ふわふわのお客様


「うっわぁ、なぁに、この子〜〜」
 その日の夕方、桜乃が学校から戻ってきた時だった。
 彼女は、いつになく賑やかな様子の自宅の庭を覗き、声を上げた。
 桜乃の自宅…真田家は、非常に広い敷地を誇っている。
 家屋も大きいが、所有する庭もかなりのもので、しかも手入れも普段から行き届いており、日本の良き文化を顕す庭園だと、兄の同級生である若者が褒め称えた程。
 いつもは静かな庭…しかも最近は、不貞の輩が侵入して来た時には、桜乃の兄である真田弦一郎が動くよりも先に隠密行動を仕掛ける家族が増え、以来、ここは更に鉄壁の防御を誇っている。
 そんな庭が、今日に限って何となく賑やかな雰囲気を感じ取り、桜乃が家に戻ってから縁側からそこを見てみると、意外な客が訪れていたのだ。
「可愛い〜〜〜!」
 桜乃が喜びながら声を上げた、その視線の先には二匹の猫。
 内、一匹は、先程の隠密行動を担う、自宅の飼い猫である三毛。
 そしてもう一匹は…何処の飼い猫とも知れぬ、長毛種の白猫だった。
 白猫とは言ったが、厳密には違う。
 その耳と四肢はやや茶色く、一見すると…タヌキに似ている気がしないでもない。
 しかしよく見ると、あれはやはり猫と呼ばれる類なのだろう。
 怪しい侵入者には容赦なく飛び掛って撃退する事を最近覚えたらしい三毛だったが、そのタヌキ猫と今は一緒にじゃれて遊んでいる。
 その様子は非常に微笑ましく、動物好きの桜乃は一目で夢中になってしまったのだった。
「三毛ちゃんより大きいね〜、でも、ここ辺りでは見たことないなぁ…何処の子?」
「ほあら〜」
 勿論向こうは人の言葉で応える事はなかったが、主人の桜乃が来た事に気付いてこちらに寄って来た三毛と一緒に、相手も近づいてくる。
 その動作には、人を恐れる様子は殆ど見受けられない。
「人馴れしてるんだ…よしよし」
 同じ猫である三毛が警戒心なく近づくのを見て無害な人間だと判断したのか、それとも己の本能でそうであると察知したのか…何れにしろ、桜乃が手を伸ばしても相手の猫は嫌がる素振りもなく、素直に彼女に頭を撫でられた。
「きゃ〜、ふわふわ! 三毛ちゃんと触り心地が違う〜〜〜」
 きゃあきゃあと喜びながら、桜乃はひとしきり三毛とその猫を撫でて可愛がっていた。
「でも、本当に逃げたりしないのね…毛並みも良いし、やっぱり飼い猫さんかなぁ。ウチの三毛ちゃんと遊んでくれてありがとね」
「ほあら」
 桜乃の膝の上に抱き上げられて素直に手櫛で毛を梳かれていたその猫が、不意にてしっと前脚を彼女の胸に置いて伸び上がり、桜乃の顔へと鼻を寄せてくんくんと匂いを嗅いだ。
「ん? なぁに?」
 にこ、と優しく笑って、桜乃は頭を下げ、相手の鼻に自分の鼻をちょん、とつけた。
 三毛を飼ってから知ったが、これは猫同士で仲良しさんになる仕草なのだそうだ。
 人と猫ではあるが、猫の流儀に倣っての挨拶を済ませ、桜乃は暫く相手の毛を優しく梳かしていたが、徐々に一つの不安が生じてきた。
「…飼い猫だとしたら、何処の子なのかなぁ…飼い主さん、心配しているんじゃないかしら…ねぇ、何処から来たの?」
 そう問い掛けても応えられる筈もなく、向こうは呑気に相変わらず桜乃の膝の上を独占している。
「うーん…」
 困ったなぁ…と思いつつ、桜乃は最悪の事態を考えながらも、それに合わせて一つのアイデアを思いついていた。
(もし迷い猫だったとしたら、貼り紙とかして飼い主さんを探してあげないと…うーん、でもそれでも見つからなかったら…)
 そこまで考えた後で、彼女はきょろっと傍の三毛に視線を向けた。
 向こうは、主人の膝の上を取られた代わりに、その傍に寄ってすりすりと身体を擦り付けている。
「三毛ちゃんと、結婚してもらってもいいかもね。この子、凄く良い子だし、三毛ちゃんも気に入っているみたいだし…」
 三毛はまだ子猫だけど、人と違って何年も待つことないし…とそんな事まで考えていた時だった。
「…! ほあら」
 不意に、されるがままだった白い猫が立ち上がり、桜乃の膝から離れて庭へと駆けて行く。
「あら?」
 どうしたのかしら、と思う彼女の前で、白いタヌキ猫はひょいひょいと庭の池の傍を通り、木々の狭間を抜けて、あっという間に垣根をすり抜けると、そのまま姿を消してしまった。
