「こんにちは、桜乃さん。子猫を飼い始めたそうですね」
「そうなんですよ!」
 柳生の軽い振りに、桜乃は早速飛びついた…やはり、非常に嬉しかった出来事の様だ。
「もう可愛くて可愛くて! おトイレもすぐに覚えて賢い子なんですよ〜〜」
(うっわ〜〜〜〜副部長化しとる〜〜〜〜っ!)
(甘やかしまくりだ〜〜〜〜)
 切原やジャッカルを始めとして、メンバー達が全員そんな感想を抱いている一方で、真田の表情だけが優れない。
 やはり、妹の手から猫を引き離そうとしている良心の呵責があるのだろうか?
「でも、お兄ちゃんったら、家の中では飼うなって冷たいんですよ〜〜」
「毛が飛ぶだろうが」
「……」
 暫くそんな二人の様子を見つめていた幸村が、徐ににこりと桜乃に笑いかけた。
「そう、とても可愛いんだろうね…ねぇ、桜乃ちゃん」
「はい?」
「もし、君の処でその子を飼えない事態になったら俺に言ってよ。すぐにウチに引き取って可愛がるから」
「ええ!?」
「ずっと飼えるかは分からないんだろう? どうしてもダメだって言われたらウチに連れておいで…そうしたら、君も会えるじゃないか」
 驚く桜乃の背後で、真田の顔が真っ青になる。
「いいんですか? そんな事になったら、毎日遊びに行っちゃいますよ?」
「勿論、歓迎するよ…泊まりに来てもいいんだし」
「うふふふ、また幸村さんったら…」
「〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!!」
 桜乃の背後から、彼女の頭上を過ぎる形で真田の殺意の篭った視線が幸村に注がれたが、相手は完全にそれを無視しており、結局、彼女がその場を離れていくまで気付かれる事は無かった。
「精市……貴様……」
 わなわなと震えて相手の胸倉を掴んだ兄に対し、親友は依然笑顔を浮かべてそっぽを向きつつ聞こえよがしに言い切った。
「ウチ、俺が園芸している分自然も多いし…子猫ちゃんも喜んでくれると思うんだよね」
「お前の所為で計画が台無しだ馬鹿者〜〜〜〜っ!!!」
 そう…これで子猫の仮の行き先は幸村の家になってしまった様なものだが、妹の身を案じる真田としては、それは出来る限りで避けたい。
 しかしここで内密にそれ以外の場所へ猫を譲渡する様な荒業をかましてしまったら…間違いなく桜乃は心に傷を負い、自分への妹の親密度が大幅にダウンしてしまう。
 これで当面、子猫を他人の手に手放す事は出来なくなってしまい、真田は思い切り怒鳴るとむすっとしながらその場から歩き去って行った。
「…相変わらず、強引っすね」
「まぁね」
 切原の呆れた様な口調にも幸村はにこやかに返したが、詐欺師は全て読んでいたかの様に言った。
「お前さんもよう分からんのう。本当に桜乃を通わせたければ、内密に事を運んだらええじゃろうに」
「俺だって命は惜しいさ」
 そんな事をしたら間違いなく真田が激昂して襲ってくるよ、と呵々と笑い、頷きながら幸村はこれでいいんだよと笑った。
「俺としては桜乃ちゃんが幸せなのが一番だからね」


