兄の理想 妹の理想


「ふあぁ…おはよ〜」
「あ、お兄ちゃんおはよう」
「ん、おはよ、桜乃」
 白石家は、その日の朝もいつもと変わらず平和だった。
 四天宝寺中学の三年生であり、男子テニス部の部長も務める白石蔵ノ介は、いつも通りの時間に起き出して、洗顔、着替えを済ませ、リビングへ入った。
 入ってからすぐに迎えてくれた少女の声に、彼は薄く微笑みながら挨拶を返す。
 その視線の先にいるのは、妹である白石桜乃の後姿だった。
 こちらを向いていないのは、別に喧嘩しているとかそういう訳ではなく、彼女がガスレンジ前で目下料理中だったからである。
 他の家人は、今ここにはいない。
 テニスの練習に行く白石と、彼の食事を作る係である桜乃が、この白石家の中では一番の早起きさんなのだ。
「相変わらず早いんやな」
「それはくぅ兄ちゃんもでしょ? 毎日テニスの練習、大変だね」
「んー、まぁ好きでやっとることやしなぁ」
 桜乃が呼んだ『くぅ兄ちゃん』というのは勿論、白石のことである。
 本名が蔵ノ介なので、そのまま呼んだら『蔵ノ介お兄ちゃん』になるのだが、流石にこれを呼ぶのは堅苦しくて頂けないし、何より呼びにくい。
 他の家族からは名前をそのまま呼ばれる事が殆どだったが、二歳下の妹である桜乃だけは、小さい頃から彼の事を最初の音をとって『くうちゃん』、『くう兄ちゃん』と呼んでいた。
 その時期から彼にべったりの甘えっ子だったので、ずっとその呼び名で通し、相手の白石自身もそれを喜んで許しているので、桜乃の兄に対する呼び方が直される兆しは今のところない。
 まぁ確かに年頃の若者からしてみたら、『蔵ノ介』と呼ばれるのは『オヤジ臭い』という気持ちも多少はあるのかもしれないが。
 先に食事を摂り始めた白石に続き、桜乃もようやくお弁当を作り終わった後で席に着いた…が、その手が箸に伸びる前に、彼女の視線が相手の左腕に止まった。
「あ、お兄ちゃん、包帯解けてるよ」
「ん? ああ、ほんまや。ちゃんと巻いたつもりやったのに…」
 制服のシャツから覗いている左腕には、いつもしっかりと巻かれている白い包帯…しかし今日はその結び目が解け、断端が見える形で包帯の一部が垂れ下がっている。
 白石がそれを直すより早く、一度席についた桜乃が再び立ち上がって彼の傍に寄ると、代わりに包帯を取ってまきまきまき…と器用に腕に巻き直し始めた。
「ちょっと待っててね、直すから」
「おおきに」
「どういたしましてー」
 右手で味噌汁の入った器を持って口につけながら、白石は彼女にそれを任せる。
 その様子は非常に仲睦まじい。
 確かに。
 彼らは白石家の中でも最も仲が良い家族だった。
 それは勿論、妹の桜乃が兄の白石を慕っているということもあるのだが、それ以上に、白石が兎に角、桜乃の事を溺愛して止まないのだ。
 無事に桜乃が生まれて家に来た時、白石はまだ若干二歳程度の幼児だった。
『ほら蔵ノ介、ウチの新しいお姫様だよ』
 親か親戚が言ったその言葉が、どれだけ彼の心に残ったのかは分からない。
 しかし、年が経つにつれて、明らかに彼は自我を確立させると共に妹の桜乃を溺愛し始めたのだ。
 普通、妹や弟が出来た時、兄や姉は親を彼らに取られたと嫉妬したりするものだったが、白石は対象が逆だった。
『親が妹を独り占めしている!』
 これである。
 結果、彼の桜乃に対する接触は、親への競争心も手伝い、更に増していったのだった。
 妹の体質も、そこには影響していたのかもしれない。
 兄の白石とは正反対で、桜乃は小さい頃から病弱だった。
 よく熱を出しては寝込み、うんうんと苦しそうにしている妹を付きっ切りで看病し、その所為で白石までもが心労の余りに寝込んで、二人一緒に布団を並べた事もある。
 兎に角、下手をしたら親以上の愛情をもって白石は桜乃を育て、結果、桜乃もその愛情を一身に受けて、まごう事無きお兄ちゃんっ子になってしまったのだった。
 そんな白石の愛情の証の一つに、桜乃の言葉遣いがあった。
 桜乃は、兄と同じく関西にずっと住みながら、珍しく関西弁に染まらず標準語を話している稀有な人物。
 それもまた、白石の一念によってもたらされたものだった。
 彼は小さい時から関西に住み、そこに住む人々を見てきた。
 非常に活気溢れる人々、人情ある街…彼も故郷の事は勿論気に入っていたのだ…が!
 所謂『おばちゃん』世代の彼女達を何気なく見ていた時に、少年は幼心にふと、自分の妹も将来彼女達の様になってしまうのだろうかと激しく不安になった。
 とにかく元気…まぁ元気なのは良いのだが、少々勢いがあり過ぎると言うか…男性でも付いていけなくなるあのハッスル振り…
 この関西にいる限り、それは避けられない宿命なのか…否!!
『桜乃は、僕が絶対におしとやかな女性にしてみせるっ! それには先ず何より、正しい言葉遣いからっ!!』
 まぁ、小さな子供が考えることである…が、本人にしてみたら大真面目。
 かくして自分自身が関西弁に染まっていながらも、白石は幼少時より桜乃に標準語から女性のたしなみから教えられることを徹底的に叩き込み、今ではすっかり家の中で彼女だけが標準語を話す異文化人間になってしまった。
 何処かで何かが間違ってしまったのかは分からないが、まぁ仲良き事は美しき哉。
「はい、出来ました」
「ん」
 包帯を巻き終わりようやく食事に取り掛かった桜乃は、それからも実にしとやかな仕草で朝食を頂いていた。
 白石のたゆまぬ努力が立派に実を結んだ結果である。
 そんな可愛い妹も、今年からは自分の通う四天宝寺中学校の一年生となり、それは白石にとっても喜ばしいことだった。
「どうや、学校にはもう慣れたか?」
「うん、小学校から一緒に上がった子もいるし、新しいお友達も出来て楽しいよ? たまに迷子になったりするけど、それは他の人に道を聞けばいいし…」
「まぁそうやな…あんまり知らん場所に行ったらあかんで」
「お兄ちゃん、それじゃあいつまでたっても学校に馴染めないんだけど…」
 大事にしてくれるのは嬉しいんだけど…と苦笑した桜乃がそう言った直後…

