その手で触れて
立海大学 A講堂
「ふむ…今日の講義はスポーツに伴う筋肉の損傷及び対処法…」
その日の講義に、真田弦一郎はいつもの様に真面目に参加するべく、講堂の空いた一席に着いていた。
いつもより見知った顔がいないのは…
(…ほう、スポーツ医学科との合同講義か…)
自身の部と異なる処との合同講義であれば、知らない顔がいるのも頷ける。
それからも生徒達は講堂の中に入って思い思いの席に着いていくのだが、まるで示し合わせた様に、真田の周囲には一定の空間が空けられたままであった。
しかし、彼はその事実について気付いていないのか、それとも気付きつつも意に介していないのか、まるで気にする様子はなく、淡々としたものだった。
別に嫌われている訳でもない、人格も出来た男と名高い彼なのだが…唯一の難点が『堅物』。
その厳格すぎる程の風貌と、鍛え上げられた肉体に併せ、質実剛健な性格ともなれば、なかなか一般の若者にはとっつきにくい面として受け取られてしまうようだ。
無駄な話が苦手で嫌いな彼にとっては、敬遠されることもある意味ラッキーなのかもしれないが…
しかし、今日という日はそんな彼にとって、普段の生活に於いて在り得なかった事件が起きた。
「あのう…」
「ん…?」
「隣…宜しいですか?」
通路に近い右側から話しかけられた真田がそちらへと目を向けると、黒いおさげを揺らした女子が、座っている自分を遠慮がちに見下ろしながら微笑んでいた。
細い…自分と比べたら実に小さな身体の、儚げな女性だった。
しかし、ぱちりと開かれた瞳は印象強く、あまり日に焼けていない白い肌が尚更その深みを強調している。
大学生でおさげ、というのも珍しいが、そんな事より、真田は滅多に話したことのない女子との久し振りの面合わせに不覚にも驚いていた。
「あ、ああ…構わない」
「有難うございます」
講義用のものと思われる大学ノートを両手で抱えていた相手は、首を傾げながら瞳を細めて礼を述べると、そのままするりと真田のすぐ隣の席へと座った。
その行動は驚く程にしなやかで淀みなく、耳障りな音など一切たてずに目の前で行われた。
女性に滅多に接したことのない真田だからこそ、その行為は強調されたものとして映ったのかもしれないが、彼女の滑らかな動きに男は一瞬目を奪われ…そのままそれを横へと逸らした。
「……」
横へと逸らした視線をさりげなくまた隣へと向けると、袖口から先の露になった手が、ノートを開こうとしていた。
『竜崎桜乃』
ノートの所持者を示す名前が、整った筆跡で記されており、そこで男は娘の名前を知った。
無論、彼にとっては初対面で、初めて見る名前であるが、その響きがやけに美しく感じられる。
(サクノ…)
何とはなしにそう心で名を確認していたところで、講義が始まった。
講堂の中には多くの生徒がいたが、席にあぶれるという者はおらず、皆がそれぞれグループで集まったり個人がばらけたりという感じだ。
(…席が詰まっている訳でもないのに、誰かが隣にいるというのは久し振りだな)
そんな事を思いつつも、それ以上雑念に支配されることもなく真田は講義に集中し、それは隣の桜乃という学生も同じで、彼に注意を向けることもなく一心に説明に耳を傾けている。
周囲では小さな話し声が聞こえていたり、雑談に興じる学生達もいたが、二人にはまるで興味もなければ関係のないものだ。
こういう時間は出来る限り有意義に使いたい真田にとっては、隣が勉学心旺盛な女性であったことは幸いだった。
「―――…以上になります、では残った時間を使って少しマッサージの実習を行いましょう、隣同士で二人ずつ、ペアを組んで下さい。最初は掌のマッサージからです」
そうしている内に、講義を進めていた教授の指示の下でいきなりの実践が始められることになったが、そこで初めて真田は僅かばかりうろたえた。
「え…?」
きょろっと辺りを見回してみると、もう辺りの男子学生は全員パートナーを見つけてしまっていて、自分が介在する余地は無い。
となると、自分と組む事になる相手は必然的に…
「……」
また隣を久し振りに見ると、相手も同時にこちらを見上げてきており、視線が合う。
「…う…」
「宜しくお願いします」
丁寧な挨拶で微笑む桜乃は、真田よりは随分と落ち着いた様子で、特に深く感じていることはなさそうだ。
「う、うむ…宜しく」
そうだな、ただの実習なのだし、別に意図するところがあって触れる訳でもなし…
気を取り直して、真田は相手に少しばかり身体を向けて、手を出した。
「じゃあ…失礼しますね」
さわりと触れてくる娘の手の指の細さと柔らかさに、知らず男は目を剥いた。
それなりに女子と付き合ったことのある男性であれば今更何を思うことも無かっただろうが、今触れられているのは、女子の身体に触れるどころかろくに口をきいた事もない、純情男の真田なのだ。
これまではテニスだ武道だと、とにかく自身を鍛錬する事ばかりだった男には、あまりに免疫のない経験である。
(たっ…たかが触れられているだけだろう…! 落ち着け…!)
