憧れの人
立海大附属高校…
生徒の自主性を重んじ、文武両道に秀でたこの学校は、日々平和に穏やかに、生徒の学び舎としての役を担っている。
そしてそこでは勉学に励む生徒達と、彼らを見守り支える教師達が、日々、信頼という絆の許で学校生活を送っていた。
ここに一人の教師がいる…竜崎桜乃。
今年この学校に赴任してきたばかりの新米教師であるが、彼女もようやくこの学校に慣れ、生徒達とも良好な信頼関係を築きつつあった。
元々が温和で優しく、相手を慮る事が出来る女性であったことが、生徒達の共感を呼んだのが理由だろう、更に元々立海という学校そのものが生徒の自主性を重んじることから、彼らの反発を生みにくいという土壌もある…しかし最大の理由は…
「先生、おはよー!」
「はい、お早うございます、元気がいいですねぇ」
のほほんとした空気を振りまいて、その日も桜乃は生徒と一緒に通学路を歩いていたが、先程からずっと生徒達から挨拶を受けては返している…特に男子生徒。
『うわ、俺、挨拶しちゃったよ、竜崎先生に』
『相変わらず、すっげぇ美人だよな〜、あの長い黒髪がなんつーかさぁ…』
生徒達がそんな会話をしていることには全く気付く素振りもなく、桜乃はゆっくりと通学路を辿りながら今日の予定を反芻している。
「えーと…今日の午前中は生徒集会があって、午前の授業…あ、小テストの採点を休み時間に済ませて…と」
『たるんどるっ!!』
そんな桜乃の耳に心地よい程の怒声が聞こえてきて、彼女は驚きぴょっと軽く肩を竦めてしまった。
しかし、それが誰であるかを悩む様子はなく、代わりに首を傾げて苦笑する。
「…相変わらず元気ね。真田君は」
そうか…確かに今日は風紀委員の校門指導がある日だった、と思い出し、彼女はそれから少しの距離を経て校門へと到着した。
それに従い、そこに立つ風紀委員達の姿が確認出来、その中でも一際長身の若者の姿が目に留まった。
彼は一人の女子生徒を前にして、厳しい表情で何かを叱り付けている様子だ。
彼が、桜乃が呟いた『真田君』…高校三年生…そして、風紀委員長。
別名、『鬼の真田』と呼ばれるほどに厳格な性格で生徒だけでなく教師からも恐れられる男だった。
中学生の時にも同じく風紀委員長の任をこなし、その功績は最早伝説と化しているとか。
悪人ではないのだが、何しろ自分にも他人にも厳しく、毅然とした態度は近寄りづらい雰囲気となって、人が近づくのを避けているのだ。
「そもそも学生でありながらそんな校則に反した制服を着るとは何事だ、そんな心構えでは…」
叱る真田の前の少女は、既に彼から受けた一喝で心が折れてしまっている様子で、しゅーんと項垂れてしまっている。
「…お早う、真田君」
「…っ、竜崎先生…?」
「お早う」
「…お早うございます」
桜乃に声を掛けられ、そちらを見た瞬間、怒っていた真田の表情が明らかに戸惑いのそれに変わり、彼女から挨拶を促されると、視線を逸らしながらそれに応じた。
真田の表情は何となく気まずそうだったが、桜乃はそれよりも叱られていた少女の姿をさっと軽く眺め見た。
上半身は問題ないのだが、下半身…スカートが少し短い。
しかし、あからさまに短くしている訳でもなく、桜乃は更にスカートに注目し、軽くその生地に触れると頷いた。
「うーん…ちょっと仕立てるときに失敗したのかな…それとも家で洗濯したの?」
「え?」
何を言っているのかと怪訝な顔をした真田の前で、少女が怯えた様子で桜乃に頷いた。
「お洗濯、間に合わなくて…家でやってみたら…」
