休日を無事に過ごし久し振りの平日、真田は合宿所に行く前に、或る病院を訪れていた。
 幸村精市…立海テニス部部長である親友が入院している病院である。
 彼はそこに、相手を見舞いがてら、合宿についても細かな報告をしていた。
「―――…とまあ、そういう処だ。選手達の実力は俺達立海の面々も含めて、決してアメリカ勢に遅れを取るとは思わん…無論、驕りは勝負に於いては禁物だがな」
「ふふ、そうだね…試合はテレビでも完全中継されるらしいし、俺も君や切原の活躍を期待しているよ。会場には行けないけど、テレビの前で応援しているからね」
 ベッドの上で上半身を起こし真田の報告を聞いていた幸村は、中性的な顔立ちにいつもと変わらない朗らかな笑みを浮かべ、来てくれた親友を労っていた。
 パジャマから覗く腕はほっそりとして非力を思わせるが、そこに神業を操る奇跡が隠されている事を真田は知っている。
「うむ、任せておけ」
「……」
 腕を組み、傍の椅子に座って答える真田を暫く無言で見つめていた幸村が、不意に切り出した。
「…ねぇ、弦一郎」
「ん?」
「……もしかして、恋してる?」
 がしゃんっ!!
 座っていたパイプ椅子を蹴飛ばす勢いで立ち上がり、真田は数歩引くと動揺も激しく相手を見下ろした。
「な、な、な…っ!! なに、なにを…っ!! 精市っ!?」
「そういうリアクションやめてよ、俺が悪い事したみたいじゃない」
「す、すすすすまんっ! ししししかし…こっこっこっ…」
「こけこっこ?」
「恋っ!?」
 どうにも噛みあっていない会話だったが相手の動揺には全く構わず、彼が何とか再び着席したところで幸村は小さく笑って説明した。
「初めてだよね、弦一郎が特定の女子についてそこまで話すのって…可愛いの? その、竜崎さんって人」
「かっ、可愛いとかそういう問題ではなくっ…! 俺は単に、青学の奴らがボランティアに甘えていると…!」
 確かに学校ごとの報告もしたが、それは別にあの娘とは何の関係も無いことだ、と真田は弁解したが、相手の部長も譲らない。
「さっきは『ボランティア』じゃなくて『竜崎』だったよね」
「う…」
「普段の君なら『同じ青学の学生同士の付き合い』だとして気にもしなかった筈だけど…その程度の事なら」
「ぐ…」
 幸村の指摘がいちいち尤もで、真田は返す言葉も見つからず、小さく唸るしかなかった。
 それでも、先程親友に言われた言葉がまだ受け止められない。
「しかし! 恋など…っ、俺はそんな…っ」
「じゃあ捨て置いたら? つまらない相手の為に集中を乱されるのも馬鹿馬鹿しいだろう。女なんて世の中にごまんといるんだし、その子は青学の一年生にでもあげちゃえば?」
 がた…っ!
「竜崎はつまらない人間などではないっ!! 幾らお前でもそういう言い方は許さんぞ!!」
 再び立ち上がり、真田が幸村に強い口調で…半ば怒鳴るように断言する。
 そして断言した数秒後…はっと我に返り、相手の笑みを見たところで、仕掛けられていた事に気付いた。
「……認める?」
「…っ」
 がたっと脱力して腰を落とし、想いを暴かれてしまった若者は、彼自身その事実を突きつけられて呆然としてしまった。
(恋…? 俺、が…?)
 竜崎に恋している…?
 改めて指摘され、初めて男はそれを否定する事実が一つとしてない事に気付いた。
 最初はけったいな女子だと思ったが、気立てはいいし、優しいし…いつも前向きで、努力家で、つい手を貸してしまいたくなる…いや、貸してしまっている…
(ええ…!?)