心の中で己を叱咤している様は、自分でもまるで小学生の男児並に思えてしまい、真田はきつく目を閉じながらマッサージを受ける。
相手を意識しないようにと閉じた瞳だったが、それは却って彼女の手の感触をより敏感に感じる事にも繋がった。
「……?」
非力な女性の手など使っても、鍛えられ固くなった己の掌にどれだけの効果があるものか、と正直思っていた真田の眉が僅かにひそめられた。
(…何だ、これは)
自分でも知らなかった掌の要所要所のツボに、相手の細い指がするりと入り込んで心地よい力で押さえ、解してくる…
そのあまりに絶妙な刺激に思わず目を開き、現場を確認したが、桜乃は何か特別な道具を使っている訳でもなく、魔法を使っている訳でもない…ごくごく普通に触れているだけだった。
「…力、弱くありませんか?」
「い、いや…丁度いい…」
「良かった」
にこりと笑いかける相手の笑顔に、思わず目を背けてしまい、しまったと思った。
気を悪くしたかと思い、そろ、と視線を下ろしたが、向こうはひたすらにマッサージに夢中になっている。
それからも教授の指示で、講義前半で指導を受けた前腕から肩にかけてのマッサージへと移り、相手の娘は淀みのない動きで真田にマッサージを行った。
本当に、どの箇所においても、これまで受けたことのない様な心地よい感覚に、男は思わずこれが講義の時間だということを忘れてしまいそうな程だった。
「…凄い筋肉ですね」
「え…」
不意に話しかけられ、振り向くと、桜乃が感嘆した表情で自分の肩口から前腕にかけてをじっと観察していた。
「無駄の無い、凄く均整の取れた身体です…並のトレーニングじゃこうはいきません。私なんかじゃ、マッサージとしては少し力不足かもしれませんね」
「い、いや! そんな事は無い…その、非常に良い腕だと思うが…予習してきたのか?」
少しずれた質問かとも思ったが、つい尋ねてしまった真田に、桜乃は素直に答えてくれた。
「いいえ? でも幼稚園の頃から父の肩叩きとかマッサージとかしてましたから…習慣で身についたものかもしれませんね。友達同士でやる時も、よく褒められるんですよ」
「そ、そうか…それで、か……」
それからも暫くマッサージを受けた後、今度は交代しての実践授業となる。
「それじゃあ、宜しくお願いします…ええと…」
「…真田だ…真田弦一郎」
「はい、宜しくお願いします真田さん…申し遅れました、私、竜崎桜乃といいます」
「あ、ああ…」
実はもう知っていた、と言える筈も無く、真田はさりげなく頷きながら差し出された手を取った。
ただ触れられるだけと、意志をもって握るというのは、やはり明らかに異なるものだと思いながら、真田はどうしようかと己の力を持て余す。
相手が同じく屈強な男子であれば遠慮もせずに済むというものだが、これだけ体格差があって、しかも細い身体の女子であれば…かなりの加減が必要になるだろうな。
「す、すまん…慣れてないのでな、痛ければすぐに言ってくれ」
「はい」
それから真田も同じ様にマッサージに挑戦したのだが……
「だ…大丈夫ですか?」
「う…うむ…」
互いの実習が終わった後には、机に突っ伏した体格のいい男と、彼を不安げに覗き込む華奢な女性の姿があった。
(これだけははっきりした、俺にはこういう職業は絶対に向かん!!)