「そう、でもそんなに目立たないから大丈夫よ。一応、担任の先生に届けた方がトラブルは防げるから、宜しくね」
「は、はい」
「うん、じゃあ、行っていいよ」
真田に了解を取らずに、桜乃は少女を学校へと行かせると、改めて真田に向き直った。
「女子のスカート、少し縮みやすい生地なのよ…不幸な事故ね」
「む…し、しかしそれなら、最初からそう言えば…」
くい…
「っ…!」
言葉の途中で、真田は眉間を相手の親指で軽く押され、言葉を途切れさせた。
ぐっと身を乗り出され、桜乃の顔が自分の間近に迫っている…微笑んだ顔が。
「ほらほら、そんなきつい顔をしないの。そんな顔をされたら、弱気な女の子は怯えちゃうだけよ?」
「…っ!」
にこにこっと笑顔で笑う桜乃の顔を間近で見てしまった真田が、瞳を大きく見開き、それから慌てて顔を背けてしまう。
「分かった? 真田君」
「ぜっ…善処しますっ」
かろうじてそう答えた真田の顔が微かに紅潮していたが、桜乃は完全に気付いていない様子でうんと頷いた。
「そうそう、笑顔よ? 真田君は、笑うととても素敵なんだから、勿体無いわ」
「す…」
何も深く考えずさらりと言った女性教師は、相手が硬直してしまう一方でさっさと校門を抜けていってしまった。
「……」
最早、何も言えなくなってしまった真田を遠巻きに見ていた他の風紀委員達がこそこそと囁きあう。
『…また負けたな』
『あの真田先輩とまともにあんなに話せるって…新米教師の中じゃ竜崎先生だけだよ』
『いやいや…他の先生でもあそこまでは…』
「…ふぅ」
授業が済むと、真田は風紀委員室を借りてそこで昼食を取りながら次の議題の案件に目を通していたが、時々彼の唇から、深いため息が漏れていた。
「……」
箸が止まり、真田の視線が案件からも外れて宙を彷徨う…その視界の向こうには、朝に見た桜乃の朗らかな笑顔が浮かんでいた。
何度消しても、気を抜けばすぐにまた浮かんでくる…授業中もそれでどれだけ難儀したことか。
(悪意がないのは分かっているが…あまりにも無防備と言うか天然と言うか…)
最初に会った時から、初めて見る人種だと思った。
あそこまで心の垣根が無くて、こちらへと自然に踏み入ってくる人間はそうそういるものではない…
しかも、ずかずかと我が物顔で立ち入られたら不愉快の極みだが、彼女は相手の心を本能で読んでいるように、ごく自然に溶け込んでくるのだ…心地よい距離を保ちながら。
自分にとっても非常に心地よい距離で…経験のなかったその心地よさに、逆に戸惑うばかりだ。
確かに…教師というのは彼女にとって天職かもしれない。
(……それに)
また、浮かんでくる桜乃の笑顔に、真田は心を乱されそうになって顔をしかめた。
自分より年上の女性の筈なのに…時々、まるで子供のような可愛い表情を浮かべる時がある。
何故そう見えるのかは、分からないけれど。
そして、そんな彼女を見る度に、最近の自分はおかしくなっていた。
戸惑うのはいつものことだ…情無い話だが、もう慣れてしまった。
しかし、ここ最近はそれに加えて…いやに動悸を覚えたり、身体が熱くなったり…気が付いたら彼女の事を心に思い浮かべていたり…とにかくおかしい。
「全く面妖な…軽い風邪程度であれば、日々の鍛錬ですぐに完治してしまうというのに…」
どうやら、基本的な事が全く分かっていない様子である。
今はまだ大丈夫だが、こんな症状がこれからも続けば、日常生活にも支障を来す…何とかしなくては…と思った彼は再びため息。
「…はぁ」
「どうしたの?」
「っ!!!!」
がったん!!
