「真田!?」
 青学のベンチをいきなり訪問した皇帝の姿に、驚愕しない者はいなかっただろう。
 別に特別なセキュリティーが敷かれている訳ではないのだが、まさか立海の副部長が、試合を前に敵方のベンチを訪れるなど、誰も想像は出来なかった。
 しかもその格好が…
「竜崎、どうしたんだ!?」
 しっかりと真田が桜乃を胸に抱いている姿は、十分に人目を惹くものであり、それは相手が誰であろうと関係なかった。
「桜乃! どうしたんだい?」
「ごめんなさい、おばあちゃん…」
 駆け寄ってきた祖母に最初に詫びると、桜乃は自分をここまで運んでくれた恩人を見上げた。
「…真田さんが、助けて下さったの…あの…転んで動けなくなってた私を見つけてここまで…」
「見つけてって…一体どんな場所で転んだって言うんだい。とにかくこっちにおいで、真田もすまなかったね、私の孫が迷惑を掛けた。副部長なのに、こんな所で余計な時間を潰させて…」
「いいえ、大した事ではありません」
 迷惑を掛けたのは…おそらく……
 何かを考えた真田だったが、今は桜乃を祖母の手に引き渡すことを優先し、ゆっくりとベンチの中を進んでいった。
 青学のメンバー達が一斉に彼へと視線を向けたが、皇帝はその全てに僅かにも臆することもなく、歩いてゆく。
「ここに座らせておくれ」
「はい…下ろすぞ、竜崎」
「は、い…」
 頷いた相手をゆっくりと青いベンチへと下ろす。
 殆ど負荷にもならない少女の重みが離れてゆく……
 柔らかで温かな感触も…甘い香りも…離れてゆく…
 ほんの少しだけ名残惜しいと思ったが、決して顔には出さず、その感情もすぐに心の奥底へと封じ込める。
 そんな真田の行動の一方で、祖母である竜崎スミレは手早く桜乃の靴と靴下を脱がせて、息を呑んだ。
「お前…よく耐えたもんだよ、呆れたね」
「えへへ…」
「!!」
 靴などが外れて露になった娘の足首を見た真田も、また、言葉を失う。
 足首から甲にかけての部分で赤と青の色が混じりあい、そして風船の様に倍近くまで膨らんでいた。
 まさか、ここまでとは…!
「竜崎! お前…何故言わなかった! こんなに腫れて、並の痛みではない筈だ!」
 知っていれば、知らせてくれれば、間違いなく救護室に運んでいたものを、と真田が桜乃に迫ったが、相手はにこ、と笑って手をひらひらと振った。
「だ、大丈夫です…もうあまり痛みは感じませんから」
「麻痺しているんだっ!!」
 痛みがないから大丈夫…ではない!
 痛みが感じられない程に重傷なのだ!
「大石、水をそこのバケツに張って、持って来てる氷をありったけ入れておくれ」
「はい、竜崎先生」
 真田だけでなく、他のメンバー達も一斉にその場に集まり、少女の足を見て一様に顔をしかめる。
「竜崎、医者に見せた方がいいって」
「嫌です」
「すっげぇ腫れてるぞ」
「大丈夫です」
「ここはいいから、せめて救護室に…」
「行きません」
 悉くメンバー達の忠告を断って、珍しく桜乃はここに留まることを希望する。
「私もここで試合を見るんです…その為に来たんですから」
(……どうでもいいが)
 彼らのやり取りの中で、一人、真田だけが困惑している表情を浮かべていた。
 別に敵方のベンチに居心地を悪くしている訳ではない、その理由は……
(…どうして俺が、こういう状況に陥っているのか……)
 ちらりと視線を下に向けた先…その先にある自分の左手…を、桜乃がしっかりと握り締めていた。
 ベンチに彼女を下ろし、それから傍に付いてはいたが、いつの間にかこうして手を握られている。
 多分、相手も無意識の行為なのだろう、まるで自分に注意を向けている様子は無い。
 おそらくは、周囲の勧告に強く抗いながらも、押し切られてしまうかもしれないという不安感がこういう形で現れてしまったのだろう…が…
(…ここまで必死だと、振り解くのも躊躇われるな……)
 まぁ、ほとぼりが冷めるまでこのままにさせておこうと決め、真田は知らん振りを決め込んだ。
 小さな手に握られるのも、別に不快ではない…寧ろ……
(!…何を考えている、俺は…)
 一人、うろたえる真田を余所に、大石が準備したボウルに桜乃が足を浸し、その冷感に顔をしかめた。
「しっかり冷やすんだよ。しかし、本当に何処でそんな怪我をしたんだい、お前は…」
「あ…それは別に…本当に、散歩してて…」
「竜崎先生、それについては…」
 桜乃が説明を始める脇で、真田が何かを発言するべく口を開いたが…
「っ!!」
 瞳を大きく見開いた桜乃が、握っていた彼の左手にもう片方の手を伸ばし…
「〜〜〜っ!!!!!」
 見事に皇帝の口を塞ぐことに成功する。
(つねった!)
