愛しい証
中学テニス 関東大会決勝 会場…
その快晴の日、若者達が次なる舞台への切符を賭けて全力で戦っていた。
この日のカード…青学VS立海
中学テニス界でも一、二を争う強豪同士の対決は、否が応でも白熱するものとなり、大いに観客を沸かせていた。
しかし、戦っている男達は、そんな観客のことなどまるで眼中にはない。
特に、立海の面々に関しては、ただ飽くなきまでに勝利を切望していた。
自分達の為でもある、しかしそれ以上に彼らが求めていたのは、ここにいることが叶わなかった朋友への最高の手土産を得る為だ。
幸村精市…立海の部長を務める男は、今頃は彼自身の戦いに身を投じている。
そう…言葉の通りに、身を投じている。
彼は孤独に戦っている、しかし、そこには自分達の心も在るのだと立海のメンバー達は信じて戦っていた。
青学にも譲れない理由はそれぞれあるだろう、しかしそれはこちらにとっても同じことだ。
仲間の為に、自分達の為に、勝たなければならない…
立海のメンバーの中で、特にそういう思いを強くしている男がいた。
真田弦一郎…テニス部副部長を務める、幸村と同じ三年生だ。
彼とは幼馴染でもあり、長くこのテニス部で戦友としても親しくしていた真田は、その責任感の強さもあり、これまで部長不在のテニス部を率先して導いてきた。
屈強な身体と豪胆な精神は、これまでの彼自身の鍛錬による賜物であり、そしてそれらは本人の自信にも繋がっている。
人には厳しく、しかし己にはもっと厳しく…
強さや勝利に何よりも貪欲な男は、確かに今の彼の座に相応しいだろう。
だからこそ彼は呼ばれることを許される…尊敬と畏怖の念を込められ、『皇帝』と。
「ああ…こちらももうすぐだ…なに、問題ない」
会場がいよいよ始まろうとしている戦いに興奮している時…
人がいなくなったロビーで、一人真田は佇み、携帯電話を手にしていた。
目に見えない糸で繋がっているその先には、同じく戦いを控えた仲間がいる。
「俺達も必ず勝つ…お前も、頑張れ」
それはまるで、己自身にかける呪詛の様に。
きっと自分達以上に緊張の極みにあるだろう友人に、これ以上心の負荷をかけない様に。
皇帝は絶対の自信と信頼を込めて相手に告げ、そして…繋がりの糸を切る。
しかし心は繋げたままに。
「……」
軽く息を吐き出し、そして自分達の控えるベンチへ向かおうとした時だった。
『きゃああっ!!』
「っ!?」
およそこの場には相応しくない、女性の悲鳴が聞こえた。
もし彼以外の人物がここにいても聞く事が可能だっただろう、しかし今は生憎、この場に存在する人間は真田一人だった。
(何だ…?)
悲鳴は一度きり…今はもうここは元の静けさを取り戻して……いや?
『おい、どうするんだよ』
『ほっとけよ、勝手に帰るさ』
『誰にも言うなよ』
「?」
真田の視界に、柱の陰からロビーを駆け抜けていく男達の姿が映って…消えていく。
立海の応援席の方へと走ってゆくのは三人の男達、その全員に真田は見覚えがあった。
あって当然だ、彼らもまた自分と同じテニス部の部員なのだから。
違うのは、自分はレギュラーであり、彼らは非レギュラーだということ。
そして…彼らと自分のテニスに対する熱意、だ。
(あやつら…何をやっている)
自分の知る三人だと知った真田は、途端に渋い顔をする。
同じ立海テニス部に属してはいるが、彼らの常日頃の練習に対する態度は、あまり自分を満足させるものではなかったからだ。
真田は、別に非レギュラー達にも自分達と同じ能力を求めている訳ではない。
元々持っている能力ではなく、それを引き出し伸ばす、本人の努力が必要なのだ。
レギュラーになりたいのならそれなりに自身を磨けばいいものを、磨くどころかやたらと口ばかりを汚すことに夢中になっている。
その態度が気に入らない。
向こうはばれていないと思っているだろうが…甘い。
(…後で注意をするとしても…)
何だ、今の悲鳴は…
真田は少し前に耳にした悲鳴へと意識を戻した。
相変わらずここは心地よい程の静寂に包まれていた。
遠くから聞こえる会場の喧騒以外は、本当に何も聞こえない…
そんなロビーを真田はゆっくりと周囲に注意を払いながら歩いた。
足を進め、あの三人が走っていた場に差し掛かった時に彼の視点が一点に集中した。
「…?」
最初に立っていた場所からは死角になっていて気付かなかったが、柱の陰に用具倉庫らしい扉があった。
その扉が不自然に半開きになっている。
他のどの場所もきちんと管理されているだけに、それだけがやけに目立っていた。
「……」
何となく気になるところは調べたくなるのが人情。
真田も人間である以上その誘惑に抗えず、抗う理由もなく、ゆっくりとそちらへと近づいて、きいと扉を開いた。
そこはすぐに部屋に繋がっている訳ではなく、下へと続く階段が現れた。
「…!」
その階段を下へ下へと視線で降りて行くと、その先に誰かが倒れている姿が見え、真田の心を僅かに冷やす。
「おい!?」
慌てて階段を駆け下り、その人物の傍へと膝を付いて覗き込むと、ドアから入る光線で女子だと分かった。
おさげ…長いおさげでそれを知り、制服を見て更に詳しい情報を得る。
「青学の生徒か…大丈夫か?」
「…っ!」
ばしっ!!