いきなり声を掛けられながら、顔を覗きこまれた…さっきまで考えていた桜乃本人に。
咄嗟に椅子を蹴るように立ち上がってしまった真田のリアクションに、桜乃もきゃっと短い悲鳴を上げてしまったが、それから相手をまじまじ見つつ謝る。
「ご、ごめんなさい…驚かせちゃった?」
「いつからここに!?」
気配など感じなかったのに…!とうろたえている男に、桜乃はちょんと入り口のドアを指し示す。
「でも、ドア開けて近づいても真田君、上の空だったし…どうしたの? 何か悩み事…?」
「……」
既に日常生活にも支障は出ているのかもしれない……
「なっ…何でもありません…何か御用ですか?」
「こんな場所で一人でご飯?」
「落ち着くので」
「そっかぁ…真田君って凄いねぇ、私なんか一人だったら寂しくて相手を探しちゃうな…まぁ職員室ならそんな事しなくても誰かいるけどね…寂しがりやなのかな」
「…何か、御用ですか?」
「え…あ、そうそう、あのね…」
まただ…動悸がする…
知られないように深呼吸しながら、真田は必死に心拍数を整える。
鍛錬を重ねた人間ならば、或る程度は意識での心拍数のコントロールは可能なのだ。
「…真田君って、年上の女性に興味ある?」
「!!!!????」
試みようとして僅か五秒で頓挫してしまったが……
「な、な、なっ!!!!!!」
まさか…これはまさかっ…この展開は…っ!!!
「り…竜崎、先生っ!?」
動揺している真田の前で、桜乃はごそっとポケットを探り…数枚のカードを差し出した。
「……え?」
「抽選で、グラビアアイドルのブロマイド当たったんだけど…私は二等のクッションが欲しかったの。それで、もし良ければ…」
「まっっっったく良くありませんっ!!!!!」
「きゃっ」
ずおっ!!と桜乃に迫った真田は、流石にこの時ばかりは彼女に一言物申した。
「教師たる貴女が生徒の俺に何ってモンを融通するんです!! そういう煩悩のカタマリは、即刻荼毘に付すようにっ!!!」
「ええ〜〜? だって勿体ないのに…年頃の男の子って、こういうの興味ない?」
「知りませんっ!!!」
「おかしいなぁ…じゃあ他の子に…」
「没収!!」
人手に渡る前に、真田はぱしっと素早い動きで相手の手から元凶を奪い取ってしまった。
風紀委員長として、こういう物品の流布は、断固阻止しなければ!!
「……」
暫く沈黙した桜乃は、真田を見てにこりと笑い…
「やっぱり興味が…」
「無いと言ったら無いっ!!」
絶対に他の教師だったら、真田の形相に退いて逃げ出していただろう…と言うより、そもそも彼に対してこういう暴挙に出る人間はいない。
「あうう…怒られた〜…」
「当たり前です、全く…何を考えているんです」
「うふふ…さぁ、何かなぁ」
怒られてしょげていたかと思えば、楽しそうに微笑んで窓から外を眺める桜乃は、真田にとってはまるで万華鏡だった。
キラキラと美しく輝いて…ほんの僅かな時間を過ぎてしまえば、同じ模様はそこにない。
だからこそ、目が離せない…いつまでも見つめていたくなる…
「どう? すっきりした?」
「は…?」
不意に尋ねられ、真田は案件の挟まれたファイルを閉じながら桜乃へ視線を向ける。
「……また、しかめっ面だったよ? ちょっとは気が紛れた?」
「!…」
また…あんな眩しい笑顔をする。
こちらがそれで、どれだけ心を乱してしまうのかも知らないで…まぁ、やり方には多少問題はあったにしろ、気を遣ってくれたことは、有難いと素直に思うが。
「…これは地顔ですから」
「ウソ、本当の真田君はもっと良い笑顔が出来る筈よ」
「〜〜〜」
どうにも調子が狂わされる…
何を言えばいいのか分からなくなり、真田はこの部屋を出ることで、この話題を終えようとした。
「用事がなければ、失礼しますが」
「あ、うん…私ももう行くわ…ねぇ、真田君」
「まだ何か?」
「…君はまだまだ若いんだから、もっと自由に生きていいと思うよ? 遊ぶことも恋をすることも、大人になるには大事なコト」
「…教師としての忠告ですか」
「うん、そんなとこ…焦ることはないけどね、のんびりしてたらそれも時間が勿体無いでしょ?」
そう言って、桜乃は真田の肩を優しくぽんと叩いて、風紀委員室を後にした。
「……」
そして、真田は彼女から叩かれたばかりの肩をそっと軽く押さえて、相手の後姿を見つめていた。
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