(今、つねったよな!?)
(あの真田の手の甲を、おもっくそつねってたぞ!?)
 青学のレギュラー達が物凄い現場を目撃したが、誰も口には出さない。
 その隙に、竜崎スミレに背を向けて甲の痛みに必死に耐えている真田の隣で、桜乃が一気に捲し立てた。
「ほ、本当に転んだだけなの! 転び方が悪くてこんなになっちゃって、でもロビーには真田さん以外、『誰も』いなかったから…!」
「別に疑っちゃいないよ、そんなに慌てることはないだろう?」
「う…」
「…取り敢えず、今はここで冷やして様子を見るけど、もっと酷くなりそうだったら即刻病院に行ってもらうからね、大人しくしとくんだよ」
「…はぁい」
「〜〜〜〜」
 背中側で尚も痛む甲を擦りながら、真田が憮然とした表情を浮かべていると、竜崎スミレがぽんと彼の肩を叩いた。
「ウチの孫を連れて来てくれて有難う…いよいよ決勝だね、お互いに良い試合をしようじゃないか」
「…望むところです」
 答えた若者にスミレが笑って頷くと、ベンチの桜乃から離れた場所にメンバーを集め始めた。
 少し早いが、最後のミーティングか…
 彼らが離れ、再び二人だけになったところで、桜乃が真田にこっそりと小さな声を掛ける。
「さ、さっきはごめんなさい…!」
「…連れて来た礼にしては、結構ひどい扱いだったがな」
「あうう…だって…止めないと、真田さん……本当のコト、言いそうだったから…」
「……」
 本当のコト……ということは、やはり…
「…やはり、お前に酷いことをしてしまったのだな…俺の責任でもあるのに、何故止めた」
「だって…真田さんは助けて下さいましたから…良い人…でしたから」
「…」
 自分の学校の生徒に酷い目に遭わされたというのに、それでも微笑む娘に視線を合わせられず、真田は目を逸らして沈黙する。
 最初から……そうではないかと思っていた。
 あの時見た三人組の会話…彼らが出て来た場所…そして何より、初めて自分が彼女に手を伸ばした瞬間に見せた、怯えの表情…
 きっと、青学と立海の戦いを前にして高揚した奴らが、青学の生徒だった彼女に因縁をつけるなどしたのだろう。
 真田の脳裏には、今も、あの時の桜乃の怯え、恐れる顔が浮かんでいた。
 本人もそうだが、それを見せられた自分も正直辛い…
 真田弦一郎という人間の行為に対するものではないのに…無性に、悲しかった。
 だから竜崎スミレに真実を話そうとしたのだ、甘んじて責めを受け、少しでもこの娘に対して償いになるのならと。
 結局、彼女本人に阻止されてしまった訳だが。
「しかし…俺の気が済まん。何の責任も取らずに許される訳が…」
「…誰に許されようと思っているんですか?」
「…え?」
「……私なら、もう許していますよ?…と言うより、別に真田さんに何か責任を負わせようと思っている訳でもないです。それに…」
 桜乃の真摯な瞳が、真っ直ぐに真田を射抜く。
 小さな少女なのに、驚くほどにその光は強かった。
「もし真田さんがそれを言って、問題が大きくなったら…決勝戦はどうなるんですか…真田さん以外のメンバーの方々は」
「…っ」
「…責任を取るなら、もっと別の取り方があると思います…ここで青学と全力を尽くして戦うのが…本当の責任の取り方じゃないんですか…?」
「! それは…」
 鋭い指摘に真田が言葉を失い、桜乃はそれを見て再びふわんと笑った。