 垣根の隙間はかなり狭いものだったが、長毛種である事を考えると、本体は然程太ってはいなかったのだろう。
「あらら…行っちゃった…随分急いでいたけど…」
 もしかしたら、ご主人様の声とか匂いを感じたのかな…獣の五感は人間のそれより遥かに鋭敏なものである事が多いし…
 もし、主人の気配を感じたのなら、戻れてよかったけど……
「うーん…ちょっと残念だったね三毛ちゃん、折角良いお友達が出来たのに…」
 三毛は桜乃の顔を見上げてにゃあと鳴き、それからじっと相手の猫が消えた庭を見つめていた。



「………」
「………」
 その日の夕食時…
 立海大附属中学三年生であり、男子テニス部副部長でもある真田弦一郎は、いつもと明らかに様子が異なる妹に困惑の瞳を向けていた。
 おかしい…
 普段から『食事中は静かに』という家の規律があるので、食卓が必要以上に騒がしいことはないここ真田家だが…今日は明らかに変だ。
 いつもなら、食事を摂る合間合間ににこやかに話をしてくる妹なのに…今日は何故かずっと一言も喋らずに、黙々と食べ続けている。
 しかも、その視線も何処を彷徨っているのかも分からない…
(な、何か悩みでもあるのだろうか……)
 学内では厳しいことで有名だが、こと妹に関しては甘くなってしまう真田は、早速相手の異変に気付いて気を揉んでいた。
(ここはやはり、単刀直入に尋ねるべきだろうか…いやしかし、相手は妹とは言え思春期の女子だし、あまりあからさまにすると却って口を閉ざすかもしれん…ここは暫く様子を見て…いや、だがもしそのまま放置して何かが手遅れになってしまったら…)
 相変わらず妹が関わってくると途端に慎重になる…もとい優柔不断になってしまう難儀な若者である。
 真田は小さい頃から妹に一方ならぬ愛情を注いで育ててきただけに、相手の微妙な変化には親よりも先に気付く。
 もしその変化が体調不良によるものであれば、不安はあるにしてもまだ話は早かった。
 『早く寝ろ』と寝かしつけ、『飯を食え』と栄養価のある食事を準備して、看病してやれば済む話なのだから。
 しかし、今現在の彼女の体調はすこぶる良好であり、寧ろ、問題なのが内面…心にある事は、先程から繰り返し耳にする溜息からも明らかだった。
(勉強に関すること…ではないだろうな。もしそうだとしたら、これまでの経験からも既に俺に相談してくれている筈なのだから…しかし、桜乃の様なまだ幼い娘が、人生に悩むという事も考えにくいし…ううむ)
「弦一郎お兄ちゃん」
「う…うん?」
 不意にその妹から呼びかけられ、内心どきりとしながら反応を返した真田に、桜乃は何も知らない様子で微笑んで尋ねてきた。
「ご飯、おかわりどう?」
「あ、ああ……貰おう」
「はぁい」
 茶碗を受け取り、新たにご飯をよそう姿はいつもと変わりない…悩みがあるとは言え、そこまで逼迫したものではなさそうだが……
(…食事時は避けるか…二人になった時にでも聞いてみた方がいいのかもしれんな)
 小さい頃に虚弱だった事もあり、桜乃は真田だけではなく他の家人からも特に目を掛けられ可愛がられている。
 真田を今の真田たらしめるべく教育してきた祖父でさえ桜乃には何かと甘い一面を見せ、彼にも兄として助けてやれと常日頃から言っている程だ。
 そんな家人達の前で桜乃に悩みについて尋ねてしまったら、おそらくちょっとした騒ぎになってしまうだろう。
 幸い、桜乃のささやかな変化に気付いているのは自分だけの様だし…食事の後にも時間はある。
 そう決めた真田は、取り敢えずそこでの追求は止める事に落ち着き、その後はそのまま食事に集中した。
 そして食事が無事に済み、家人がそれぞれの部屋に散った後、真田は一度自室に戻ってから少しして、台所にいつもの様にお茶を淹れてもらおうと足を運んだ。
 タイミング良く、そこには今桜乃一人しかいなかった。
 今は、夕食後の皿洗いを熱心に行っている様だ。
「…あ、お兄ちゃん、お茶?」
「うむ…」
「今淹れるね、ちょっと待ってて?」
「ああ」
 手際よく身体を動かす様子は、本当に普段と変わりない。
 あの溜息は一体何だったのだろうか…?