差し伸べられた真田の腕に視線を向け…立海のテニスウェアを見た瞬間、相手の少女は激しい勢いでその腕を跳ね除けていた。
「!?」
意外な…予想もしていなかった反応に真田が驚愕している間に、その少女は更に視線を上に向ける…異常に怯え、恐れた様子の瞳を。
そして真田と視線を合わせ…僅かにその瞳に困惑の色が滲んだ。
「…ちがう…?」
「え…?」
「!…」
自分が言った一言に、少女はは、と口を押さえてそれ以上の発言を避ける仕草をすると、それから改めて真田を見つめた。
「あ、の…あなたは…」
「立海の真田だ…お前は、青学の生徒だな」
「はい」
「こんな所で何をしている」
そう尋ねながら、真田は腕を伸ばしてぞんざいに彼女の片腕を掴んで引き上げようとした。
それは、確かに彼の優しさであったのだが、この時は裏目に出てしまった。
「いた…っ!!」
「っ!?」
悲鳴に近い大声を上げられてしまい、力を込めていた腕を慌てて下ろした真田が相手を見直すと、少女の顔には酷い苦痛に耐える苦悶の表情が浮かんでいた。
それでも必死に唇を噛み、歯を食い縛っている様子から、少女が精一杯声を出すまいと努力しているのが分かった。
「す、すまん…! 何処か、痛んだか…?」
「ご…めんなさい……足、が…少し」
「足…」
階の下へと投げ出されていた両脚は、一瞬想像した様な、おかしな方向へ曲がっているなどという事はなかったが、真田が右足首に僅かに触れただけで、少女のそれはびくんと戦慄き、苦痛を訴えた。
幸い、骨が折れているというような最悪の事態は避けられているようだが…感じている痛みに対してはあまり慰めにはならない。
投げ出された身体…痛む足…
単純に考えたら、何かの拍子に足を滑らせるなどしてバランスを崩し、右足を下にして倒れ、そして傷めてしまったというところだろう。
「…立てるか? 手を貸そう…」
「やってみます……すみません」
謝る少女に注意を払いながら、真田は彼女の手を取った…ところで眉をひそめる。
階段で転倒した時、足だけを怪我する事は却って難しい、少し冷静に考えたら分かる事だ。
しかし、目の前の白く細い腕に鮮やかな赤い打ち身の痕を見てしまうと、やはり心が痛んだ。
それが自分の身体のものではなくても。
「ゆっくりでいい…無理をするな…」
「は、はい…」
少女のそれぞれの手をしっかりと握りながら、皇帝は名前も知らない彼女をゆっくりと引き上げる。
今度は、悪戯に相手に苦痛を与えることがない様に…細心の注意を払いながら。
「……」
精一杯の力を込めて自分の手を握ってくる白いそれがあまりに細くて、真田は内心驚いていた。
自分は同年代の男性の中でも一際長身である、当然女子と比べたらその差は一層顕著だ。
しかし、それでも…こんなにも?
