お兄ちゃんの特別合宿(前編)


「桜乃、少し話があるのだが」
「? はい、弦一郎お兄ちゃん」
 その日の夜、夕食も終えたところで、真田家の娘であり弦一郎の妹でもある桜乃は、彼の部屋に呼ばれた。
 言われるままに部屋に赴き、先に正座をしていた相手の前に倣って座ると、桜乃はきょとんとした顔で相手に用件を尋ねた。
「なぁに? お兄ちゃん」
「うむ…お前も知っての通り、俺は明日から合宿に赴かねばならん。その前に、お前に今一度心得を伝えておこうと思ってな」
 相変わらず和服を纏い、固い口調で語る兄は到底中学生とは思えない。
 こういうシチュに追いやられたら常人ならば例外なく萎縮してしまうのだが、桜乃はもう長くこの兄とつきあって免疫が出来ているせいか、実に冷静に彼の言葉を受け止めていた。
「うん、確か十七歳以下のテニスに秀でた選手を集めて行われる合宿ね? そんな凄い処に呼ばれるなんて流石お兄ちゃん! 私も凄く嬉しい!」
 ぽむ、と手を叩いて心から賞賛の言葉を贈ってくれる妹に、うむ、と頷きながらも、真田は少しだけ不安を滲ませた顔で注意をする。
「しかし幾ら俺とて油断は出来ん。聞けばその合宿はかなりスパルタで有名らしい、一度入れば出るまで面会も叶わん場所だ。まぁ俺としては喜んで受けて立つ所存だが…桜乃」
「はい?」
「もし万が一俺に何かあっても、お前は真田家の規律を忘れることなく、真っ直ぐに生きていくのだぞ。家族の言葉を俺の言葉と思い、皆と助け合っていくように」
「……」
 テニスの合宿に行くにしてはあまりにも重い言葉に、桜乃が渋い顔をしながら首を傾げる。
(…テニス?)
 悩む妹に、その悩みは完全に無視で、真田は尚言葉を続ける。
「それでも困ったことがあれば、精市や蓮二達を頼れ。年齢上、即効性の金策は無理としても何らかの知恵は貸してくれる筈だ…但し、くれぐれも情にはほだされぬように!」
「……ええと、何の合宿だったっけ?」
「テニスだと言っているだろうが…自衛隊の合宿だとでも思ったか」
(そっちの方が合ってると思います…)
 と言うよりも、そうとしか思えない…と思いつつもそれ以上のつっこみを諦めて、桜乃はぺこりと真田の前で深々と礼をした。
「分かりました…心に刻んでおきます」
「うむ」
(……そう言えば、お兄ちゃんの修学旅行の時にも同じ様なことを言われたなぁ…万一の事を考えるのはいいんだけど、ちょっと…)
 大袈裟だよね…とこっそり思っていたところで、真田との視線が合う。
「? どうした?」
「う、ううん…評価されているんだからいいことではあるんだろうけど、暫くお兄ちゃんに会えなくなるのは寂しいなぁって…」
 多少ごまかしも入ってはいたが、殆どは桜乃の心からの本音である。
 他人から見たら厳格で融通が効かない堅物の男も、桜乃にとっては優しい兄なのだ。
 これまで修学旅行の様な一大イベントでもない限り、常に一緒に過ごしていた兄が合宿で長く家を空けるとなると、桜乃にとって寂しくない筈がない。
「し、仕方なかろう…これも俺にとっては修行の一環の様なものだからな…幾ら何でも男子限定の合宿にお前を同行させる訳にはいかん」
 そう断言しながらも、大事な妹に「寂しい」と訴えられた事で心は微かに揺らいでいるのか、真田がどもりながら視線を逸らす。
 桜乃が心から真田を慕っているのと同様に、真田もまた桜乃をとても大事にしているのだ…それこそ溺愛レベルで。
「はい…」
 素直に納得してくれた妹に満足げに頷いた後、真田は最後に今回彼女を呼びつけた最大の目的を果たすべく、ずいっと真剣そのものの表情で迫った。
「くれぐれも、何処の馬の骨とも知れん輩に騙される事のない様に!!」
「う、うん…」
 戻って来て、『彼氏が出来ちゃった』などと言われたら、おそらくこの男は正気を保ってはいられまい。
 しっかりと念押しした後で、真田は内心今回の合宿で得た幸運についても考えを巡らせていた。
(…まぁ、あいつらも全員参加する事になっているのだから、そこは都合が良かったな…誰かが外れて、俺のいない合間に自由にこいつと会えるようになっていたらと思うとぞっとする)
 真田が「あいつら」と言ったのは、彼と同じ立海テニス部レギュラーである七人の男達。
 全員、桜乃とは既に知己であるのだが、彼らは間違いなく彼女に対して等しく好意を抱いており、兄である真田の目を隙あらば盗んで彼女とお近づきになろうとしているらしい。
 例え相手が自分の親友であろうとも、当然真田があっさりとそれを許す筈もなく、これまでは悉く彼らの企みを封じてきていた。
 今回の合宿では彼らも全員参加予定の事実を確認しているが、桜乃がその場にいない以上、彼らも下手な手出しは出来まい…携帯のメールなどについてはどうしようもない部分もあるが、実際本人達が出会う事を回避出来るだけでも重畳…
(…幸い、桜乃はその手の話については俺同様に疎い部分があるからな…メールで何事か言われても理解するには時間が必要だろう…その間に潰せばよし)
 結構ひどい言い方ではあるが、真実である。
「俺の話は以上だ…呼び立ててすまなかったな」
「ううん、お兄ちゃんがいない間は、私がしっかり留守を守るからね!」
「頼むぞ」
 しっかりと兄妹の固い絆を確認してから、桜乃は真田の部屋を退室していった。
 残されたのは、部屋の主一人だけ…
「…ふぅ」
 一つ溜息をつき、彼の手が机上に伏せて置かれていた一枚の紙に伸ばされる。
 捲って眺めてみると、そこには既に何度も熟読した、合宿についての注意事項が示されていた。
(他校のテニスプレーヤーも招待されている以上、テニスに関連しての桜乃の知己はほぼ合宿所に隔離される事になる……全てを告げられないのは心苦しくはあるがやむを得まい。許せよ、桜乃)
 そして彼が最後にその視線を向けたのは、紙の一番下に記されていた項目…『家族の面会事項』だった……