『白石―――――――っ!! 迎えに来たで〜〜〜っ!!』

「!」
「あら…金ちゃんの声…」
「珍しいなぁ…半遅刻常習犯の金ちゃんが」
「半って?」
「どんなに遅く起きても、何故か登校時間には間に合うんや…その分、障害物は破壊されてくけどな」
「……う〜ん」
 どう言えばいいものか…と悩みながら苦笑する妹に、同じく苦笑を返しながら白石は立ち上がった。
 丁度食事も食べ終えたし…そろそろ出かける時間でもあった。
「ほな、行こかな」
「くぅ兄ちゃん、お弁当」
「ああ、おおきに」
 いつも二人一緒に登校するのが常の彼らは、今日は先にお弁当を受け取った白石が玄関へと向かい、そこに待っていた一年生を見つけて挨拶した。
「金ちゃん、おはよう」
「おはよー白石っ!」
 明るい髪色の、瞳が大きな少年が、白石に純粋無垢な笑顔を見せる。
 背中に背負っているのは、愛用のテニスラケットだ。
「相変わらず元気やなぁ…どしたん、今日はやけにノリノリちゃう?」
 そんな彼の質問には答えず、その後輩…遠山金太郎はきょろきょろっと白石の周囲を目で追い…む〜っとつまらなそうに唇を尖らせた。
「桜乃は〜?」
「ああ、もうすぐ来るで」
「ホンマ!?」
 ぱぁっと嬉しそうに笑う後輩に、やれやれと白石は笑う。
 この遠山金太郎という少年は、殆ど野性児である。
 食べる事と寝る事と遊ぶ事…そしてテニスが大好きだ。
 自分の妹と同学年であるのだが、精神年齢は明らかに彼の方が下だろう。
 そうこうしている内に、自分の準備も済ませた桜乃が玄関先に現れると、遠山は大いにはしゃいで彼女にも挨拶した。
「あ、桜乃、おはよー!」
「お早うございます、金ちゃん」
「うん!」
 どうやら彼は白石同様桜乃にも非常に懐いているらしく、まるで犬がわふわふと主人に纏わり付いている様だ。
「金ちゃん、あんまり玄関で暴れんなや…ほな行こ…」
 そう言いながら、白石ががちゃ…と玄関のドアを開けると…