全く分からないのは、自分がこれまで一度も女子とこんな風に触れ合ったことが無いからだが、それは責められるべきことではないだろう…おそらく。
「…っしょ…っと」
ようやく桜乃が真田の手に助けられて、直立姿勢に戻る。
但し、右足は膝を曲げて地面に着くことを頑なに拒んでおり、出来損ないの案山子を思わせた。
「やはり痛むか…」
真田の沈痛な面持ちに、少女は申し訳なさそうに、一度、二度、右足を敢えて階段に下ろしてはみたものの、爪先が触れた瞬間にはもうそれが跳ね上がっている状態だった。
触れただけの刺激が足首の患部にダイレクトに伝わり、反射を起こさせているのだ…彼女の意思に関わらず。
「救護室へ行こう」
「いいえ、ベンチに…」
男の申し出に、しかし娘は頑なにそれを拒み、ベンチへ戻ることを希望した。
「ベンチ…? 観戦席に行ってもその足では…」
「レギュラーのベンチに行けば、おばあちゃんがいますから…こういう処置もしてくれると思います」
「!?」
相手をただの観客とばかり考えていた真田にとって、今の言葉は十分に意外なものだった。
レギュラー!?…青学のレギュラーのベンチだと?
そこにいる『おばあちゃん』と呼ばれるぐらいの老年の女性…考えられるのは一人しかいない。
「…まさか、お前の言うおばあちゃんとは…竜崎先生のことか?」
自分の学校の教師でなくとも、敵方の顧問の名前程度は知っている。
真田の答えに、相手はこくんと頷いた。
「……竜崎スミレは、私の祖母です…私、桜乃っていいます」
「…それは…また…失礼した」
「いいえ…助かりました」
男の詫びに、しかし桜乃と名乗った少女は首を横に振り、初めて安心した様な笑みを浮かべた。
「…本当に、来て下さって助かりました……私一人では、ずっとここで動けずにいたでしょうから…有難うございます」
「……」
儚く消えてしまいそうな微笑…危うさを伴いながら、見る者に鮮烈な印象を残す笑み。
今まで生きてきて、こんなもの、初めて見た。
「え、と…真田さん…でしたよね?」
「!…あ、ああ」
見蕩れていたところに自分の名を呼ばれ、僅かに取り乱しながらも真田は上手く繕った。
「御迷惑をおかけしました…あの、すみません、上までは手を貸して頂けませんか? それからは自分で何とかします」
「何とか…とは言うが、どうするつもりだ、ベンチまではここから結構あるぞ」
「片足で何とか」
「……」
だから『何とか』とはどういう事だと…と思いつつも、それ以上の討論は避けて、真田は今は彼女をベンチへ届けることを最優先で考えた。
となると…自分が考えうる最良の手段は…これだ。
「きゃ…っ」
軽く相手の身体を抱き寄せると、それを勢いにして皇帝は幼い少女を軽々と身体の前に抱き上げた。
所謂、お姫様抱っこだ。
「さ、真田さん!?」
「動くな、落ちるぞ」
慌てて四肢をばたつかせてしまった相手の行為をぴしりと一言で封じると、彼は早々に降りていた階段を再び昇り始めた。
人を一人抱えているなど思わせない程に軽い足取りで。
「わ……」
しかし密着した身体からは揺れが直接伝わり、桜乃の身体が不安定に揺れる。
「しっかり掴まっていろ」
「でも…その…」
「掴まれと言っている」
「は、はぁ……それじゃ…失礼します…」
男に繰り返し促されて流石に断りづらくなったらしい桜乃は、自分を抱えている彼の腕の上で上体を起こすと、そのまま両腕を相手の首に回して縋りついた。
ぎゅっ…
「っ!!」
せいぜい肩に手を置かれる程度と考えていた皇帝は、全く予期していなかった攻撃に対して硬直してしまった。
首に回された柔らかな腕…衣服越しとは言え、胸に密着してくる小さな身体…そして微かに鼻腔をくすぐった甘い香り…
今までの彼の人生において、何一つ経験のないものだ。
「〜〜〜〜!!」
何をどう言うべきかと脳がフル回転しながら、目が胸元の少女へと向けられる…が、伏目がちに恥らう相手の顔を至近距離で見た所為で、更に脳は加熱し、危険信号まで発してきた。
「!!!!!」
結局、言葉を探しきる前に真田は視線を再び前に向け、足だけを動かすことに専念する。
「その…っ…青学のベンチは、何処にあるんだ…」
「あ、こっちの道を真っ直ぐに行って…」
ほっそりとした指が指し示す先…ただひたすらにそれだけを見つめながら、真田は異様に高鳴る胸を必死に無視し、相手にそれがばれないようにと願いながら、歩き続けた。
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