 心の中が凄い事になっているらしい相手に、幸村はやれやれと親友としてアドバイスを行った。
「君のお眼鏡に適った相手なら、良い子なんだろう。きっとライバルも多いと思うよ。誰かに奪われる前に、早く告白でもして恋人にしちゃったら?」
 アドバイスと言うには、あまりにも極端かつ大胆なものだったが…
「え…こ、いびと?……そんな…」
「モジモジしないで、気味悪いから」
 こっちが熱出ちゃいそうだよ…と思いつつ、やり手の部長は最後に締め括った。
「まぁ告白まではいかなくても、手は離したら駄目だよ。それに、相手は女の子なんだから無茶はさせないこと、多少は強引でも守ってやる姿勢が重要なんだ」
「ご、強引って…あまりこちらがしゃしゃり出ても目障りなだけで…」
「頼りにならない男だと思われるよりましだろう、頑張って」
 そして、そろそろ合宿所に行かなければならない相手を病室から送り出したところで、幸村はふぅと溜息をついた。
「…弦一郎の場合は、多少強引過ぎるぐらいが丁度良いんだよね…本当にこういう事には奥手なんだから」


 病院から出た真田は合宿所に向かう道中でも、悶々とした気持ちを消す事は出来なかった。
 何度否定してみようと思ったところで、竜崎への恋心を否定する事が出来ない…いや、認めてしまった今はもう、否定する事すら心が拒み始めている。
 恋がどんなものかを知りもしないのに、そんな混乱した頭の中で、もっと近づきたい、もっと触れたい、と、欲望がざわざわと蠢き始めていた。
 年頃の健全な男子であれば当然の反応だったが、なまじ厳格過ぎてそういうものを遠ざけていた彼にとっては、持て余す程の大事である。
(くそ…これではどういう顔で竜崎に会えばいいのか分からん! し、仕方ない、暫くは用事は他のボランティアの女子に…)
 親友の忠告を早速忘れて、相手の手を離しそうになっていた若者だったが、それから少し進んだところで彼は見慣れたおさげの女子の後姿を発見してしまった。
 あの長いおさげは…最早疑いようも無い。
(選択肢も与えられんのか俺はっ!!)
 思う側から出会うとは!と、思わず目を逸らし、脇道を行こうとした真田が、ふとその向きを変える前に立ち止まる。
(うん…?)
 何かがおかしい…あの娘、歩いている様な感じがしなかったぞ…?
 もう少しで合宿所だというのに、別に見るような店もないただの道…
 いつまでも動こうとしない少女へもう一度目を向けたところで、真田は彼女の前に複数の男子学生が立っている事実に気付き、何が起こっているのかを即座に察した。
 途端彼の脳裏に警報がけたたましく鳴り響き、真田は急いで少女の許へと向かう。
『ねぇ、いいじゃん…』
『嫌です、困ります…』
 近づくにつれて相手方の目的が更に明らかとなり、それと同時に真田の不快指数も一気に跳ね上がる。
 知己が危機に晒されているなら助けるのが道理、しかしそれ以上に今の若者の心を支配しているのは、あの娘に触れられたくないという一念だった。
 桜乃にある程度近づいたところで、真田の存在に向こうの学生達も気付き、視線を向ける…と、
 ぎら…っ!!
 人食い虎並みの恐ろしい殺気を伴った視線が彼らの全身を射抜き、哀れ、複数人であったにも関わらず、学生達はそそくさと退散してしまった。
 実力行使にまで至らずに済んだのは幸いだった…勿論向こうの学生にとって。
「???」
 一方、どうして彼らが一斉に立ち去ってしまったのか分からなかった桜乃だったが、不思議に思い辺りを見回したところで、真田の存在に気が付いた。
「! 真田さん!」
「大丈夫か? 竜崎」
 会う前はどういう顔をしたらいいのかと悩んでいた男だったが、実際に本人に会ってみると、逆に心は落ち着いていく。
 相手に外傷などがなかったというのも、幸いだった。
「本当に有難うございます…助かりました」
「何事もなければそれでいい、良かった」
 桜乃を労ったところで、彼は相手が紙袋を手にしているのを見て視線を移す。
「…随分、物が入っている様だな」
「あ、ちょっと備品で足りないものを…」
「……」
 聞いた後、真田は無言で相手の手からそれを取り、持ってみたが、自分にとっては何ということもない重さだった…しかし女子には少々きついだろう。
「俺が運ぼう」
「え、で、でも、私の仕事ですから…」
 申し出を断ろうとした桜乃に対し、少し沈黙した真田はきっぱりと言った。
「確かにお前の仕事かもしれんが…お前は女だ」
「!」
「そして俺は男だ…男は女を守るものだろう。ここは俺に任せろ」
「…は、い」