「全くあいつは…どうしてあそこまで悪知恵が働くのだか…」
 その日の帰り道、真田は未だに治まらない怒りを胸にして帰宅の途にあった。
 呟いている内容は勿論、例の猫に関する幸村の発言である。
「しかし困った……子猫の内の方が引き取り手もあると思っていたが…」
 そう考えていたところで、ぽたっと彼の肩に水滴が落ちてきた。
「む…?」
 空を振り仰ぐと、曇り空から耐えられなくなった様に、しとしとと小雨が降ってきていた。
 自宅に帰るまでは何とか間に合うかと思っていたのだが…
(今更傘を出すのも面倒臭いな…走るか)
 幸い、もうすぐ行った先は自分の家であり、折り畳み傘を出す必要も無いと判断した真田は、鞄とテニスバッグを持ちながら、尚悠々とした動きで走り出した。
 そのお陰で、然程濡れることもなく、彼は玄関前へと辿り着いたのだが…
「…!」
 玄関の右柱の上部に、あの子猫がちょん、と座っていた。
 全身を濡らしながらも何処かで雨宿りをしようという仕草はなく、じっと冷たい雨露に耐えるように、頭を下に俯けて。
「……」
 柱の前で立ち止まり、視線を猫へと向けて、真田も暫くはそこに留まっていたが、相変わらず向こうは動かない。
 やがて猫の気持ちを察した真田は、言葉など解していないだろうと思いながらも、相手に声を掛けた。
「…気の毒だとは思うが、お前の親兄弟はもう戻っては来ないのだ。諦めて、中に入れ」
「にゃあ」
 か細い鳴き声だけを返した猫は、それでも一歩も動こうとせず、じっと雨の洗礼を受け続けている。
「……」
 ぐっしょりと濡れた身体はその毛がぴったりと全身に張りつき、細い身体が一層に骨と皮だけのそれに見える…最近まで野良だったのだから不思議でもない。
 その姿があまりにも憐れに見え、真田はふぅと溜息をつきながら手を伸ばして相手を持ち上げようとした…が、
 ささっ…
「……」
 今まで微動だにしなかった猫が、瞬間、数歩柱の向こうへと引いて男の手を逃れた。
 再度真田が手を伸ばしても、また向こうは数歩引く。
「……」
 何となく面白くない真田は、意地になって相手を捕えようとしたのだが、向こうも大した運動神経でさっさと避け続け、遂に一人と一匹の追いかけっこになってしまった。
「ええい大人しくしろっ! 家の中に連れて行ってやるというのにっ!!」
「シャーッ!!」
 そんな騒動の後、真田家の玄関の扉が開かれ、音を聞きつけた桜乃がぱたぱたとそこへ向かって見ると……
「きゃ―――――――っ!! 弦一郎お兄ちゃんっ!?」
 家に帰るまで少々濡れるだけで済む…と思っていた真田が全身ずぶ濡れの状態で、身体の前で子猫を抱えたまま立っていた。
 遂に捕まってしまった子猫は、今度はがじがじと相手の手に噛み付いている。
「三毛ちゃん…?」
「…風邪を引かれて家の前で死なれても困るだろう。風呂を借りるぞ」
「う、うん…」
 ちょっぴり気まずそうにしながら真田は子猫を抱えたまま風呂場へと直行していき、その後姿を見ていた桜乃は、相手が脱衣所に消えたところで、ぷっと軽く吹き出した。
(素直じゃないんだから…弦一郎お兄ちゃん)
 そして、真田と子猫は仲良く入浴をしていたのかと言うと…
『ああもう暴れるなお前は―――――っ!!』
『フギャ―――――ッ!!』
 とてもそういう事態ではなかった様で、密室の中からはまたも大騒ぎしている声が響いていたのだが、やがて、脱衣所の中から浴衣姿で雨の冷えから逃れた男が、くて〜っと伸びた猫の首筋を掴んでぶら下げた状態で出てきた。
 流石にこの軍配は真田の方に上がったらしい。
「手こずらせおって…」
 勝った方の男も、いつもより多少疲弊した感じであり、かなり接戦の状態だったことが窺える。
「俺の手からあそこまで逃れるとは…なかなかやるな」
 伸びたままの猫をそれなりに評価すると、真田は居間へと向かい、そこで腰を落ち着けると同時に子猫にドライヤーを当て始めたのである……


