運命の人
「む…桜乃」
「弦一郎さん、こんにちは」
ある平日の午後、青学の一年生である竜崎桜乃が、立海男子テニス部の見学に同校を訪れた時のことだった。
副部長の真田弦一郎が、彼女の姿を見つけると、いつになく急いだ様子で彼女へと近づいてきた。
今は部員達にも指示をあらかた出し終わり、多少は時間のゆとりがあるらしい。
「ご無沙汰してました、お元気そうで…」
「う、うむ…お前も息災だったようだな」
ぺこりと一礼し、こちらを見上げてくる年下の娘に、厳格な男はややどもりながら返しつつ、帽子のつばに手をやり深く被りなおす。
何ともぎこちない応対だが、それでも実はこの二人、恋人同士なのである。
なったのは最近の話、で、告白したのは、いかにも硬派な男の方だった。
青学と立海はテニスに関してはライバル校同士だったが、男子と女子に分かれたらその意味はなくなる。
同じテニスを嗜むということで、少女が立海に見学に訪れるようになったのが真田にとって人生の大きな転機となった。
彼は今時珍しい程に古風な男であり、幼い頃から祖父の指導の影響を強く受け、その言動は時にタイムスリップしてきた武士ではないかと思う程。
かろうじて同じ部のレギュラー達とは、テニスと言う共通の話題から話を広げる事が出来るのと、これまでの部内の付き合いから友好な人間関係が築けている。
しかしそれでも今時の流行り廃りの話には殆ど興味もなく、それ故、同年代の若者達とのファッションやら遊び場に関しての話もあまり続かない。
相手が女性に至っては、厳格な性格に加えてその厳しそうな顔立ちから、勝手に向こうから敬遠されることも少なくはなかったらしい。
別に女性嫌いという訳でもなかったのだが、それでも実生活には何ら支障はなかったので真田本人はさして気にするでもなく日々を過ごしていたのだが…
これまで見知っていた女子とは違い、自分と面と向かって話す時にも恐れを見せず、媚びのない笑顔で微笑みかけてくれる桜乃と知り合ってから、彼は経験のない驚きと興味を彼女に抱くようになった。
最初は本当にそれだけだったのだが、興味を抱いてしまえばより知りたいと思うのが人の子である。
知れば知るほどに真田の桜乃に対する好意は徐々に深くなっていき、遂に先日、彼は意を決して彼女にその想いを伝えたのだ。
正直、受けてくれると信じていた気持ちが半分…そしてもう半分は、彼女には自分以上に素晴らしい相手がいるのではないかという不安だった。
しかし後者は杞憂に終わり、桜乃は真田の告白を嬉しそうに受諾したのだった。
それから真田は、誰のものでもなかった至高の宝が己の手中にあるのだという喜びを日々感じながら過ごしていたのだが…
「桜乃…今度の週末は、空いているか?」
「え? あ、はい、空いていますよ?」
問われたことに対して桜乃はすぐに答えを返し、それを聞いた男はほ、と何処か安心した様子を見せた。
「そ、うか、良かった…その、出来たらその日、会いたいのだが…」
「あ…デート、ですか?」
ぽっと頬を染めながら微笑む少女に、しかし真田はどうしたことか否と答えた。
「い、いや…デートではないのだが…俺の家に来てほしいのだ」
「ご自宅へ?」
何だろうと不思議そうに首を傾げた桜乃に、真田が再度帽子を深く被り直しながら仔細を告げる。
「その…俺の家族が、是非お前に一度会って挨拶をしたいと…」
「…え」
何だか一気に話が大きくなっている気がする…
「弦一郎さんのご家族…に?」
「ああ…昨日の夕食時に、俺が最近やけに嬉しそうにしていると師匠が言ってな…そこからお前の話に及んで、是非挨拶をしておかねばと。確かに俺とお前はもう恋人として付き合っているのだから、やましいこともなければ隠す事もない。俺としてもけじめをつける意味で、それに応じることはやぶさかではない」