 桜乃が頬を微かに染めた事実には気付かず、彼はふ、と道の先へと向き直り、相手に促した。
「また不届きな奴らに遭わないとも限らん。合宿所まで一緒に行くぞ」
「…はい、お願いします」
 それから二人は、並んで合宿所に向かっていった。
(会ったら逆に落ち着くとは…恋とは分からんな……だが、慣れずに狼狽えるというのなら、慣れていけばいい話…か。そうだな、少しずつでも…)
 何という事もない取り留めのない会話を交わしたが、それだけでも心が満たされるのを感じつつ、真田は二人だけの時間を僅かでも楽しみ、合宿所に着いたところで相手に荷物を引き渡した。
「ここでいいのか?」
「はい、大丈夫です、有難うございました」
 桜乃が改めて礼を言い、真田がその場を立ち去ったところで、少女の処に彼女の親友が寄って来た。
「桜乃―」
「あ、朋ちゃん」
「見てたわよ〜、同伴出勤とはやるじゃない」
「ど、同伴…って」
 使い方が違うでしょ!と桜乃は赤くなりながら相手の言葉を否定したが、朋香はそれでも彼女を軽く冷やかした。
「だって、結構良い雰囲気だったわよ? 一緒に合宿所に来るぐらいに仲良いっていうのはホントなんだし〜〜」
「え…でもそれは、本当に偶然で…私が不良の人達に囲まれて困っていたところを、真田さんが助けて下さって、そこで荷物を持って下さったの…一緒に来たのも、私がまた変な人達に絡まれないようにって…だから」
「……桜乃」
「え?」
「それって、もう完全に『白馬の王子様』のシチュエーションじゃない!」
「えええっ!?」
 びしっと指差され、桜乃が心底驚いている脇で朋香はうんうんと頷きながら一人納得。
「そっかぁ、やっぱり桜乃って真田さんとそうだったんだ。確かにね、あの人と一番よく話しているのはアンタだし、あの人もアンタと話している時だけは笑顔が多かったし、きっと向こうもアンタのコト…」
「ちょちょちょちょっ…と、朋ちゃん!?」
「何よ」
「さっ、真田さんはあくまでも親切でして下さっているんだから、そんな事を想像で言うのはちょっと…」
「あ、恋する乙女の勘を甘く見るもんじゃないわよ、じゃあ桜乃は真田さんが他の女の人と仲良くしても、どうでもいいのかな〜?」
「!!」
 悪戯っぽく投げかけられた質問だったが、桜乃はそれを聞いた瞬間、思考が停止した。
(真田さんが…他の女の人と…?)
 相手の混乱が落ち着くのを待たず、朋香はその場を離れて越前を探しに向かいつつ続ける。
「まぁアンタにそのつもりがないなら向こうに期待させるのも可哀想だしね。立海テニス部副部長って立場なら、それこそよりどりみどりなんじゃない? アンタが距離を置いたら自然と別の人を見つけるだろうし、そう気にする必要もないわよ」
「……」
 それから朋香が姿を消した後も、桜乃はその場から動くことが出来なかった。
(真田さんが…私、そんな事、考えたこと無い…)
 知らない誰かとあの人が仲良くしているなんて、考えただけで心がもやもやする…何だろう、この感じ…
(あれあれ…? 胸が何か…と、朋ちゃんに言われたから意識しちゃったのかな)
 真田さんのコト考えたら…急に胸が苦しく…
 そんな彼女の処に、再びテニスウェアーに着替えた真田が側を通りかかった。
「ああ竜崎、もし余裕があったら…む」
 声を掛けてきた当事者にびくっと桜乃が過剰に反応している一方で、真田は桜乃の傍にまだ置かれていた紙袋に注目する。
「まだそちらが片付いていなかったか…では仕方ないな、小坂田か橘に…」
「い、いえっ!! 何ですか!?」
 本人でもびっくりするぐらいの声を出した桜乃に、真田も何事かと思いつつ言葉を継ぐ。
「う、うむ…良ければ一緒に榊監督の処に行ってほしいと思ったのだが…お前が忙しければ他の…」
「大丈夫です! 私、行けます!」
「? 無理はしなくてもいいぞ?」
「いいえ! 後は置いてくるだけですから…! ほんの少しだけ待って頂けたら」
 だから…他の女子じゃなくて、私と一緒に……
「?? 分かった、ここで待つが、いいか?」
「はい! 行ってきます!!」
 相手の返事を貰って、大急ぎでその場を荷物を抱えて去っていった少女を見送り、渦中の若者は首を傾げながら呟いた。
「…随分と気合が入っているな…何か、あったのか?」
 戻って来たら聞いてみるか…いや、しかし…

 互いが互いを意識したこの瞬間、二人の『恋路』が誰にも…本人達にすらも知られる事なく開かれていた…






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