桜乃が鬼から簡単な説明を受けてから十分後…
「あああ、迷った…」
 全くもってのお約束…桜乃はあれだけ簡単だと言われていたコートへの道を何処でどう誤ったのか、どう見てもマラソンコースだろうという場所を右往左往していた。
(うう、綺麗な鳥さんが飛んでいたからちょーっと脇道に逸れただけだったのに…)
 間違いなく、それが原因である。
(どーしよー…元の道に戻って…って、どっちから来たんだっけ、私…)
 どうやらきょろきょろ頭を動かしている内に、完全に方向感覚を狂わせてしまったらしい。
 これもまた、自業自得。
 でも、動かずにいても事態は進展しないし…と思っていると…
 がさっ…
「ひゃっ!」
 すぐ傍の茂みが動いて枝擦れの音が響き、桜乃が驚いて飛びずさる。
(な、なにっ…!?)
 びくびくしながら蠢く茂みを見守っていると、やがてその向こうからぬ〜っと一人の若者が頭を掻きながら立ち上がって、自分の立つ道の方へと歩いてきた。
 明るい色のくせっ毛で、目はとろんと寝惚け眼…どうやら今まで眠っていたらしい。
「あ〜〜〜…よく寝た…でも寝すぎた…跡部、怒ってるだろうな〜…」
 声にもまだ明らかに眠気が篭っている若者は、傍にいる桜乃にも気付かない様子でのって〜っと何処かに向かって歩いて行く。
「あ、あのう…」
「ん?」
 呼び掛けられて、彼はようやく彼女の存在に気付き…足を止めて軽く向き直った。
「あれ〜? どうしてここに女の子がいるの…? 男子の合宿所でしょ、ここ」
「すみません、家族の者なんですけど迷ってしまって…中学生がいるコートに行きたいんですけどご存知ですか…?」
「中学生? ああ、んじゃあ俺の行くトコと同じじゃん…いいよ、ついといでよ」
「あ、有難うございます!」
 親切な若者の言葉に心底感謝しつつ、桜乃はほーっと安堵の溜息を吐き出した。
(良かった〜〜〜〜!! こんな所で行き倒れにならなくて済んだーっ! そんなコトになったら、お兄ちゃんまで何て言われるか…)
 内心慄いていた桜乃は、ようやく落ち着いたところで、前を行く若者に興味を抱いた。
「あの…貴方も中学生なんですね?」
「そう、ジローだよ、芥川慈朗…君は〜?」
「えっと…桜乃、です」
「ふーん、桜乃ちゃん…」
 苗字に興味を示さずにいてもらえたのはラッキーだった…単に寝惚けていただけとも言えるが。
 しかし、芥川は寝惚けていながらも地理感覚は桜乃より遥かにしっかりしているらしく、戸惑いを一切見せる事もなくのて〜っと歩を進めていたのだが、ようやく合宿所の本館と思われる建物が見えたところで、徐々に彼の肩が落ちこんできた。
「あの…どうかなさいましたか?」
「んー…跡部が怒ってるだろうからなぁ…つい長々と居眠りしたから…まぁ俺が悪いんだけどさ〜」
「跡部…?」
「あれ? 跡部知らないの? 氷帝のテニス部部長で、すっごい女の子にモテるんだよ〜。ちょっと俺様だけど実力は確かだよ」
「…強いんですね?」
「強いよ〜、そりゃもう」
「ふぅん…立海の真田さんとどっち?」
 ちょっとだけ好奇心が湧いてそう尋ねてみると、ぴくん、と肩を揺らして相手が振り返った。
 ほんの少しだけその瞳から眠気が消えている。
「立海の真田さん知ってるんだ…ウチの跡部、いつか立海に殴りこみかけたんだよ。殆どの部員は討ち取ったんだけど、真田さんと勝負するってところで向こうの部長さんからストップが掛かったって」
「あ…」
 そう言えば…そういう話を噂で聞いた気がする…その事件は、立海内でもかなり有名になっていた。
 何処かの学校の生徒が、たった一人でかなりの数のテニス部員をのしたって…
 兄や部長の幸村に尋ねても、詳しい事は教えてもらえなかったけど。
 実はそれが、『奴も一応、性格はアレだが顔は良いし、何かがあってからでは遅すぎる。桜乃の身と心の安全の為には、わざわざ会わせる必要も知らせる必要もないということで!!』という彼ら二人の共謀だという事実は、桜乃は勿論知らない。
「まぁ規律を乱す事だから、止めるのは当然だけどね〜…けど、もし戦っていたらどうなってたか…見たかったなぁ」
(そ、そんな人が部長さん…氷帝って、凄いんだ!)
