厄介な病・1
ピピッ ピピッ ピピッ……
「う、うう〜〜〜〜〜ん…」
或る日の早朝、或る一軒家の一室…
ベッドの上にもこりと盛り上がった掛け布団の山が、朝日を浴びながらもぞもぞと動き出し、やがてその奥からにょきっと白い手が生え出した。
「ん〜〜〜〜〜〜…」
枕元で電子音を響かせているデジタル式の目覚まし時計を求め、その白い手はぱたぱたと暫く宙を彷徨ったりベッドを叩いたりしていたが、ようやく目的の物体に辿り着いたところで、器用に形を確かめながら、アラームのスイッチを切った。
「……」
暫くは何の変化も起きず、布団の中の人物が寝過ごすパターンかと疑われるには余裕の時間が流れたが、そこでぐらりと掛け布団が大きく激しく揺らいだ。
「…・ふあ」
中の人物がようやく布団を除けて、上体を起こす。
完璧に彩を失ってはいない、薄い色彩の髪を少しだけ乱れさせた一人の若者が、軽く目を擦りながら首を振り、そして一度大きく伸びをする。
「んー…おかしいなぁ、もうそんな時間?」
少し不思議な言葉を呟きつつ、彼は振り向いて枕もとの時計を改めて確認した。
そこにはしっかりと起床時間に設定されていた時刻が示されている。
「…? 桜乃は?」
時計を疑った原因となった少女の名を呟きながら、彼は…白石蔵ノ介は床へと足を降ろし、ゆっくりと立ち上がる。
彼の朝は、白石家の人間の中でも二番目に早い。
それは、彼が部長を務める四天宝寺男子テニス部の朝練に参加しなければならないからである。
関西でも並ぶものなしと呼ばれている強豪校は、その試合中おちゃらけた態度を見せる事もままあるが、それはテニスに対し不真面目に取り組んでいるという事と同義ではない。
やるべきことはやり、流すべき汗は流し、そういう日々の積み重ねの中で培ってきた実力を踏まえての、一つの作戦でもあるのだ。
特にこの白石という男は、スポーツの中でもパフォーマンス性が求められる事も多いこのテニスという競技に於いて一切のそれを排除し、無駄な動きをカンナで一日一枚削いでいく様な気の遠くなる様な練習を繰り返し、『聖書』と謳われる程の正確無比な動きを身につけた努力の人。
背負う部を勝利に確実に導く為に、己のプレースタイルをそれと定めた、才ある若者だった。
そんな白石は、当然今日もいつもの時間に起き出して朝練に向かう予定だったのだが…今日は何故かいつもとは違った。
白石の実の妹である桜乃の姿が見えないのだ。
繰り返して言うが、白石がこの家の中では二番目に早起きである。
そして何を隠そう妹の桜乃が、一番の早起きチャンピオンなのだった。
兄の白石より早く起きて朝食の準備を整え、お弁当も作成し…そして作業が落ち着いたところでまだ起きてきていなければ、兄の部屋のドアをノックして起こしに来るのが、彼女の日課だった。
その時刻は大体いつも、目覚まし時計が鳴る数分前。
なのに今日に限って、白石が体内時計に従いいつも起きる時間に目を覚まさず、予防線である目覚まし時計に設定されていた時間を過ぎても可愛い妹の呼び声が聞こえてくることはなく、彼は無遠慮なアラーム音を最初に聞く事になってしまったのだ。
「…もしかして、朝食作るのに手間取っとるんかな」
年に数える程度ではあるが、これまでも桜乃がちょっと寝過ごしてしまって、起こしに来る時間が多少ずれてしまうという事は確かにあった。
まぁ勿論、妹を一番可愛がっている白石がその程度で彼女を叱ることなどなく、これまでは全例で笑って許してやっている。
(夏休みやしなぁ、夜更かしでもしとったんかな…ま、たまには俺から起きてもええやろ)
今日は兄を起こす仕事を減らしてあげよう、という微妙な心遣いで、白石は制服に着替えるとそのまま部屋を出て洗面所に向かい、身支度を整える。
そして、きっと妹が忙しなく立ち動いているだろうリビングへと行ったところで…彼の足がぴたっと止まり、代わりに目の動きがやたらと激しくなった。
何処を探しても、妹の姿が見えない…陰に隠れて動いているのだろう音もしない!
(え? どういう事や…?)
つまり桜乃は…まだ起きてきてへん言うことか!?
