それから毎日…真田は彼女のマッサージを受け続けた。
流石に横になった時には物凄く緊張したが、それも相手の心地良い指先の動きで解れてゆく。
それに、確かにマッサージの効果もあるのか、身体の動きも最近は非常に調子がよく、一週間も過ぎると、彼は桜乃のマッサージを受けるのが楽しみになっていた。
そして、それと同時に、また別の悩みも生まれてしまっていた。
「お疲れ様でした。すぐにマッサージ始めますか?」
「ああ、すまん。頼めるか?」
「はい」
いつの間にか、桜乃に関しては真田も自然に気兼ねなく会話を交わせるようになっていたが、当の本人はその変化には気付いていない様子である。
「じゃあ、どうぞ横になって下さい」
「今日こそ、起きていたいものだが…」
「うふふ、いいんですよ。無理して起きていて頂かなくても…」
「しかし…お前に働かせて俺だけ休むというのも違う気がしてな…」
「やる方としては冥利に尽きますけどね」
そう、悩みというのは、桜乃のマッサージを受けるようになり、真田は信じられないことにマッサージの最中に眠ってしまうまでになっていたのである。
今までは決して神経の糸を緩めることを良しとせず、常に己を律していた筈の男が。
それだけ彼女の腕が優れているということでもあるのだろう、それは喜ばしい事なのだが…内心、真田は桜乃の指先の感触や、他愛ない話をする時間が眠りによって失われてしまう事を、勿体無いと思っていた。
桜乃と語り合うのは楽しい…純粋で、素直で、優しい言葉は、己の心すらも癒してくれた。
だからこそ、自分は彼女の触れてくる手だけでなく言葉すらも希求するのだ。
しかし、眠ってしまえば、彼女の耳に心地よい声も聞けなくなってしまう。
只でさえ、科が違う二人が会うことなど滅多にないのに……
しかし、どんなに心で思って起きていようとしても、桜乃の優しい手で触れられると、もうその回路が出来上がってしまった様に瞼が重くなってくる。
(む…いかん…また……)
とろとろと閉じられようとする瞼を必死にこじ開けようとしながらも、睡魔は確実に彼の意識を眠りの海に突き落とそうとしている。
ふ…と完全に瞼が閉じた時、陥落寸前だった真田の意識を一気に持ち直させたのは、控え室に入って来た他のメンバー達だった。
「おう…竜崎…じゃったかの」
「こんにちは、今日も実習ですか、お疲れ様です」
確か、真田と同じテニスクラブのメンバーの…?
「あ、こんにちは…あのう…」
少し声が控えめな相手の様子を見て、銀髪の男は、ははんと察した様に首を数回振ると、真田の頭の方へと歩いていって、ひょこ…とその顔を覗きこんだ。
「……」
暫く…と言っても、ほんの数秒、真田の寝顔を見つめたところで、何を思ったか、彼の口元がにやりと歪んだ。
「よーう寝とるのー。よっぽど気持ちいいんじゃろうなぁ、お前さんのマッサージは。噂になっとるだけある」
「…噂?」
「何じゃ、知らんのか? お前さん、この大学の中では結構な有名人なんじゃよ? ほら、あのおさげの可愛い器量よし…ってな。実習でのマッサージの腕もピカ一とか?」
「え…!?」
ぴく…と微かに真田の睫が揺れたが、それは桜乃の目には入らない。
「じゃから、お前さんが実習やる時に、相手の座を狙っとった輩は多くおったんじゃが、お前さん、さっさとそいつを相手に決めてしまったろうが? 沢山悔しがっとった男がおったよ、鳶に油揚げってところかの」
「仁王君…無粋な事は言わないで下さい」
淑女にそういう話題を振るものではない、と柳生という若者は嗜めたが、仁王はまぁまあと笑いながら相手をいなし、再び桜乃へと振り返った。
「…この実習も、もうじき終りなんじゃろ? 次にこんな課題があるのかないのか知らんが…変な輩には引っ掛からんようにの。ま、真田は安全パイ」
「…は、はい…」
そしてもう一度、真田を見てにやりと笑うと、仁王はくるんと柳生へ振り返った。
「じゃ、行くか。お邪魔虫は早いところ退散じゃ」
「自覚があるなら早いところ実践して頂きたいですね」
「はいはい…ほんじゃな」
少しばかり賑やかだった男達が去っていくと、その場はまた元の静寂を取り戻し、桜乃は一度止めていた指を、改めて真田の肩に掛けた。