 今までは立海にしか興味を向けていなかったけど…そんな事を聞いたら他校にも興味が湧いてしまうなぁ……
(てことは、氷帝は立海のライバル…同じ中学生でもあるし、ここでもしっかりとご挨拶をしておかなきゃ!…なるべく匿名希望で…)
 そうしている内に、ようやく芥川は目的のコートへと到着した。
 そのコート脇のベンチでは、一人の美丈夫が泰然と両腕を広げてベンチの背にそれを掛け、今行われている試合の様子を観察していたが、視線が芥川に定まるとその瞳が鋭さを増した。
「ジロー、ようやく来やがったか」
 続けて、傍に立っていた別の若者も、困った表情でこちらを見据えてくる。
 彼もまたベンチの若者に負けず劣らずのイケメンであり、トレードマークらしい眼鏡に軽く手をやりながら口を開いた。
「ジロー、何しとったんや今まで…跡部がカンカンや」
「ごめ〜ん…ちょっと」
「私が道に迷って、助けて頂いたんです」
「…え?」
 いきなり背後から口を挟んできた桜乃に、芥川自身が驚き振り向いた。
 同時に、跡部と背後の若者の興味も一時、少女へと移る。
「…何だ、お前は」
(あ、確かに俺様って感じの人…でも格好いいなぁ…体型はともかくとして世の中、テニスしたら顔まで良くなるジンクスでもあるのかしら?)
 俺様振りについては前もって聞いていたからあまり驚かずには済んだなーと思いながら、桜乃は相手に一礼する。
「面会に来たんですけど、途中で迷ってしまって…芥川様が私を見つけてここまで連れて来て頂いたんです。お陰で助かりました」
「…………」
 言葉を挟むことも出来ず、芥川は何度も視線を桜乃と跡部の間で彷徨わせる。
 どうしよう、嘘を言ってるわけじゃないし…でもこの子、絶対に俺のコト、庇ってくれてるよね…?
 明らかに挙動不審になっている芥川をじっと見つめていた跡部は、しかしそれ以上は何も言わずに視線をコートへと戻した。
「…遅れた分、続けて出てもらうからな、すぐに準備しろ」
「! あ、はい」
 そのまま芥川を責めることなくコートへと送り出した後、跡部と背後の若者は改めて桜乃へと目を向ける。
 こんな場所に女子…面会、という事は誰かの家族ということか?
 特に見覚えはない…少なくとも氷帝の誰かの家族という事は有り得ないだろう。
「で? お前は誰かとの面会に来たのか?」
「はい…」
「ふん…?」
 眼力で見たところ芥川とは初対面だろうが…そんなヤツを庇うなんざ酔狂な女だ…しかしこう言っては何だが、俺がイラついている時に堂々と臆せずに声を掛けられる奴はそういない…しかも女で。
(見た目は……まぁ絶世の、というものでもないが……しかし『様』付けとはな…俺の事は知らない様だし一般の家の女子がそう使う言葉でもない。氷帝にいるお嬢ならまだしも、同レベルの学校なんて他にあったか…?)