『おはよー』

 その玄関のすぐ先の門に、自分と同じ制服を着た数名の男子生徒の姿が見えた。
「………」
 ぱたん……
 無言で白石が再びドアを閉める。
「? お兄ちゃん?」
 どうしたのかと疑問の目を向ける妹に、白石は危機感に溢れた表情で、ぐっと彼女の手を握りながら願った。
「ウチの外に変質者がおるって警察に電話してくれへん?」
「えぇ!!」
 尋常ではない兄妹の会話が終わる前に、それを聞きつけたらしい向こうが玄関のドアを開いてなだれ込んできた。

『ちょっとあんまりやろソレ―――――ッ!!??』

「そら来た変質者――――――っ!!」
「きゃ…!」
 桜乃を庇う様に前に出た白石の前に新たに立ったのは、彼と遠山と同じ、テニス部の面々だった。
「まぁ皆さん…お早うございます」
 兄を通じて面識があった桜乃は、彼らに驚きながらも挨拶する。
「はは、お早う、桜乃ちゃんは相変わらず礼儀正しかね〜」
 長身で、日焼けした肌がワイルドさを際立たせているくせっ毛の男・千歳千里が軽く手を上げて挨拶を返している脇では、彼に勝るとも劣らぬ色男の、二年の財前光と三年の忍足謙也がこそこそと話し込んでいた。
『だから、金太郎さんで部長誘い出した後で、桜乃さんだけを呼んだらいいって言ったやないですか』
『アホ、そんなんしてもすぐに金太郎からバレるに決まっとるやろ。ここは先ず印象を良くしておいてやな…』
 聞こえてくるその会話で、白石のこめかみに青筋が立っていく。
「ほ―――――ん……そういう腹積もりだったワケやなぁ」
 そんな怒りを込めた一言を投げつける彼に、眼鏡を掛けた明らかに『見た目』男子の一人がきーっと噛み付いた。
「酷いわ酷いわ、白石クンッ! か弱い乙女のココロを持つアタシを変質者呼ばわりだなんてーっ!!」
「スマンけど、一般常識的には自分が一番変質者なんやで小春…」
「それは言わんといてーな、白石」
 金色の相棒でもある一氏が諌めている脇では、必死に事態の把握を図ろうとしている桜乃が、一番冷静な石田銀に問い掛けていた。
「ええと…結局、何の御用なんでしょうか、皆さん」
「つまりは、皆、部長と貴女と一緒に登校を希望しているという事で」
「あ、やっぱりそういう事で良いんですね…てっきり別の意味があるのかと…」
「…そこは理解致しかねる」
 別の意味…はあるのだろうが、そこは悟りながらも語らず、石田はなむ、と合掌するに留めた。
「いいですよ、行きましょう……お兄ちゃんが変質者なんて言うからびっくりしちゃいました〜」
 うふ、と笑う桜乃に、同じく笑いながら千歳が手を振って断った。
「よかよか、中学生の身空で『絶頂―――っ』なんて言う奴に言われても、痛くも痒くもなかとよ」
「じゃかあしいっ!!」
 財前と忍足の首を片手ずつで締め上げていた白石が速効で突っ込んだが、そんな兄の攻防も空しく、彼ら兄妹はそれから全員と一緒に登校する羽目になってしまったのだった……



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