大きく逞しく、広い背中…彼は私を知らなかっただろうけど、私は彼をずっと前から知っていた。
「…思ってたより、ずっと強くて、優しい人だった」
眠る男の肩に、力と、心を込めて呟いた。
「こんな人と一緒にいられたら……恐いものなんて、何もないんだろうな…」
そしてまた、無言になって一生懸命揉み続ける。
桜乃は、その時、真田が薄く瞳を開き、微かに眉をひそめたことを知る事は遂に無かった……
(そうだな…実習が終われば…など、考えてなかった)
いや、考えていなかったのではなく、考えたくなかったのかもしれない。
大学の構内を歩きながら、真田は昨日の仁王の言葉を思い出していた。
あの娘がそんなに人気があるとは知らなかった…尤も、普段からそういう話題には疎い自分だという自覚はあるので、それもまぁ納得は出来る話だ。
思えば、自分があの日最初に断ったりしていたら、こういう縁も無かった訳か…
(…思うだけでぞっとする)
引き受けてやったあの日の自分を褒めてやりたいぐらいだ、と思いながらも、真田の愁眉は晴れない。
彼女の実習期間が終了したら、もうあの娘に会う理由も自然消滅するという。
せいぜい、大学の中で擦れ違った時に、会釈をする程度の…そんな仲になってしまうのか。
(いや、しかし多少の会話をする程度には…)
それも可能かもしれない…しかし、仁王の言葉を信じるとすれば、あの子は他の男子にも人気が高いという…ならば、知らない処で、別の誰かと今の自分より親しくなる可能性もあるというコトか?
(…俺は一体誰に苛立っているのだ…俺か? 彼女か? 彼女の傍に立つだろう誰かか?)
こんな気持ちは初めてだ…だから、どうしていいのか分からない。
そうしている内に、真田は目的の掲示板の前に到着し、普段自分には縁のないスポーツ医学科の貼り紙を一つ一つ確認し始めた。
今の実習がそもそもいつまでの期限のものなのか…最終提出日はいつなのか、それすらも自分は知らなかった。
知るのが恐ろしくもあったが、知らずにその日を迎えることはもっと恐ろしい。
知ってどうしようと言うのか、自身に答えも出せないまま、真田は目的の貼り紙を求めてずっと視線を泳がし続けている。
「…あ」
これか…マッサージ関係の実習…確かに。
(ふむ…該当する生徒は被験者を一人募り、以下の内容の実習を終了させて速やかに提出すること、順は不同とし、回数は一つの場所につき三回ずつ別の日に…え…?)
三回…?
再度読み直してみたが、何度見ても答えとなる箇所は同じ様に書かれたままだ。
(…三回? 竜崎はもう一週間は通って、全ての箇所の課題を済ませている…ではもう、彼女はとっくに条件を満たしている筈だ、なのに)
なのに、何故彼女はまだ自分の許に、課題という名目を使い、通っているのか…
ドクン…
「…っ」
疑問が一つの可能性を連れてきた時、真田の胸が見えない腕に押さえつけられたように苦しくなった。
ソレハ モシカシテ
(……竜崎?)
知らず口元に手を当てる…胸に何かがつかえているような、そんな気がする…
不快ではない、しかし心穏やかでもいられない…これはどんな感情だ?
(…期待、しているのだろうか、俺は…)
自身にとって都合のいい考えを、相手に期待しているのだろうか。
竜崎は、課題を済ます為ではなく…俺に…
「真田さん…?」
「っ…」
呼びかけてきた声…馴染みのあるその持ち主をすぐに予想した真田が、身体を強張らせた。
しまった! こんな場所で会うとは…!
「う…」
何を言えばいいものか躊躇っている間に、向こうはこちらへと小走りに駆け寄ってくる。
出来れば止めたかったが…彼自身、その術を知らなかった。
「こんにちは、ここでお会いするなんて珍しいですね。何か御用なんですか?」
「い、や……別に」
「……」
いつもとは違う曖昧な返事に訝しげな視線を向けた娘…桜乃は、それから彼の見ていたであろう掲示板へと気付き、例の貼り紙を見た途端、すぅっと顔色を失った。
どうやら…真田がそれを見てしまったという事実に気付いてしまったらしい。
こんな場所で会いさえしなければ、こちらも知らぬ振りをしていたら良かったのだ…それでもう少しだけでも共にいられる時を得られただろうに…!