 物怖じせず、芥川を庇う行動を取った少女に少なからず興味を抱いたのか、跡部はじっと相手を凝視したが、その行為を別の一人が止めた。
「ちょお、待ちーや跡部。初対面で女の子にその態度はないやろ。ちゃんと挨拶ぐらいせな…堪忍やで、お嬢ちゃん。ええと、こいつは跡部景吾…俺は忍足侑士言うんや、宜しゅうな」
 にこやかに挨拶をしてくれたフェミニストに、桜乃も微笑んで挨拶を返す。
「桜乃と申します…跡部様については少しだけ芥川様からお聞きしました。立海に一人で殴り込みをかけられたそうで」
「何か引っ掛かるなその言い方」
「けど間違っとらんやろ」
「ちっ…」
 忍足の突っ込みもあって舌打ちした跡部に、桜乃は興味を示しながら遠慮がちに尋ねた。
「テニス、お強いんですね…おに…ええと、立海の副部長の方とは決着をつけられなかったとか?」
「ああ、真田か…別に今すぐ相手してやってもいいぜ? あいつが強いのは認めるが、どうせ勝つのは俺様だからな」
(うわ自信家だぁ…でもあんまり腹が立たないのは、自信家振りがお兄ちゃんと似ているからかしら…?)
 考える桜乃の脳裏で、兄の真田が『ふははははっ!』と笑っている。
 そんな兄を思い出したところで、桜乃はその場に自分が探す家族がいない事を目で確認し、どうしようと密かに悩んだ。
 ここでいつまでもお喋りしている訳にはいかないし…お昼もそろそろ近づいてきたコトだし…
 ここまで来たら、素直に立海メンバーの居場所について思い切って尋ねるべきだろうか…?
 そう思っている桜乃の背後を、丁度二人の氷帝のメンバーが通り過ぎた。
「25Bコートって何処だったか覚えてるか? 長太郎」
「本館を挟んでこのコートの反対側ですよ、宍戸さん。丁度、立海の皆さんがいらっしゃいましたね」
「ちっ、ここってだだっ広いから覚えるのが面倒なんだよなー」
 それは正に桜乃にとっては神の天啓だった。
(25Bコート…ッ!)
 そこに…お兄ちゃんがいる!?
「…おい?」
 いきなり瞳を輝かせた少女の様子に跡部が訝しがって声を掛けると共に、相手はそわそわと急いだ様子で暇を告げた。
「すみません、急ぎますからここで…あ、そうだ」
 兄と同じ中学生の方々にはお土産があったんだった、と思い出し、桜乃は手早く荷物の中からそこのコートにいた生徒の数の分のおひねりクッキーを取り出すと、どさりとベンチの上に積み上げた。
「?」
「あの、これ皆さんでどうぞ…兄がお世話になります。あ、跡部様?」
「ん…?」
 クッキーの山に唖然としていた帝王に、身元不明の少女はにこりと屈託ない笑みを浮かべて断言した。
「立海の副部長さん…跡部様が思っているよりもきっと、すーっごく強いですよ?」
「!?」
 正直その台詞より、相手の笑顔に言葉を封じられてしまう。
「うふふ…失礼します」
 帝王の言葉を封じたまま、桜乃は軽くなった荷物を再び抱えて、建物の反対側にあるというコートに向かって歩き去っていった。
「…………」
「…何や、おもろい子やなぁ…けど、聞いたところじゃあ、残念ながら立海贔屓らしいけど」
「…」
「…跡部?」
「誰の家族なんだ…? あの女」
(お、珍しく興味示しおったでこの帝王が…)
 いつもなら、話し終わって数分後にはそいつの顔も覚えとらんような女につれない奴やのに。
 帝王も人の子…べたべたと言い寄られるよりも淡々としたつれない相手の方が気になるらしい。
 まぁ確かに、結構可愛え子やったけどなぁ…と忍足も跡部の内心には賛成の意を抱いている一方で…
「凄いですね。何ですかコレ?」
「よく知らねーけど、どっかの謎の行商人が置いてったらしいぜ?」
「へー、ここと契約でも結んでるのかな」
 微妙にずれた話題が、コート脇で湧き上がっていた……



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