「偉そうなこと言って、ごめんなさい……でも、本当に気にしないで下さい、私、真田さんには感謝しかしていません」
「……竜崎」
「…えへ」
 見下ろしてくる真田の視線を恥ずかしそうに俯きながら受け、改めて桜乃は相手の左手に視線を止めた。
「…本当にすみませんでした…そんなになっちゃって」
「ん?」
 見ると、左手の甲の一部が赤くなってしまっていた…桜乃の小さな攻撃の痕だ。
 しかし、今は真田はそれを微笑んで見つめ、掲げてみせる。
「いや…丁度良い戒めだ…これを見る度に思い出すとしよう、俺が本当に何をするべきなのか…先ずは全力を以ってこの大会…勝たせてもらう」
 隠せない優しさが滲んだ不敵な笑みに対し、桜乃もぺ、と小さく舌を出して笑った。
「青学も、負けてませんからね」
「ふ…」
 互いに笑い合い…そして真田はその場で暇を告げた。
 桜乃の足も気になるところだが、もういい加減自分も戻らなければ…
「ではな…くれぐれも足を大事にするのだぞ」
「はい…あ、真田さん」
「ん?」
「…頑張って下さいね」
 今日という日は敵ではあるけれど、心からの応援の言葉を送り、桜乃は微笑んだ。
「…有難う」
 真田もそれを心で受け取り、青学のベンチを後にした…大事そうに、消えてくれるなと、左手の甲の赤みを右手で押さえながら……


 立海側のベンチに戻った真田が先ず行った事は、他のメンバーとのミーティングでも、自分のラケットの確認でもなかった。
「…お前達には、最早立海テニス部員を名乗る資格はない…表沙汰にならなかったことを相手に感謝するのだな」
 ベンチの裏でそう言う彼の前で、三人の部員達が這いつくばっていた。
 あの三人…桜乃に謂われない傷を負わせた三人が、真田からの鉄拳をまともに受け、倒れている。
 その様子を見ていた他の非レギュラーや、レギュラー達でさえ、皇帝のいつにない気迫に驚いていた。
「おいおい…骨は大丈夫だろうな、あいつら…」
「何だよぃ、いつになく荒れてんな、真田の奴」
 ジャッカルや丸井が囁く向こうでは、切原が青い顔でその様子を眺めていた。
「副部長…本気で怒ったら、あんなになるんスか?」
 自分への鉄拳制裁などまだまだ優しい方だ、あの一撃に比べたら……
「しかし、理由は分かりますが…それにしても並の怒りではありませんね」
 柳生…に化けた仁王が彼らしく眼鏡に手を触れて呟くと、仁王に化けていた柳生がきろりと瞳を青学側のベンチへと向けた。
「…あそこに居る子が随分と気に入った様じゃの」
 向こうに姿を見せている間、真田がやけに相手を気遣っている様子だった…それに関係しているのかもしれない。
 本物の仁王ではなくても…その程度のことは、読める…
「…既に、その三人の名前は部の名簿から完全に抹消しておいた…もう止めておけ、弦一郎。時間の無駄だ」
 参謀の柳も、三人を擁護するつもりは全く無いらしく、振り返りもせずにそれだけを言った。
「……失せろ」
 言い放ち、真田は彼らに背を向ける。
(あの子に…俺に向かってあんな顔をさせたなど…)
 許せるか…!
 怒りに燃えた瞳のまま、真田は孤高の皇帝に相応しい笑みを浮かべ、右手で左の甲を軽く触れていた。

 ただ一つ…大切なものを見つけた証を愛でるように……






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