そんな二人は、昼前には病室に入ってようやく落ち着くことが出来たのだが、そうしたら今度は召使いの様な格好のスタッフが部屋を訪れてきて、一冊のメニューを桜乃に手渡したのだ。
聞けば、昼の食事の希望を取りたいのだと言う…付き添いの白石の分も含めて。
普通、病院食は向こうが決めて出すものではないか、と思うのだが、そこは流石にあの帝王を輩出した世界屈指の大財閥。
主人のニーズに合わせた食事を提供するのは至極当然のことであるらしい。
「…まさか病院で機内食張りに『ビーフ? ポーク? オア、チキン?』って聞かれるとは思わなかったよ…私、飛行機にも乗ったことないのに…」
「ここまで来るともう笑うしかないわ…何やあの横文字の羅列は」
一般の見舞い客でもある白石には別のメニュー表も準備されてはいたらしいが、ものはついでに…と白石も同じメニュー表から適当なものを選んで注文したら、出て来たのは何処のコース料理だ、という様な立派なものばかり。
しかも食器まで超高級ブランドもの…割ったら幾らになるだろう。
「もう病院とも呼べんやろ、こんな宮殿みたいな場所…一体どんなお大尽が使うんや」
「俺の母親だ」
白石の言葉に第三者の声が割り込み、はっと彼と妹が視線をそちらへやると、今回の桜乃の入院の立役者とも言える若者がドアを開けて入ってくるところだった。
ご丁寧に薔薇の花束を抱えているのは、桜乃への見舞いの品というところだろう。
「跡部さん」
「さっき医療スタッフから大体の経過は聞いた。薬で少しは熱も下がったようだな、気分はどうだ?」
「はぁ……もう未曾有の体験で私でもどうなっているのやら…」
「あん?」
ベッドで上体を起こしていた桜乃が、相手に身体を向けつつ言葉を濁していると、代理とばかりに白石が割り込んできた。
「入院させてくれたのには感謝しとるけどな跡部。俺、ちゃんと関西の病院って言うたやろ? 何でいきなり二人して東京まで輸送されなあかんのや」
「何言ってやがる、関西じゃ離れてて俺に都合悪いだろうが」
「…そこに当事者である俺達の都合は入って…」
「ねぇ」
「やっぱり」
聞くまでもなかった…と白石がそっぽを向き、けっとやさぐれたところで、桜乃が跡部に声を掛けた。
「あの…今回は跡部さんが色々と手を尽くして下さったそうで、本当に有難うございます…あのう、一つ聞きたいんですけど」
「ん?」
「私、死ぬんですか?」
「は!?」
「くどいっちゅうに!!」
何度も同じこと言わすな!と白石が割って入り、そこは彼が上手く跡部に事の次第を説明した。
「なに? こんな豪華な場所に入院したから、てっきり不治の病と思った?」
こっくりと大きく首を縦に振った桜乃に、跡部は少々困惑した様子で首を傾げた。
「お前は只のインフルエンザだろう。別に隠しちゃいねぇし、心配ならカルテを見せるように言いつけるが?」
「あ。いえ、そこまでして下さらなくても…」
カルテを見せるとまで言われたら、それはもう相手を信用するしかないだろう。
万一インフルエンザならこれから安静にしていたら徐々に回復はしていく筈だし、となれば、今後の自分の身体が何よりその証拠になる筈だ。
その点についてはほっと一安心した桜乃だったが、次にはまた別の心配が彼女の心に残った。
「…ええと、跡部さん。今さっきの、お母様がこの部屋を使うという話は…」
「ん、ああ…」
そう言えば、言うだけ言って説明していなかったな…と思いつつ、彼は手にしていた花束を桜乃に手渡し、ベッド脇の白石の隣に空いていたアンティークチェアに腰を下ろす。
「ウチの財閥は規模が大きい分、身内はやたらと移動する機会が多い。あちこち飛び回っている間に身体の具合が悪くなる可能性を想定して、一族がいつでも使用出来る病室を各地に数箇所確保しているんだ。ここはその内の一室で母親専用の部屋なんだが、丁度今は日本にはいないからな、使っても支障はないだろうと判断した」
「そ、そんな凄い部屋を…!?」
いいんですか!?と桜乃が大いに驚いていると、白石がへぇ、と跡部に視線を遣って尋ねる。
「財閥トップのご両親ともなれば色々大変なんやろなぁ…して、そのお母様は今どちらに?」
「確か今はロシアに油田を掘りに行っている」
「…まぁ、どっかのスーパに買い物行っている訳もないんやろうけどな」
まさか本当に彼の母親自らスコップ片手に掘っているワケではないだろう…と思い浮かんだ情景を否定しつつ、言葉を濁したところで、跡部の方が付け加えた。
「病室でも仕事が出来るように、PCや電話、ファックスも取り揃えている。どれでも自由に使ってくれてかまわねぇよ」
「すみません、何から何まで…」