相手の言っている事には全く誤りはないのだが、それでも桜乃は全員が固くなってしまうほどの緊張感を覚えた。
確かにやましさを感じる事はないのだろうが、それとこれとは別の話で、こういう場合は多少心が身構えてしまうのが普通だと思う。
「わ…私は構わないんですけど…い、いいんでしょうか? 私なんか…」
門前払いを食ってしまうかも、と懸念を示した恋人に、真田は相手の肩にぐっと手を置きながら頷いた。
「勿論だ! 俺はお前しか…! あ、その…」
一気に言い切るかと思いきや、いきなり言葉の調子が落ちてゆく。
「…お前しか…家族に会わせたいとは思わん」
「弦一郎さん…」
調子が落ちたのが照れによるものだということは、これまでの付き合いからも十分に分かっている。
彼の心が真っ直ぐで偽りのないものだからこそ、自分はここまで彼に惹かれたのだ。
そんな彼が自分を選んでくれたのだから、ほんの少しだけ自信を持とう…と、桜乃は前向きに考えて相手に笑いかけた。
「えと…じゃ、じゃあ…お呼ばれしますね…」
「う、うむ…!」
そして真田もほっとした様子で頷き、かくしてその週末、桜乃は真田家に赴くことになったのである。
問題の日曜日
「何で折角の日曜日にわざわざ呼びつけるのー?」
真田家の長男の息子である真田佐助は、朝から少し不機嫌だった。
「今日は友達と野球しようと思ってたのに、どうして僕が父さんの代わりにここに来なきゃいけないのさ、弦一郎おじさん」
「不満ばかり言うものではないぞ、兄上はどうしても外せない用事があるからと、代理を君に頼んだのだ。男子としてそれはきっちり果たすべきだろう」
兄の子供である佐助に真田がさらりと諭したが、遊びたい盛りの子供にはまだその心構えはよく分かっていないらしく、まだ唇を軽く尖らせて不満を表現している。
俺がこのぐらいの年の頃には、そんな我侭は言わなかったものだが…と思いつつも、真田はそれを口に出すのをぐっと堪える。
下手にまたそんな事を言ってしまえば「おじさん臭い」と言われてしまうのが関の山だ。
今の子供は分からんな…と自分でそう遣り過ごそうとしている間にも、向こうはわしっと自分の着ていた着物の袖を握って、遠慮なく質問をぶつけてくる。
「じゃあ何があるのか教えてよ、何か今日は皆してばたばたしてるんだもん。おじさんだって着物姿だし、何があるの?」
呼ばれたから来てはみたけど、何があるのかぐらいは知りたい、という相手の尤もな訴えに、真田は仕方がないとそれに答えた。
「…今日は俺の恋人が来るから、その挨拶だ」
「…」
聞いた瞬間、真田の袖を握り締めたまま少年は彫像の様に固まった。
「……固まる程の事か?」
「恋人!? おじさんの!?」
「そうだが」
ようやく硬直から逃れた佐助は、目をまんまるに開いて確認した。
「だっておじさんだよ!?」
「何だその含んだものの言い方は」
「騙されてるんじゃない!?」
「そんな訳がなかろう」
「じゃ騙してるの!?」
「そろそろゲンコツが出てくるぞ」
何でそういういかがわしい方向にしか思考が進まんのだ…と、ひくひくと頬を引きつらせつつ真田が答えを返していたところで、自分達のいた廊下の向こう、玄関の方向から女性の声が聞こえてきた。
『弦一郎、お見えになりましたよ』
彼の母親の声だ。
今日の来客の予定はあの娘一人しかいないので、彼女が来たということで間違いはないだろう。
「は、はい! すぐに」
こうしてはいられないとすぐに真田は甥との会話を中断し、玄関へと急ぎ足で向かっていく。
その時の彼の表情に微かに見えた変化に、佐助は声もなく驚いた。
(うわ! 滅多に笑わないおじさんが、何か今笑った…!?)