 そう思っている真田の前で…
「…はぁ」
 またも桜乃が一つ大きな溜息。
「ど、どうした?」
 図らずも、尋ねる絶好のタイミングを得られた事で、真田はその機会を逃すまいと一番訊きたかった事を尋ねてみた。
「何か、心配ごとでもあるのか?」
「え、ううん、心配ごとって言うのか…」
「にゃあ」
 その場に小さな鳴き声が聞こえ、二人が視線を同時に向けると、三毛が彼らの気配を感じたのか台所に入ってくるところだった。
 実は、三毛は桜乃よりは真田の方により懐いている。
 拾ってきたのは桜乃なのだが、何故か人からは畏怖の対象となりがちな真田の方が、野生の獣はお気に召したらしい。
「三毛か、どうした?」
「にゃあ」
 真田が名を呼び、理解される筈のない言葉でそれでも尋ねると、相手は再度鳴きながら彼の方へとたたっと走りより、敏捷且つ器用に若者の身体を登って、ちょい、と肩に乗った。
「またか…立派に家の留守を守るようになったかと思ったが、まだ子供だな」
 真田の肩や懐の中が大のお気に入りである三毛が、自分の居場所の様に振る舞うことを止めない真田も、結構この小さな同居猫を気に入っている様ではある。
「だって三毛ちゃん、まだ子供だもん……はぁ」
 桜乃がそうフォローを入れて…再び溜息。
「?」
 本当にどうしたのだろうと悩む兄の前で、その幼い妹は少しだけ悩んだ後で、意を決した様に真田を見上げた。
「お兄ちゃん」
「ん?」
「真田家の家訓で言ったら…」
「家訓で?」
「…やっぱりお付き合いは、結婚を前提にした方がいいわよね」
「!!!」
 瞬間、真田の呼吸、いや、鼓動さえもが止まった。
 そんな男の異変を敏感に感じ取ってか、三毛が大慌てで肩から床に降りて逃げてゆく。
 しかし真田にはもうそれに気を向けるゆとりなど微塵も残っていなかった。
 お付き合い!?
 結婚!?
「…」
「…弦一郎お兄ちゃん?」
 どうしたのかと見上げる桜乃は、自分がどんなに大胆な発言をしたのか理解していないらしい。
「……許さん」
「え?」
 再び真田の中の時計が時間を刻み始めてから、彼はむんずと相手の細く華奢な肩を鷲掴みにしていた。
「絶対に許さん!! 付き合いなど、まだ子供の癖に早すぎるっ!!」
 寝不足でもないのに、いつの間にか目が血走っている。
 これが、相対しているのが桜乃ではなく後輩のやんちゃ小僧だったら、間違いなく涙目になって理由も分からずひたすらに謝り倒していたことだろう。
 その位…恐ろしい形相だった。
「そ、そんなぁ…確かにまだ子供だし早いと思うけど、そんな暢気な事言ってたら、いい相手はいなくなっちゃうじゃない。今日、凄くいい子見つけたの、お嫁にやりたくないならお婿で貰えないかなぁ…」
「不許可だーっ!!」
 自分と同様、奥手だと信じて疑っていなかった妹の続けざまの爆弾発言に、真田は理性を手放しかける。
 恋愛はその人の自由意思に拠るものだが、相手が可愛い妹であれば話は違う。
 まだ十をようやく過ぎた頃の未熟な人間が、恋愛などで現を抜かすなど、真田家の者としてあってはならぬ行為!
 というのは建前で、本音は単純に妹を他人に渡したくない兄心だったのかもしれないが、真偽の程は不明。
 とにかく、普段は妹の意思を最大限尊重してくれる筈の兄は、この時ばかりは力一杯否定した。
「たっ、たるんどる! 大体どいつだ!? お前をたぶらかすような不届きな奴は!?」
「たぶらかすって…相変わらず大袈裟なんだから。ええと、凄く気品があってハンサムだったわ、三毛ちゃんと一緒に遊んでくれてる間も気が合ってたし」
「ロクでもない奴ほど、そういう顔をするのだ!」
「ええ〜〜!?」
 妹がその対象相手にかなり入れあげていると察した真田が、声を大にして少女の訴える「お付き合い」を禁じる。
「とにかく! お前にはそういう話はまだ早いっ! 学生の本分は先ず何より勉学だろうが、それをしっかりと自覚せい!」
「だってだって、そういうお世話をするのも飼い主の務めじゃない!」
「いいや! 何をどう言おうとも断固俺は……飼い主?」
 え?
 あまりにもそぐわない単語が、混じっていた様な気が…
 何でそこに飼い主が…?
「?????」
 どういう事だ?と疑問に思い再び硬直する男の前で、桜乃は力一杯に主張する。
「お兄ちゃんも三毛ちゃんを可愛がってて手放したくないのは分かるけど、相手がいないままって可哀想じゃない! 今日遊びにきてた子、種は違うけど、相性はばっちりだったんだから! ちょっとは飼い主として責任を考えても…」
「ち、ちょっと待て!」
 激しく狼狽しながらそれ以上の発言を一時押し留めた兄の様子に、ようやく桜乃も違和感を覚える。
「…お兄ちゃん?」
「その…桜乃、今の話は、つまり…三毛の話か?」
「! 当たり前じゃない、一体誰の話だと…」
「………」
「…!」
 そして、真田のばつが悪そうな視線が真っ直ぐ自分へ向けられた事で、桜乃もまた大体の事を察してしまった。
「弦一郎お兄ちゃんのばかぁ――――っ!! そんなに私を早くお嫁にやりたいの!? 私っていらない子!?」
「ごっ! 誤解だ―――っ!!」
 そしてそれから就寝時間までの時間は、真田にとっての謝罪タイムになってしまったのだった。



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