 その夜から、子猫の居場所に異変が起きた。
「…あらぁ?」
 夜、兄の部屋前の廊下を通り過ぎた桜乃は、開かれていた襖の向こう、胡坐をかいて読書をしていた彼の膝の上で、ごろごろと喉を鳴らしている子猫の姿を見て驚いた。
「三毛ちゃん、ここにいたの。いつもならベッドの中にいるのに」
 ベッドというのは人間のそれではなく、桜乃の部屋に置いている猫専用の寝床のことである。
 これまでは大人しくそこにいる事が多かった相手が、今日は何故かあまり接点の無かった兄の傍にいたからこその驚きだったが、真田は少し困った様子で妹を見上げた。
「何度も戻したのだが、その度にここに来るのでな…三往復した時点で諦めた。丁度良い、明日は特に早いから俺はもう寝なければならん。桜乃、こいつを連れていってくれ」
「はぁい」
 ひょいっと猫の首を掴んで相手を妹に引き渡すと、真田はそれからすぐに寝床の準備をして、言葉通り床に就いてしまった。
「じゃ、三毛ちゃんはベッドに戻ろうか」
 桜乃に抱かれた三毛猫は、大人しく彼女に抱かれてその部屋のベッドに一度は寝かされたのだが…
「えーと…私も宿題しなきゃ…」
 桜乃が真面目に机に向かっている間に、音をたてずにベッドから抜け出し、また部屋の外にとことこと歩いて行ってしまったのだった。
 しかし、勉強に集中する桜乃はそれに気付く事はなく、ようやく子猫の不在に気付いたのは、宿題が終わって大きく伸びをした時だった。
「うう〜〜〜ん……ん?」
 伸びついでに視線を送ると、ベッドの中がもぬけの空。
「え!? 三毛ちゃん!?」
 何処に行ったの…!?と慌てて部屋の外に出た桜乃は廊下を通りながらそこに繋がる部屋を一つ一つ覗いて回ったのだが、なかなか見つからない。
 そうしている内に真田の部屋へと近づいたところで、彼女はそこの襖が開かれ、中から明りが漏れているのに気付いた。
「あれ? お兄ちゃん…?」
 まだ起きているのかと、そっと覗いてみたが…彼はもう眠っていた。
(電気消し忘れて眠っちゃったんだ…疲れちゃったのかな)
 起きていたら子猫を見なかったか聞けたのに…と思いつつも、桜乃はそっと中へと踏み込み、猫が潜りこんでいないか探してみる…と…
「わ…」
 確かに潜り込んでいた…真田の布団の中に。
 しかも偶然なのか、彼が横に投げ出した腕の上に顎を乗せる形で身体を丸め、ぷーぷーと小さな寝息を立てているではないか。
(きゃ〜〜〜〜〜っ! 腕枕してる〜〜〜〜〜〜っ!)
 兄の方に子猫が懐いているのに一瞬嫉妬してしまった桜乃だったが、それはすぐに目にした光景で打ち消されてしまった。
 子猫の可愛さは勿論だが、いつもはとにかく厳格で他人に厳しい兄が、知らぬとは言え相手に腕枕をする姿は、妹から見ても十分『萌える』ものだったらしい。
(わわ…これは今の内に…!)
 慌てながらも、桜乃はポケットに入れていた携帯を取り出し、兄と子猫の方へと向けていた。


 翌日、放課後の立海テニス部部室…
「……」
 その日は朝から、異様な雰囲気が部内で流れていた。
 それに気付いているのは真田だけだったのか、それとも他の部員もそう感じているのか…
「???」
 別に何をした訳でもない、いつもの様にここに来て活動しているだけなのに、周囲の空気がやけに余所余所しい…と言うか気まずさを感じてしまうのだ。
 心当たりがあれば改めることについてはやぶさかではないのに、それが分からないからどうしようもない。
 一体何だろうかとレギュラー達に尋ねてもみたのだが、皆、明らかに顔が強張っているにも関わらず、教えてくれなかった。
(何だ、この痛々しいものを見るような視線は…)
 そんな事を悩んでいた兄が、コートを回ろうとラケットを握り締めて歩いて行った後、そこに丁度桜乃が見学に訪れる。
「…あっ、情報源来たっ!」
 いきなりの切原の言葉が合図だった。
 真田と幸村を除いたレギュラー全員が、一斉に桜乃の方へと突進していったのだ。
 それはもう見事なまでの反射神経だった。
「…な、何ですか?」
 いつになく大真面目な彼らの様子に引いてしまった桜乃が尋ねると、丸井が恐々と相手にある事を切り出した。
「あ、あのさぁ、おさげちゃん…俺達、見ちゃったんだけど……」
「はい? 何を?」
「え、えーと…その…真田の背中に…爪で引っ掻いたような跡が…」
 そう、朝練前の着替えの時間に、真田の背中に残っていた紅い爪跡を見た瞬間、メンバー達の目玉が飛び出したのだ。