『では行って来るぞ』
『いってらっしゃいお兄ちゃん! 怪我には十分に気をつけてね!?』

 そんな会話を玄関で交わして僅か数日…
 既に桜乃は兄のいない家でホームシックならぬブラザーシックに掛かってしまっていた。
「うう〜〜、寂しいよう、弦一郎お兄ちゃん…」
 何かにつけて、小言を言いながらも甘えさせてくれていた兄がいなくなり、桜乃は家ですっかり気落ちしている様子である。
「元気かなぁ…便りのないのは良い便りって言うけど……メールもあんまり送ったら雑念になって迷惑になりそうだし…」
 その日ももうすぐ週末になるというのにも関わらず、桜乃は部屋の中で一人小さく溜息を零していた。
(…まぁ、あの弦一郎お兄ちゃんが凹んでいる姿なんて到底想像出来ないし…強敵が出てきたら逆に大喜びで発奮するタイプだもんね…)
 桜乃の頭の中で、立海のジャージを纏った兄がラケット片手に『ふははははっ!』と笑っている。
 多少、イメージは大袈裟ではあるが、そう間違っているとも言えないだろう。
 そんな兄の姿を想像している内に、桜乃も少しだけ気持ちを前向きにして立ち上がった。
「うん…お兄ちゃんも頑張っているもんね。私も負けないように頑張ろうっと!」
 真田は小さい頃より桜乃をしっかりと親以上に厳しく躾けてきたが、その成果は確かに顕れている様である。
「こんな風に部屋に閉じこもっているから気分も滅入るんだわ…お掃除でもして気を紛らわせようかな…あ、そう言えばお兄ちゃんが出掛けてからお部屋掃除してない!」
 思い出し、桜乃は速効で兄の部屋の掃除をしようと決定した。
 人がいないからと言ってそれを怠慢の理由にしてはいけない。
 いつ誰が来ても堂々と見せられる様にしていてこそ、掃除をしたと言えるのだ。
(お兄ちゃんは、勝手に部屋に入っても怒ったりしないから助かるなぁ…他の友達に聞いたら、結構兄弟でも怒るって言うもんね…)
 人にはそれぞれのプライバシーがあり、それは守られて然るべきである。
 桜乃もその程度の事は十分に理解しており、あくまでも入室する目的は掃除であり家捜しではない。
 常々、真田もそれを承知しており、更に『見られて困るものなどない』という自負もあるので、桜乃が自分が不在の内に部屋に立ち入っても特に叱ったことはなかった。
 色々な意味で中学生離れしている兄妹である。
「お邪魔しまーす…うん、綺麗に片付いているね」
 これならゴミを回収してから軽く畳を箒で掃くだけでいいかな…と思いながら入室して、ゴミ箱を覗いて見ると、そこには二つに折られた紙が幾つか放られていた。
「ん…?」
 取り上げてみて、ひらりと自然に開いたその紙の内側を見ると、何かの地図と幾つかの項目に分けて記されていた注意書きがある。
「ん〜〜、あっ、お兄ちゃんの合宿の!」
 その地図は最寄り駅から合宿所までの道程が記されており、注意書きには場所の住所や緊急連絡先の電話番号、その他は参加する生徒へ向けての注意事項だった。
(住所とか電話番号はこっちでも控えていたけど、他にもこんなに注意事項があったんだぁ…お兄ちゃんが知っていたら十分だろうけど…どれどれ?)
 つい時間があることもあって、桜乃はまじまじとその紙に見入ってしまった。
 読めば読むほどにきっちりとした管理を行うらしい場所であるということが分かってくる…もし自分だったら一日で辟易してしまうかもしれない…
(う〜…お兄ちゃん大変そう……あれ?)
 最後の項目…『家族の面会事項』という文字を見て、桜乃が目をぱちくりとさせる。
 面会って、出来ないんじゃなかったっけ…?
 どういう事?と思って、桜乃はより注意深くその項目に目を通していった。
『基本的に、合宿中、訓練中の生徒との面会は禁止しておりますが、その他の定められた時間帯であれば面会を許可します。その場合は正面玄関の警備にその旨を申し出て入所記録に必要事項を登録、許可証を受け取った上で入所して下さい。また、退所する場合も同様に退所記録の登録を済ませ、許可証を返却して下さい。コートへの立ち入りは危険ですので絶対禁止。不明な点があれば合宿所本館受付、或いは下記の電話番号に…』
「……………」
 しーんとした真田の部屋の中、同じく桜乃も沈黙した。
 つまり…面会は出来るということですね?
「……うっ…」
 真実を知った妹は、紙から顔を離して一言。
「うそつきーっ!!」
 お兄ちゃん、面会は不可能だって言ったくせにーっ!!
 その瞬間、桜乃の翌日の予定は決まっていた……



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