「…って事はホンマに寝過ごしてるんかな…ちょっとヤバイんちゃうか」
まだ夏休み期間中とは言え、働きに出る親達の弁当の分の心配もある。
これは流石に起こしにいった方がいいだろうと判断し、白石はすたすたと少しだけ急ぎ足で廊下を渡り、目的の妹の部屋の前に来ると、どんどんとドアをノックした。
「おーい、桜乃。起きてるんか? 早うせんと、朝の準備に間に合わんで?」
呼びかけてみても、返事が無い。
「……桜乃―?」
余程疲れていたのだろうかと思い、再度呼びかけてみたが、やはりしんとした沈黙の世界のみが彼を包んでいた。
「……」
おかしい。
ざわっと嫌な予感が白石の胸中を巡った。
(こんなに返事がないなんて、まさか中に誰もいてへんなんて事…もしかして、夜にこっそり家を抜け出していたり…? ま、まさか俺に内緒で、どっか友達の家に泊まりに行っているとか……友達の家ならまだええけど、もしかして男性の家に…)
考えれば考える程にヤバい思考が沸き上がり、白石は一人で勝手にパニックへと陥ってしまった。
「わーっ!! アカン!! 絶対にアカンでそれは! おにーちゃんは許しませんっ!!」
そして勝手に盛り上がり、彼は遂にノブを捻ってドアを勢い良く開き、中に一歩踏み込んだ…ところで、
どんっ
「わ!」
「あう…」
どうやらドアの直前に立っていたらしい妹と派手にぶつかってしまった。
軽くよろけたものの、白石はすぐに体勢を立て直して相手を確認した。
「おお桜乃…良かった、おったんやな」
「んうー……くぅ兄ちゃん? なぁに?」
パジャマ姿の妹は、何となくぼーっとした感じでその場に佇んでいる。
元々呑気な性格の少女ではあるが、普段はここまで隙だらけではなく、白石はすぐに相手の変化に気がついた。
「なぁにって…もう朝やで桜乃? 目覚まし忘れとったんか?」
「え? そうなの…? やだ、ご飯の準備…」
驚く仕草も今ひとつ勢いに欠けていた少女は、そのまま白石の脇を抜けて部屋から廊下へと踏み出した。
その時、廊下により強く差し込んでいた朝日が桜乃の姿を照らし出し、それを見た白石が仰天した。
「ちょ…っ!! 桜乃!? 自分、顔真っ赤やで!?」
「え……」
くるっと相手に振り向いた少女は…それから彼にはもう何も言う事はなかった。
自分の不調に気付いていて何でもない振りをしていたのか、それともあまりの不調に自分の状態さえも把握出来ていなかったのか…
「…――――」
くったり…と、妹は目の前の兄に倒れこむように気を失ってしまったのだった。
「桜乃!!」
大慌てでその小さな身体を受け止めた白石は、一度屈んで桜乃を上向きに抱きつつ、そっとその額に手を触れた。
「何やこれ!…桜乃の身体、燃えるように熱くなっとる…!!」
間違いなく、妹の緊急事態である。
ほんの微熱程度の話であれば、白石もまだ冷静さを保ちつつ、桜乃の身体を再びベッドへと運び、風邪薬を準備するなどの措置が取れただろう。
しかし、明らかに四十度を超えていると思しき高熱だと察知した瞬間、白石もまた、パニックのスイッチが入ってしまった。
もしかして、桜乃に厄介な病が取りついてしまったのでは!?
幼少時はあんなに虚弱だった彼女のことだ、可能性は十二分にある!
このまま熱が下がらなかったり、別の症状が出てきたりして、そして治らなかったら…!?
か弱い少女である妹に、万一の事が生じてしまえば…!
「う…っ」
白石脳のパニックがいよいよ臨界点を超えるかという丁度その時、彼の家の玄関に他のテニス部レギュラーの面々が訪れていた。
一緒に学校に行ってそのまま朝練をしようという、彼らなりの友情である…一方で妹である桜乃にも会っちゃおう、という企みも含まれている。
「白石―っ 朝練行くで〜〜〜!」
一年生の遠山金太郎が大きく元気な声で呼びかけたのだが、返事がない。
「ありゃ?」
「ん? まだ寝てはんの?」
訝る遠山が首を傾げ、一氏も珍しいとばかりに彼と顔を見合わせた。
「変ねぇ…白石君だけならともかく、桜乃ちゃんまで寝坊だなんて…」
金色がしなっと身体をくねらせながら、桜乃の返事もないという事実に疑念を呈したのだが、それに答えるような白石の悲鳴が轟いてきた。
聞こえてきた、という生易しいものではなく、正に、轟いてきたのだ。
『うわ――――――っ!! 桜乃、死んだらアカ―――――――ンッ!!!』
あまりの爆弾発言に、聞いたレギュラー達も例外なくびっくり仰天。
『えええええ!!!??』
途端に、彼らの中にもパニック菌が伝染してしまった様な大騒ぎ。
「し、死ぬーっ!? 桜乃、桜乃が死ぬんかっ!?」
「おおおおお、落ち着いてや金ちゃん! き、きっとこれは何かの白石の間違いで…」
「しかし忍足はん。部長の今の叫びは尋常なものとちゃいます。よく話を聞いた方が…」
「それより今は110番でしょ!! 殺人事件は初動捜査が肝心で…!」
「それ、下手に白石ん前で言うたら第二の殺人事件が起こるばい、財前」