(セクシー傷!!??)

 実際そうなのかと当人に聞ける筈もなく、結果、真田は周囲から奇異な視線を向けられる羽目になったのである。
 そこで、本人に聞けないのなら、私生活を知る妹に訊いてみようということになったのだが…
「…ああ」
 そこで全ての誤解を解ける唯一の証言者はにこりと笑って頷いた。
「単にお風呂の中で喧嘩しただけですよ」

『キャ―――――――――――ッ!!!!!!』

 但し、誤解は更に深く、取り返しのつかない方向へ進んでいったが。
「ふふふふふ、風呂場〜〜っ!?」
「一緒に入浴までする仲なんスかっ!?」
 ジャッカルや切原が思い切りどもりつつ尋ね返し、桜乃はこっくりと再び頷いた。
「最初は気が合わなかったみたいですけど、今はもう凄いラブラブで、腕枕までしちゃうんですから!」

『ギャ―――――――――――ッ!!!!!!』

 更なる狂乱の種が蒔かれ、男達はあわあわあわっ!!!と慌てまくり、実に怪しい動きをしていたのだが、そのすぐ背後から、
「騙るな、端折るな、ドン引くな――――――っ!!」
と、本人である真田が物凄い形相で割り込んできた。
 どうやら、先程までの彼らの会話を途中から後ろで聞き、何が話されどういう誤解を受けていたのかを察した様子だ。
「桜乃――――っ!! 誤解を生みまくるような話し方はやめんかっ!!」
「えー? だって本当の事だもん。こんなにラブラブだったのに」
 そう言って桜乃がぱかっと携帯を開いて見せた画面には、例の真田が猫に腕枕をして眠っている姿がバッチリと写っていた。
「気に入ったから待ち受け設定にしちゃいました」
「うわ――――――――っ!!」
 いつの間にっ!!と動揺しまくる真田の脇では、それを覗き込んだメンバー達が暫く沈黙し、やっと誤解が解けたと思いきや…
『なーんだ、つまんね〜』
 全員の残念そうな一言に、真田がいよいよキレてしまう。

『どういう結果を期待しとるんだ〜〜〜っ!!!』

 大騒ぎになっている向こうの様子を不思議そうに眺める桜乃の隣では、幸村と柳が落ち着いた様子で同様に騒動を眺めていた。
「何があったんでしょう…?」
「まぁ気にしないでいいよ…ちょっと考えたら爪跡の形でも分かりそうなものだけどねぇ」
「そもそも仕向けた張本人はお前だろう、精市…何故皆に説明しなかった?」
「面白そうだから。でも大体皆もうっすらとは分かっていたと思うよ? あの弦一郎だもの」
 きっぱりと言い切った部長は、相変わらず賑やかな向こうをくすくすと笑いながら見つめていたが、やがてその視線を桜乃へと移した。
「ところで、子猫ちゃんは結局、君の家で飼う事になったのかい?」
「はい。お兄ちゃんが家族を口説き落としてくれました。お兄ちゃんもあの子を気に入ってくれたみたいです」
「ふぅん…」
「私がママさんなら、お兄ちゃんは差し詰めパパさんだねって言ったら相変わらず照れてましたけどね」
(…あ〜〜〜〜〜、だからか……)
(それは喜びそうだな…)
 多分、それが決定打になったに違いない…と確信しながら、部長と参謀はまだ騒いでいる仲間たちの方を眺めていた……






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