お兄ちゃんの特別合宿(中編)
そして冒険は予定の時刻をやや過ぎて一つの大きな佳境を迎えていた。
「つ、着いたぁ〜…三十分遅れだけど、自分的には合格〜〜」
目的の合宿所の名称がデカデカと記された門の前で、桜乃ははふ〜っと大きく息を吐き出した。
今感じている疲労感は肉体的なそれではなく、迷っている最中に蓄積した精神的なものである。
目的地に到着した安堵感に浸った後で、桜乃は改めてぐるりと周囲を見回してみた。
(…すっごく広いトコロ…)
先ず門の大きさから驚かされた。
セキュリティー上の問題もあるのだろうが、前に立つだけで威圧感を感じてしまう程に高い門は、今は開かれているものの、その両端を見るとかなり堅牢な柵状の鉄扉が覗いている。
脇にはこれから自分が名乗り出る事になる警備室。
あまりじろじろと眺める事は出来ないが、ちらっと見るだけでも凄いハイテク機器が並んでいる。
そして門から奥へと通じる道はバスが通れる程に広く、両脇は常緑種を始めとする数々の樹木が植えられており、先にある筈の建物もここからは見ることすら叶わない。
まぁここまで来たのだから、後は歩いて合宿所を目指すのみである。
「…ええと、すみません」
「はい」
いよいよ警備室の中に声を掛けて、桜乃は窓際に寄って来た警備員の男性に申し出た。
「今ここで合宿中の生徒の家族なんですが…面会の希望はここで出したらいいんですか?」
「家族の方? ええと、高校生のクラスかな、それとも…」
「あ、中学生です」
「分かりました」
どうやら高校と中学で分けて管理されているらしく、警備員は所定の紙を近くの棚から選び出して、ボールペンと一緒に桜乃へと差し出した。
「じゃあここに、生徒さんの名前と貴女の名前、そして続柄を記載して下さい」
「はい」
一度荷物をそこに置いて、桜乃は言われた通りに所定の空欄に必要事項を書き込んでいく。
それを確認しながら警備員がふと彼女の手にしていた荷物を見下ろした。
「随分と大きな荷物ですね」
「差し入れなんです。着替えとお弁当…はい、これでいいですか?」
「結構です。入所時刻はこちらで打刻します。それでは、こちらの入所許可証をお持ち下さい」
そう差し出されたのはICチップが埋め込まれた一枚のカードだった。
専用ケースに入れられたそれは首から下げられるように紐もついている。
「ご家族用のカードです。ロックが掛けられている場所には近くにカードリーダーが設置されていますので、それを翳せば解除出来ます。但し、関係者しか入れない場所の場合はそのカードでもロックの解除は出来ないようになっていますので」
「うわ、凄いですね…あ、もしお兄ちゃんが忙しかったら、お部屋に先に入って待つ事は出来るんですか?」
「御身内の部屋のロックは解除出来ますが、他の生徒の部屋のものは当然不可能です」
「へぇ〜…」
ハイテクだぁ…と瞳をキラキラさせてカードを見つめる少女に、警備員が苦笑する。
「各所に監視カメラも設置されていますが、お気を悪くなさらないで下さい。これもセキュリティーの為ですから」
「はい、分かりました。色々と有難うございました」
ぺこ、とお礼をして中に入ろうとしたところで、桜乃はふと荷物のクッキーの包みに目を遣った。
そうだ、ここの警備の人にもお世話になっている訳だし…
「あの、遅れましたが兄が世話になっております。宜しかったらこれどうぞ」
「え? いいんですか?」
「はい!」
早速、持参してきたおひねりクッキーを一袋、警備員に進呈してから、桜乃はようやく合宿所の奥へと向かって歩き出した。
てくてくてくてく…てくてくてくてく…
かなり歩いていったところで、ようやく両脇の翠と紅に彩られた錦が途切れ、先が明るく開けてきた。
「……わぁ」
右も左も、凄い数のテニスコートが並んでいる。
全てのコートが塞がった状態で、男子生徒達が汗を流して試合に打ち込んでいる光景は、初めて見る人間にはかなりインパクトがあるだろう。
それは、桜乃も例外ではなかった。
(す、凄い…! ここまで緊張感が漂ってくる…)
自分もテニスを遊戯としてではなく競技として見ていたつもりだったけど…まだ認識が甘かったかもしれない。
全国トップクラスの人たちってこんななんだ…
(こんな所で弦一郎お兄ちゃん達は…)
現場を見て、桜乃は少し気後れしてしまう。
(ど、どうしよう、やっぱりお邪魔なのかな…お荷物だけ置いて帰った方がいいのかな…)
でも、こんなの見たら尚更お兄ちゃんが元気でいるのか心配だし…折角来たんだから一目ぐらい会いたいし…
そんな悶々とした思いを抱えて、ふと歩みが遅くなった時…
『―――――――ックナイフッ!!』
「え…」
ズバッ!!
