今度は桜乃が泣きかねんからな」
それなりの理由はつけるものの、どう見ても兄の方がかなり譲歩している。
「で、当の桜乃ちゃんは?」
「大喜びで、ずっと子猫につきっきりだ…躾に張り切っていてな…」
「ふぅん、昔の弦一郎みたいじゃないか。やっぱり血は争えないのかな」
「うるさい…ああ、そうだ、仁王」
「何じゃ?」
「お前、写真を撮るのが上手かったな…お前のデジカメで子猫の写真を撮ってほしいのだが、出来るか?」
意外な相手の申し出に、食事の手を止めてそれを聞いていた詐欺師は意外そうにしながらも、特に悩む様子もなく頷いた。
「それは別に構わんよ? 俺もその猫、見たいしのう…しかしお前さんにしては珍しい申し出じゃ、今度は親バカか?」
「いや、里親を募集するポスターに使おうと思う」
『…………』
沈黙が拡がったかと思ったら、幸村が物凄く恐ろしくも優しい笑顔で真田に迫っていた。
「ぶつよ?」
「断る」
断られても幸村の相手への糾弾は止まらず、ずびしっ!と真田を指差して彼は遠慮なく物申す。
「桜乃ちゃんが折角喜んでいるのに、早速その猫を手放そうだなんてどういう了見? 親御さんだって飼うことを了解しているなら、その必要なんかないだろう」
「そーだいそーだい!」
「副部長、横暴っす!」
「そういう事なら、出張料金、割り増しにさせてもらおうかのう…」
「貴様らここぞとばかりに〜〜…!」
次々と部員達が桜乃の味方に回る中、真田はわなわなと震えつつその理由を述べた。
「俺とてこういう真似はしたくはないがな、あいつに動物を飼わせるのは気が進まんのだ。そもそも桜乃は感受性が豊か過ぎる」
「…どういう事だ?」
感受性が今回の真田の所業とどういう関係が?と、冷静に参謀が尋ねると、気難しい兄は過去を思い出して眉を思い切りひそめた。
「…昔、あいつは金魚を飼っていた事があるのだが、それが死んだ時にすら一週間泣き続けて…俺はその一週間で体重が五キロ減った」
(うわぁ…)
「金魚ですらそうなのだから、それが猫になったら一体どうなることか…」
「まぁ苦労してきたのは分かるけどね」
必死に妹を慰める、困った様子の兄の姿が目に浮かぶ…と幸村にも苦渋の表情が伝染したものの、それでも彼は桜乃の意志を思うと賛成する気にはならなかった。
「昔と今は違うんだし、あんまり過保護にするのもどうかと思うよ。生き物の生死に関わるのも一つの情操教育だろう」
「それは確かにそうだが…」
そう認めつつも、まだ思い切りがつかないのか、真田もなかなか首を縦に振らない。
そんな時、彼らのいるテーブルの少し向こうに、見慣れた女子が歩いていた。
噂をすれば何とやら…その噂の渦中にある真田の妹、桜乃だった。
「あ、おさげちゃんだ!」
「…! あら、皆さん…お兄ちゃんも!」
彼らの姿を認めると、向こうは嬉しそうに笑いながらとことこと寄ってくる。
慕う兄がいるのも理由だが、彼の友人であるレギュラー達も桜乃にとっては頼りになる先輩達になるのだ…兄の思惑に関係なく。
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