パニックに陥りながらも、そこは流石に体育会系。
考えるより先に身体は動いてしまう様で、彼らは次々に白石家へと飛び込んでいき、そこで桜乃の身体を抱えて錯乱寸前にあった白石を見つけたのだった…
三人寄れば文殊の知恵…と言うが、それは古今東西関係なく使える諺であることが今回判明した。
一人だけで動揺の極みにあった白石を見つけたメンバー達は、ひたすらに彼を落ち着かせつつ桜乃の状態を確認し、近場の医療機関に連絡して、大急ぎで彼ら兄妹をそこへと運びこんだのである。
正に電光石火とも呼べる迅速な処置だった。
別に白石を連れていかなければならない絶対的な理由はなかったのだが、ここで彼女と引き離したら、彼の精神の方が参ってしまうかもしれない、と読んだ千歳の判断でそうなったのだ。
「………判明しました」
診察室に通された白石含めた全員は、大人しく外来医の前に並んで彼の診断に耳を傾けていた。
傍の診察ベッドには桜乃が寝かせられ、腕には点滴の針が刺さっている…少々痛々しい姿だ。
普段は元気一杯で一つ処に留まれない遠山ですら、今この時は神妙な面持ちで時々ちらちらと桜乃の方を見ながら、静かに椅子に座っている。
「詳細な検査はこれから行いますが、簡易検査で反応が出ました…インフルエンザですね」
「インフルエンザ?」
「はい、A型です。この時期には季節型が出ることは稀なので、おそらく新型のタイプと思われますね」
「新型…って、ヤバいんやないですか、悪化したりしたら…!」
ここ最近になって、その病が巷を騒がせている事はニュースを見ていたら嫌でも分かる。
確率は高くはないが命の危険性だってあるのだ。
それでも、その場にいる四天宝寺メンバー全員は、先ず自分達への感染の可能性より先に桜乃の病状の方を心配した。
普段は無闇におちゃらけているが、そういう男達なのだ。
「一応、この病気に対して出来ることは、そのウィルスに効果がある内服薬を使用することと、後は症状に合わせた治療を行うことぐらいです。熱があれば解熱剤、痛みを訴えれば鎮痛剤を併用するという形でね。妹さんは現在熱がかなり高いので、可能であれば入院して様子を見たいのですが、残念ながら他の患者さんでベッドが埋まっていて…まぁ、自宅療養も出来ない程ではないので、今は帰宅して頂いて…」
「入院できへんのですか? 何かが起こった時に家じゃ、桜乃…」
「白石…桜乃ちゃんより重症の人も病院にはおっとよ」
明らかに不安で動揺している部長の肩に、千歳が手を置いて相手を宥める。
病院は、常に患者の希望に百パーセント応えられる訳ではない。
「そりゃ…分かっとるけど…」
「こちらの関連病院の方も軒並みベッドが満室の状態で…入院が絶対適応という事態でもないので、現時点では難しいですね」
「何処か、ベッドが空いとる病院やったら入れるんですか」
「ええ、しかし探すのはなかなか困難かもしれません。取り敢えず、必要な内服薬を処方しておきますから、こちらを患者さんに定期的に服用させて下さい。異常が生じたら、その時はまたここに…」
医師の説明はまだ続いていたが、白石の頭にはその半分も入って来なかった。
完治率が百パーセントの疾患だったのなら、もっと気楽に聞けていただろう。
しかし最近、各種報道機関から嫌な話ばかりが耳に入ってきている所為もあって、どうしても万一の事が頭から浮かんで離れない。
例えそれらが大多数の患者達の中での、僅かな確率であったとしても。
(…実際、桜乃も快調に向かっとる訳でもないし、熱は高いままや…しかもあんな苦しそうにしてんのに、家で寝かせとるだけやなんて…)
確かに熱の所為だろうか、桜乃は横になって瞳を閉じてはいるが、吐く息はふぅふぅと苦しげな音を含んでいる。
暫く点滴が終わるまで桜乃は病院で安静ということになり、白石達は一度診察室から外に出た。
「部には先に電話しておいたわよ。白石君は休むからアタシ達で仕切るって」
金色が要領よく部活へ事の次第を説明した事を事後報告すると、財前も時計を見ながら軽く頷いた。
「朝練は結構な時間潰れましたけど、午後の勉強会は何とかなりそうですな」
「ちぇー」
自分にとってはちょっぴり残念な結果になった遠山だったが、流石に桜乃の病気を理由にする様な不謹慎な思考は持ち合わせてはいなかったらしく、それ以上は何も言わなかった。
「部の方はしょうがあらへん。桜乃ちゃんの一大事やしな…部室には報告したし、一日ぐらいならええやろ」
忍足が肩を竦めながら言った後で、彼らの様子を見ていた千歳がソファーに力なく座っている白石に声を掛けた。
「親御さん達が忙しくて来れんなら、お兄ちゃんがついとるしかなかけんね、白石もそっちの方が安心出来っちゃろ。桜乃ちゃんの点滴が終わったら、家に連れて帰ってしっかり薬飲ませんと。学校行くかどうかはまたそん時に決めたら良かばい」
「…ああ、すまん」
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