誰かの声が聞こえて足を完全に止めるとほぼ同時に、桜乃の目前を何かの物体が有り得ない速さで横切った。
どの程度の速さかと言うと、その勢いの余波を受けた彼女の髪がぶわっと宙に舞い上がったくらい。
「ひっ…!」
その物体は更に進み、反対側のコートと道を隔てる金網にぶつかりガシャンッ!と派手な音を立て、ようやく失速して地面に落ちる。
視線だけ動かし、その物体がテニスボールだという事を確認した桜乃が、再度視線を動かして反対側…ボールが飛んで来た方のコートを見ると…
「…」
隔てている金網の一部に穴が開いていた…丁度、テニスボールサイズのものが。
更に視線を動かすと、最寄のコートのこちら側の面で、一人の生徒が仰向けに倒れている。
『おーい、大丈夫かー?』
『コートから引きずり出せー! 鬼先輩の一撃食らったら暫くは無理だ』
状況から察するに、今目の前を疾走したのは、あの金網をぶち抜いていったテニスボールであったらしい。
掠りもしない、ギリギリのところで助かりはしたが、もし直撃していたら…
「〜〜〜〜〜〜!」
今更ながらに過ぎていった恐怖を思い、桜乃がへたっとその場に座り込む。
するとそれまでコートの方に集中していた、倒れた生徒の相手…つまり、例の暴走ボールを打った人物が桜乃の姿に気付いたらしく、のしのしとこちらに向かって来た。
「あ? 誰だ、お前は」
金網の出入り口になっている扉を抜けて、桜乃の傍に寄って来たのは、明らかに初対面の男だった。
見るからに強面で…そしていかめしい。
男がコートを離れて向かった先の桜乃を見て、他の生徒達がこそこそと囁きあった。
『おい、女だぜ、しかもあんな気弱そうな…』
『あーあ、鬼先輩に寄られたら、すぐに泣き出して帰っちまうじゃねぇか』
『ああいう意味でも、アニキは番犬だからなぁ…』
あの女の子、気の毒に…と皆が軽く注意を向けていたが、実際、桜乃にとってはどうでもいいことだった。
今、彼女を支配しているのは、鬼と言われた男の顔立ちや口調ではなく、飛んでいったテニスボールと、コートに横たわっていた生徒の姿から引き起こされた恐怖だったのだから。
「? 大丈夫か、お前」
「すっ…すすすすすみませんっ、かっ、軽く腰が抜けました…っ。じ、自衛隊の合宿場とは知らなくて…!」
「あ? テニスの合宿場だぞここは…迷子か?」
「……」
それを聞いた桜乃は、再びちらっとコートで倒れている若者の姿を確認した。
向こうはまだノビている様子でぴくりともしない。
「あ、あの…あの人…」
明らかに戸惑っている相手に鬼があっさりと慌てもせずに断りを入れる。
余程肝が据わっているか、過去に同じ経験があるのか…それとも両方か。
「只の練習試合だ」
「…試合? テニスの…?」
「そうだ。ワシの技ならあの程度の金網、簡単にブチ抜ける。実力もないのに下手な気起こして返そうとするからあんな目に遭うんだ、ったく…」
「………」
相手の説明を受ける内に、桜乃にも徐々に冷静な思考が戻って来た。
試合…確かに、テニスの試合で怪我をしたりする話もよく耳にする…目の前の光景にはそれでも少し…いや、金網をボールがブチ抜くとかかなり違和感は覚えるけど…
(という事は、この人もお兄ちゃんと同じ、招待された生徒さん…?)
素直にそう考えた後で、桜乃がまじっと鬼の顔を見上げる。
「……」
「……」
じーっと二人が見つめあう現場を、周囲の高校生達が固唾を呑んで見守った。
『うわ、泣くぞあの子』
『声も出ないぐらい怯えてんじゃん』
あ〜あ、と全員が哀れんでいる中での桜乃の脳内思考は、しかし彼らの予想からかなり隔たっていた。
彼女は全く怯えてなどいなかったのだ。
(ここにいるって事は高校生か中学生だと思うけど…うーん、弦一郎お兄ちゃんは中学三年生でしょ? それよりもこの人はちょっと年上に見えるなぁ…でも、そんなに怖い人じゃないみたい。心配して来てくれたし)
実際、鬼の風貌は正直成人男性のそれとほぼ違わず、ついでに言うと見た目からして怖い。
これまで一般人からも殆どそう看做されてきたのだが、同じく厳格な顔立ちを持つ兄の真田のお陰で少女はかなり特殊な感覚を養っていたらしく、彼女が相手に怯える理由は一切なかった。
「…すみません、あの…高校生の方、ですか?」
「!」
(ええーっ!!?? 初めてアニキが学生扱いされた―――――っ!!??)