屈辱に身体が震えそうになるのを耐えながら、真田が心の中で叫ぶ。
何とか無事に終了したが、精神的には凄まじい拷問だった。
下手に力を込めたらぽっきりいきそうな程に細く柔らかな腕に難儀しただけならまだしも、苦悩している自分を見かねて、『じゃあ、分かり易いように』と桜乃がシャツの袖を捲ってくれたものだから、純情な若者はそれからずっと相手の生身の腕に触れなければならなかったのだ。
向こうは完全に好意で行ってくれていただけに断る事も出来ず、真田は柔肌に触れる度に眩暈がしそうな自身を必死に抑え、且つ力加減を考えながら実習を行い、正に心身ともに疲弊しきっていた。
(背負い投げや捲き藁斬りなら、五秒とかからず片付けるものを…っ!)
「あ、あの…別に痛くなかったですから、そんなにお気になさらず…」
「う…すまんな、気を遣わせて…」
「では今日の講義は以上、スポーツ医学科の生徒はこれに因んだ実習レポートの提出があるので、掲示板での詳細発表を待つように」
気を取り直している間に教授は最後の指示を出すと、講堂を去っていき、無事に講義も終了の運びとなった。
「お疲れ様でした、真田さん」
「む…」
慣れている男なら、ここで声でも掛けてお近づきになるよう試みるものだが、真田は結局桜乃に気の利いた答えを返す事も出来ず、ただその小さな背中を見送った。
「……」
何となく気になるものの、特に用事も無いのに声を掛けることなど思いも至らず、彼は暫く無言で講堂に留まっていた……
それから数日後の立海大のテニスコートにて…
「…ん?」
いつものように真田は講義を受けた後に他の生徒に混じってテニスに興じていたが、そこでコートを遠巻きに見つめていた見覚えのある人物に気が付いた。
遠い場所に佇んでいた相手だったが、異常に目がいい真田はすぐに相手の姿を確認し、過去の記憶と合致させる。
いや、視力が然程良くなくても、あのおさげを見たら可能だったかもしれないが…
「竜崎…?」
あの日の事は良い思い出と言うか忌わしい思い出というか、微妙な位置づけとなって心に刻まれている。
特に何をするでもなくその場に佇むだけの相手の様子が気になり、試合の合間に真田は彼女に近づいていった。
「…あ、真田さん…」
「やはりお前だったか…誰かに用事でも?」
「いえ、そのう……真田さんに、少し御相談が…」
「…俺?」
「…私はスポーツ医学科に在籍しているんですが…今回、実習の課題が出されまして、スポーツを実践している方のマッサージを決められた回数、行わないといけないんです。もし、真田さんが、まだ誰からも依頼を受けてらっしゃらないのなら、お願い出来ないかと思って…」
「あ、あれをか!?」
思わず声を大にして答えてしまった真田に、桜乃がびくっと驚きつつ問い返す。
「ダ、ダメですか?」
「いやその…駄目と言うか…その…」
断る理由はない…どうせ自分の許にはそういう希望者が来るのは皆無に等しいだろうし…しかし…女子にまた身体を触れられるというのは、多少の覚悟を要するもので…
「ほ、他の奴はいないのか…?」
「え、えーと……探したらいるとは思うんですけど…私その…知らない方に声を掛けるのが苦手で…特に、男性の方には…」
「む…う…」
その気持ちはよく分かる…自分も恐いぐらいに一致した部分があるし…これはあれだ。
同病相憐れむ。
(…考えると、ちと空しいが…まぁ困っているというなら)
自分に害のないものでもあるし、との見解で、真田は申し出に頷いた。
「…俺で良ければ構わんが…その、どうすればいいのだ?」
受諾をしてもらえたことで、ぱぁっと相手の顔が喜びに綻び、彼女はこくこくと頷きながら明るい声で答えた。
「真田さんが活動を終えた時間に伺います! 運動後のマッサージ全般なんですけど、特に受けたい場所があれば言って下さい。課題が終わったら、真田さんから用紙にサインを貰えばいいことになってます」
「ふむ…いや、特に希望はないが…そうだな、今後あったらそれは伝えよう」
「はい」
「今日の活動は六時ぐらいに終わる予定だが…」
「じゃあ、その頃にまた伺いますね」
そして、桜乃は一度その場を離れ、六時近くなると約束通りにコートに姿を現した。
丁度、真田も活動を終えた後だったのでタイミングは最適だ。
「お邪魔します、宜しくお願いします」
「う、うむ…こちらこそ、宜しく」
控え室に移動した二人は、それからマッサージの準備を始める…と言っても、特に構えることもなく、真田が椅子に腰掛けるだけだ。
「じゃあ、今日は肩と腕…背筋の方も少しやらせて頂きますね」
「このままの姿勢で?」
「はい、後日、背中とか腰の方ではベンチとかにうつ伏せて頂きますけど」
(うつ伏せ!!??)