こんな事を簡単にしてしまえるって事は…もしかしてその女性の人って凄いのかも。
そんな事を思いつつも、まだその時の佐助は多少斜に構えた考え方をしていた。
(でも、あの弦一郎おじさんが好きになって、しかも向こうもおじさんを選んだってことだからな〜……もしかしたら物凄いマッチョな、ゴリラみたいな感じだったりして)
しかし、どの道会わない事には真実も分からない訳であり、全員で出迎える形で佐助は真田の少し後をついていく形で玄関へと向かった。
彼が玄関に着いた時にはもう他の家人は全員その場に揃っており、いよいよ現れた客人を己の目で確認していた。
「あの…お初に御目文字致します…竜崎桜乃と申します」
「!!」
少なくとも、この女性をゴリラと見間違えるなら、その人はもう自分の目は無いものと思った方がいい。
その人は真田がいつも見慣れていたおさげを解き、長い黒髪を遊ばせた姿で、ほんの少しの恥じらいを覗かせながら笑っていた。
薄い色のワンピースは余計な飾りがない分、素のままの彼女がより強調されている気がする。
普段彼らの中で一番よく会っている筈の恋人の真田本人ですら、今の彼女の姿を見て、声を出すのを躊躇ってしまった程だ。
「あらまぁ、可愛らしいこと!」
彼の代わりに第一声を発したのは、息子と同じく着物姿で出迎えた真田の母親だった。
そして彼女の感嘆の声に続いて、その場は少しばかり騒然となる。
「いや、弦一郎が連れてくると言うから正直、もっと固い感じの子かと思っていたが…」
これは意外だったと母親同様に彼の父が桜乃を喜ばしそうに見詰めている脇では、同じ事を考えたのだろう祖父が、それ以上に興奮していた。
「でかした弦一郎!! お前の兄も佐助という男児を持ち、お前にもこんな良い伴侶が出来たとあれば、これで真田家も安泰じゃ!!」
「ししし、師匠っ!?」
今日は、紹介…しかも伴侶ではなくあくまで恋人のそれだった筈だが…!?と、当人の弦一郎が慌てて大人達を抑えにかかる。
決して桜乃との事が遊びだという訳ではないし、自分だって彼女と生涯を通じての付き合いになれば良いと心から願っている。
しかし、周囲が過剰に騒ぎたてたら、肝心の向こうが一気に引いたり、距離を置こうとしてしまわないか…真田はそれが恐ろしかったのだ。
そんな息子が憂慮している一方では、最初に桜乃を褒めた彼の母が頬に手を当てながらほう、と溜息を零して呟いていた。
「まだ中学生だから準備していなかったけれど…やっぱり早めに判を押させた方が良かったかしらねぇ」
「何を企んでいらっしゃるんです、母上…」
何となく犯罪の匂いすらしてきた…と真田は内心怯えていたが、当の桜乃は思ったよりも落ち着いている様子だった。
(うわぁ…流石に弦一郎さんのご家族だけあって賑やかだなぁ…『弦一郎を婿に欲しければワシと勝負せい!』とか言われると思っていたけど…)
どうやら、彼女の想像内の彼らの方が上を行っていた様である。
少しだけ安心したところで、桜乃はきょろ、と家族の全員を見渡した。
(ええと、弦一郎さんの、あの御方がお祖父様でしょ? で、ご両親…あれ?)
約一名…随分と若い子が同席しているみたい…
桜乃は頭の中で再度真田から聞かされていた家族構成について思い出してみる。
(あれれ? 弦一郎さんはお兄様はいるって聞いていたけど…弟さん…はいなかったと思うんだけど、私の勘違い?)
その疑問の発端となった佐助は、最初見た時から変わらずじーっと桜乃を凝視している。
射抜いてくるような視線と自分のそれをふと合わせた桜乃は、大抵の女性が子供に対してそうする様に、にこりと優しく笑いかけた。
「初めまして」
「あ、は、はじめ、まして…」
いつもはやんちゃな佐助が、何故か激しく狼狽しどもっている間の隙を突いて、真田はその場で家族の紹介をした。
「俺の祖父と両親だ…そして彼は、兄の長男の佐助だ。兄がどうしても抜けられない仕事があって、代理として佐助が同席することになった」
「そうだったんですか、てっきり弟さんがいらっしゃったのかと…佐助君、いくつ?」
「ろ…六歳…」
「わ、六歳? それでもうお父さんの代わりを務められるんだ、偉いね」
「……」
感心した様子でにこにこと笑いかけてくる桜乃の顔を、ちらちらと見ては視線を逸らす動作を繰り返している甥に、真田が何事だと眉をひそめる。
(急に大人しくなったな……ウチは女性が少ないから慣れていないのか、俺も今思えばそうだったかもしれんし…)
今でも十分に慣れていない部類に入るだろう男がそんな事を考えている間に、玄関での立ち話も何だから、と桜乃はいよいよ中へと通されることになった。
「桜乃ちゃん、ちょっとこっちにいらっしゃい。貴女に是非見てほしいものがあるの、弦一郎、少しこの子を借りますよ」
「はい?」
「え? は、母上?」
桜乃を早速連れて行こうとしている母親に、何をするつもりなのか…と確認しようとした真田に、
「気になるなら、一緒に着替えているところを見る?」
とにこやかに相手が問いかけ、即座に彼は撤退を決意した…いや、せざるを得なかったという方が正しい。
「部屋におります!!」
「そうして頂戴」
ノゾキの様な下劣な輩と同等に看做されては堪らないと、真田はそこで一度桜乃と別れ、自室へと戻った。
「全く…母上にも困ったものだ」
「キレーなお姉さん…好きな人いるのかな」
「……」
ぼうっとした様子でそんな事をのたまった甥に、真田は大人気なくもずずいと迫り、物凄い気迫で念を押した。
「佐助君…桜乃は俺の恋人だとさっき言ったばかりの筈だが…」
「…」
普通の人間なら少なからず怯えるところだが、流石に真田家の血を引く人間と言うべきか、佐助は真っ向から相手の視線を受け止めると、数秒後にくるりと背を向けた。
「僕の方が若いし、弦一郎おじさん相手なら十分勝てそう」
(子供にどういう教育をしているんだ兄上―っ!!)