これまでは高校生どころか、大学生に見られた事も殆ど無かったのに!!
周囲が驚愕にざわめく中で、指摘された本人も意外過ぎたのか言葉を失っている。
そんな鬼の様子に、桜乃は見誤ったのかと慌てて確認する。
「あ、あれ? 違いましたか?」
(すげぇ!! 目がマジだ、あの女っ!!)
ぜんっぜん怖がってない!
番犬を恐れない部外者が来るのは久し振りだ…しかもあんな子供で!
「鬼、だ。鬼十次郎…高校三年」
まだ腰が抜けている相手に自己紹介しながら、鬼が手を差し出した。
「す、すみません…」
その大きな手に縋りながら桜乃も久し振りにようやく立ち上がり、ぽんぽんと服についた砂を手で払うと、改めて相手を見上げた。
真田とほぼ同等か、更に高身長に見える。
(やっぱり高校生…となると、お兄ちゃんの或る意味先輩なんだ。さっきの技とか見ると凄く強いんだろうな…て事は、お兄ちゃんも絶対にお世話になるってことだよね…)
そこまで考えて、桜乃はきらきらきら…と輝く瞳を相手に向けた。
(これは是非! 家族としても御挨拶しておかなきゃ失礼よね!!)
「…?」
一方、そんな瞳を向けられたことなどこれまで皆無だった鬼は、対処の仕方も分からず心で冷や汗を流していた。
(何なんだ、この女…)
しかしそう思っていても事態が進む訳もなく、彼は取り敢えず桜乃の持っていた或る物に気付いてそれについて話を振った。
「…その許可証」
「?」
「それを持ってるってコトは、家族の面会でいいんだな。間違って来た訳じゃないんだろう。誰の…」
「あ、その…」
そこで桜乃は『真田弦一郎の妹です』と名乗ろうとしたのだが、咄嗟のところで、脳内の自分からストップが掛かった。
もしここで彼の実妹だということを知らせたら、もしかしたら兄にも自分が来たことがすぐに伝えられるかもしれない。
そうなると連絡をしていない分、兄が大慌てでここに向かって来るのは容易に想像出来る。
となってこの場での再会となると、ここで説教された挙句にそのままUターンで返されてしまう可能性も高い訳で…
(ふっ…懐に飛び込むまでは伏せておいた方がいいよね…ごめんなさい、お兄ちゃん)
桜乃にとっては精一杯の悪知恵を働かせて、彼女は鬼に何とか上手い言葉で誤魔化した。
「ち、中学生の兄がこちらにお世話になっていまして、許された時間内なら面会可能と聞きましたから着替えと食事の差し入れに…」
「ほう…若いのに感心だな。中学生なら…」
そう言って、鬼はすっと道の更に先を指し示した。
「この先真っ直ぐ行った先の建物の裏側にあるコートでメニューをこなしているだろう。脇道に逸れなければ迷わずに行ける」
「そう、ですか…ご丁寧にどうも…あ、そうだ」
ふと、桜乃は持って来た荷物の中にごそりと手を入れて、例のおひねりクッキーを一袋取り出すと、鬼にもそれを差し出した。
「お世話になりました…つまらない物ですが、宜しければ休憩の時にでも召し上がって下さい」
「…っ」
にこ、と微笑みながらそれを手渡してくれた少女に明らかに戸惑い、鬼は所在無さげに視線を脇へと逸らした。
「…ワシはまだ試合がある。もういいか」
「は、はい、あのっ」
「?」
行こうとする男を呼び止めて、桜乃は深々とお辞儀をした。
「どうか、これからも兄のご指導を宜しくお願い致します…鬼様」
「〜〜〜〜ま、まぁ前向きに考えておく!」
「はい」
これ以上はその場にいられないとばかりに、鬼は再びのしのしと足早にコートへと戻って行き、桜乃は荷物を抱えて道を先へと進んで行った。
そんな彼らの様子を眺めていた高校生のコートでは、ちょっとした恐慌が生じていた。
(ここの番犬を遣り過ごしたーっ!!)
(伝説になるぞあの女っ!)
(兄って言ってたけど、一体誰の妹だ!?)
しかし、その場には既に回答を与えてくれる者は存在せず…
「てめぇらとっとと持ち場につかねぇか――――――――っ!!」
もしかして照れ隠しなのだろうか、と疑ってしまう様な鬼の怒声が響いていた…
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