この時初めて、真田は安請け合いをしてしまったかと密かに後悔した…が、もう遅い。
(ば、馬鹿な、この程度で取り乱してどうする…何処かのジムでマッサージを受けていると思えばいい話であって…ここまで動揺する必要は…!)
しかし、そういう場所に行った時でも、相手は例外なく男性の医師やら整体師だったのであって…残念ながらフォローには今ひとつ説得力に欠ける。
真田は心の中で必死に、言い訳を考え続けた。
(…課題…なのだし…彼女もそれ以上の他意はないだろう。課題が終わったらそれで済む話なら、終わるのを待てばいいことだ……)
「…ちょっと張っていますね」
「!…す、すまん…」
「いえ、謝らなくてもいいんですよ。それを解すのが実習の目的でもある訳ですから…」
どうして筋肉が必要以上に張ってしまっているのか、本当の理由を知らない桜乃は、相手の緊張を解す為にそっと細い手を伸ばす。
「…っ」
あの実習の時間が、また戻ってきたようだった。
柔らかで優しい、自分の指先では決して与えられないだろう感触…が、肩口に触れた。
「真田さんは、本当に良い筋肉を付けていらっしゃるから、力が足りないかもしれませんが…もしそうなら言って下さい」
「…分かった」
相手が背後に立っているから視線など合う筈もない…のに、つい目を横へと逸らしてしまう。
そうしている内に、ぐいい…と力の篭った指先が、自分の肩の筋肉と、その合わせ目、継ぎ目に力強く触れてきた。
「……っ」
微かに息が止まり、次の瞬間、肺から大きく空気が吐き出される。
それは圧迫されたことによる痛みによるものではなく、圧された部分の心地よさと、緊張が解かれたことに伴う反射行動だった。
ほんの少し圧されただけなのに、そちらの肩がだらりと脱力する程の効果を目の当たりにして、男は半ば驚きの視線で己の身体を見た。
(意識もしていないのに、力が抜けてゆく…それに…)
肩を圧してもらっているのに…その先の手指がびりびりと痺れ、震えている…心地よい刺激を感じながら…
(こんなに簡単に、神経の筋を捉えたのか、この娘…)
身体という生きた建造物には予め神から与えられた設計図がある…しかし、全ての人間はそれを一つ一つ僅かながらにアレンジしたものを持っており、誰しもが理想的な位置に設計上重要な要を潜ませている訳ではない。
しかし、生来の勘であったり、長年の経験から、それを指先で感じ取ることが出来る人種があると聞いたが…
(親にしていたとは聞いたが…それでも大したものだな…)
いつしか、彼女に抱いていた緊張感は取り払われ、純粋な感嘆のみが残った。
確か…そうだ、あの日の実習でも、緊張感など最後にはまるでなかった…彼女がマッサージをしていた時間に限って言えば。
その後の自分の番の時には……別の意味での緊張感で酷い目に遭ったが。
「……本当に、上手だな」
「!…有難うございます」
ぽつりと漏れた心からの賛辞に、桜乃は嬉しそうに笑った…
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