普通、身内に自分の恋人を紹介する場合、認知してもらうのが正当な理由であって、骨肉の争いを始めるというものでは決してなかった筈!!
しかも、何でよりにもよってこんな身内の小学生と…っ!!
ぶるぶると拳を震わせながらそんな事を思っていたところで、真田はふと考え直した。
(…む、いかん…冷静になれ弦一郎)
己にそう言い聞かせつつ、彼は腕を組んで深呼吸する。
そうだ、相手はたかが小学生…しかも一年生ではないか。
そんな子供の戯言に本気になって怒るなど、自分の方が狭量だと相手に証明する様なものだ。
ここは年上の威厳を示す為にもどっしりと構えて、余裕を見せてやるのが大人の対応だろう…それにそもそも桜乃はそんな浮気な娘では断じてない!
「ふん…無駄な足掻きを」
「ふーんだ」
向こうは向こうで何か思うところがあるのか企んでいるのか、それ以上は佐助も真田に絡もうとはせず、暫く微妙な空気と時間が部屋に流れていたが、やがて誰かが静かな音をたてて真田の部屋前に来たのが分かった。
家が完璧な和式建築なので、彼の部屋の仕切りはドアなどではなく襖であり、向こうから聞き覚えのある女性の声が遠慮がちに響いてきた。
『弦一郎さん?』
「! 桜乃か」
「今開けます!」
声を聞いた後の反応は真田よりも佐助が格段に早く、彼は襖に駆け寄って勢い良くそれを開く。
その向こうに立っていたのは…
「わ…」
「う…っ」
男二人、声も出せずに佇む向こうには、真田の母親に連れられた着物姿の桜乃がいた。
桜乃の名に因んでという意味なのかは分からないが、麗しい薄桃色の地に、桜の花紋が小さくも艶やかに散っている。
長い髪は見事に結い上げられ、小さな髪飾りが遠慮がちに揺れており、恥らっている桜乃の彩にまた別の彩を添えていた。
「弦一郎から大体の身長を聞いていたから、私の若い頃の着物を出してみたの。細かいところは仕立て直す必要があるけど、思っていたよりもぴったりでしたね」
「あ、有難うございます、お母様。でも、仕立て直すだなんてそんな…」
てれりてれりと真っ赤になって遠慮する桜乃は桜の花以上に愛らしく、真田は思わず彼女に見蕩れてしまっていたのだが、その隙を突いて佐助がにぎっと彼女の両手を握り締めてきた。
「一目惚れを信じますか?」
「はい?」
「佐助――――――――――っ!!!!!!」
どっしり構える気概も何処へやら、真田は憤怒の形相で二人の間に割って入って半ば無理やりに引き離す。
「わーっ! 弦一郎おじさんがいじめるーっ!」
「都合のいい時だけ子供の振りをするな馬鹿者―っ!!」
実に賑やかな恋人と彼の甥っ子のやり取りを、桜乃は少し不安げに見つめ、止めようか迷っていたが、母親はあっさりとした様子で彼女に居間に移動するように促した。
「そろそろ行きましょうか、桜乃ちゃん」
「あの…実の息子さんの心配は…」
「甥にやられる程度の人間など、この真田家には要りません」
(ああ、やっぱりこの人も真田家の人間…)
桜乃がそんな再確認をしている間に向こうも少しは落ち着いたのか、反目し合いつつも同じく居間へと移動して行った。
真田リクエスト編トップへ
サイトトップへ
続きへ