「…あの……」
「……か、課題は…無事にこなせたようだな…いい事だ」
こんな時ぐらい、嘘の一つもつけない自分に嫌気が差す……これでは、自分から相手を手放そうとしている様なものだ。
自分が言いたい事…望む事は、違う場所にあるのに。
『何故、こんなに長く通ってくれた?』
その一言が、言いたいのに、喉が引きつったように声が出ない。
「…あ、りがとうございます…真田さんの、お陰です」
笑顔で言いたいのだろう…しかし、強張っている顔を見るとその努力すら痛々しく見える。
「…課題…済みましたから、これで提出出来ます。あの、最後に…」
「?」
桜乃は、脇に抱えていたファイルから、課題の規定用紙を取り出すと、それを真田に差出し、その一箇所を指し示した。
被験者署名欄…と、そうある。
「ここに真田さんの署名を頂けたら…それで終りですから」
『終り』という一言に、ずき、と胸が痛んだ。
終わるのか…? 俺が…終わらせるのか?
お前との一時を…
「……」
ボールペンを胸ポケットから取り出しながらも、いざサインをしようというところで、真田の腕が止まったまま動かなくなってしまった。
「…真田さん?」
「……もう、来なくなるのか? 俺がここに名を記せば…」
苦しげな言葉に、桜乃の瞳が驚きに見開かれ、その彼女の前で、真田は相手の腕を掴んだ。
「…!」
「…少し…いいか?」
真田が桜乃を連れ出したのは、人目につかない校舎の陰だった。
少々いかがわしい感じは否めないが、兎に角今は誰にも邪魔されたくなかった。
「すまん…その、今から俺が言う事は、あくまで俺個人の希望だ…もしお前が気に入らなければ、拒むのは自由だ…」
「…は、い…?」
躊躇おうとする気持ちを押さえ、真田は数回深呼吸をして拳を握り締めながら口を開いた。
おそらく…このままの流れを変えるチャンスはこれが最後なのだ。
「俺は…どうやら、お前のマッサージが気に入ったようで……いや、違う…そんなものではなく…お、お前が…その…気に入って…」
「!」
「…す、好きに、なってしまった……お前が迷惑でなければ…会いたい…これからも…」
「……」
両手で口を押さえ、真っ赤な顔を隠している桜乃は最早声も無い様子であり、告白した真田も明らかに顔が紅潮していた。
「し、知り合ったばかりでは…やはり、難しいだろうか…?」
「い、いえ…あの…」
ふるるっと首を横に振って、顔を紅くしたままに桜乃は真田に答えた。
「……あの、私…知っていました……真田さんのこと…」
「え…?」
知っていた…? 何処で…?
「…ずっと…見てました…真田さんが、テニスしてるところ…凄く力強くて、それなのに凄くしなやかで……憧れてたから、どうしてもお話したくて…講義の時に思いきって声を掛けたんです…」
「!?」
「信じられなかった。あんなに憧れてた人が、とても優しく気遣って下さって…だから、もっと、お話したかったんです……課題、嘘ついてたこと、すみませんでした…」
「……」
ああ、だから…お前はあの時、不思議な言葉を呟いたのか…まるで昔から、俺を知っているかのような言葉を……それはお前が、確かに俺を見ていてくれたからなのか……
流れが明らかに変わったことを感じながらも、真田はなかなかそれを信じられなかった。
これは、俺の都合のいい夢ではないのか…?
「竜崎……では、お前は…その…」
「…私も…真田さんのことが…」
俯いて答える娘は、しかしそれから不安げな表情で真田へと顔を向けた。
「だから…真田さんこそ、私のことを知ったばかりなんです…なのに、本当に…いいんですか?」
「…望むところだ」
まるで挑発に乗るかのように、真田は微かに笑って頷いてみせる。
「ではこれから、俺はお前より、知らないお前を見つけて楽しむことが出来る訳だな…」
「あ…?」
壁際に立っていた相手に近づいて、両手をその顔の脇の壁に押し付けて逃げ道を塞ぐと、彼女は戸惑いと羞恥の入り混じる儚げな表情で真田を見上げた。
早速見ることが出来た、知らない相手の表情に背筋が震える。
「それも悪くない…何より、お前をずっと見ていられる…こんなに近くで」
「…っ」
そっと優しく唇を桜乃の額に触れさせ、それすら禁じられた秘め事の様にすぐに離すと、代わりに真田は手を伸ばして相手のそれを絡め取った。
「真田、さん…」
「……サインは…後でする。今は、お前の手に触れさせてくれ」
お前を傍に置く為の大義名分は、今日、手放そう…お前が己から俺の傍にいてくれるこれからは、もう無駄な鎖でしかない。
そんな物は、あまりにも無粋だ…お前のこの……
「…柔らかい…優しい手に」
静かにそう囁きながら、男は奇跡に触れるように、誓う様に、彼女の手の甲にそっと口付けた……
了
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