彼が指差した部屋の一角には、よく見ると目立たない様にそこだけオフィス仕様になっていた。
本当によく見ないと気付かない様に調度品を上手く使ってカバーしていたので、白石も初めてそれに気付いた。
「おお…おおきに。けどまぁ携帯も持っとるし、そんなに使う用事はないと思うけどな。ああ、暇潰しにネサフぐらいはするかも…」
「いや、さっき俺の所にお前の学校の部員達が連絡を入れてきてな」
「? 何や、千歳達が?」
「彼女が何処に入院したのかということと、念の為に連絡先を教えてほしいということで、そこの直通の電話番号を教えておいた。もしかしたら、そっちにも電話が掛かってくるなりするかもな」
「そうか、気ぃつけとくわ」
そこで話が一旦途切れ、白石は妹が抱えていたバラの花束に目を遣った。
「桜乃、折角やからそれ、花瓶に飾ろ。跡部、そこの空いとる花瓶使ってもええか?」
「ああ、部屋にある奴は基本自由に使って構わない」
「おおきに」
「ああ……それと…」
「ん?」
何かを言おうとしていた跡部だったが、何故か彼はそれ以上の発言を止めると、すっくと立ち上がった。
「いや、何でもない」
実は、幸村にも既にここを知られている事を教えようとしたのだが、思慮の結果取りやめたのだ。
ここで言ったらまた暫くはこの兄の小言めいた愚痴を聞かされる。
何度も言うようだが、これについては全く自分の責任ではない。
向こうが勝手に電話口で騒いで幸村に情報を漏洩したのだから、責任もきっちり自分で取ってもらおう。
小言も聞く義理ではないと判断した上で、跡部はその場からそのまま退室する事を決めた。
最後に彼は桜乃へと向き直り、微かに口元に笑みを浮かべる。
「…思ったよりも元気そうで安心したぜ。兄貴と違ってお前はやけに身体が弱そうに見えたからな」
「う…まぁ、そんなに強くはないかもです」
「……」
えへ、と恥ずかしそうに笑う少女を上から見下ろしていた帝王は、暫し無言になった後でふわ、と彼女の頭を優しく撫でた。
「…お前が元気だったら、もう少し話して口説きたいところだが」
「口説く…?」
意味を解さず、ん?と小首を傾げる桜乃が問い返す間に、跡部の背後に迫った白石が、ごごご…と効果音付きで暗黒オーラを背負っていた。
「俺の妹に近づくな言うとるやろ、インフルエンザ移るで(建前)」
「この空調が完璧に管理された環境で、しかもワクチンを摂取済みの俺様がそんなのに掛かるワケがねぇだろうが…と、言いたいところだが」
反論はしたものの、跡部はあっさりと桜乃から身体を引いて居住まいを正した。
「残念ながらこちらにも立て込んだ仕事があるからな、あまり長居もしていられねぇんだ」
「仕事?」
「関東圏内の学校の都合を合わせて練習試合の計画を立てている。均等に配分するにはそれなりの配慮が必要ってもんだからな」
桜乃の言葉に答えた跡部だったが、その彼の台詞に反応を示したのは彼女ではなく兄の白石の方だった。
「練習試合…」
ぴくんと肩を揺らして跡部を見詰める白石の視線は、既に兄のものではなく部長としてのそれに変わっていた。
「関東言うと、青学や氷帝も入っとるんか?」
「ああ、俺様達だけじゃなくて、不動峰や山吹、六角もな。全国大会で目立っていた奴らは概ね参加しているから、実のある時間になりそうだ」
「面白そうやなぁ…俺らが関西やなければ普通に参加したい感じや」
早速、うずうずと興味も露に瞳を輝かせる白石だったが、跡部は向こうの反応は分かっていたとばかりに渋い表情を浮かべる。
「実質的に計画が稼動するのは夏休み明けだからな…お前らにはちょっとスケジュール的に厳しいだろう」
「うーん…」
桜乃が絡むとシスコンの悪癖が出てしまう白石だったが、部長としての立場と自覚はしっかりと弁えている。
先程までの険悪になりかけた雰囲気は完全に払拭され、彼らは真面目そのものの表情でそれから暫く互いのテニス部について話し合っていた…勿論、話せる範囲に限る形で。
「……」
そんな兄と、彼のライバルの一人でもあるだろう男の真剣な話し合いを、桜乃は微笑みながらじっと大人しく見つめていたが、それはやがて視線に気付いた白石の知るところになった。
「…っと、すまん、桜乃。自分、蚊帳の外にしてつい話しこんでもうたな」
すまんすまんと謝る兄に、しかし桜乃はにっこりと笑って…
「ううん、やっぱりお兄ちゃんの理想の人だけあって、跡部さんとは仲がいいんだね」
と、恐ろしい事をさらりと言い放った。
『誤解だ!!!!』
両者、凄まじい剣幕で力一杯否定したが、そのタイミングも息ぴったり。
あながち妹の指摘も的は外していない…勿論二人とも決して認めないだろうが。
「えー?」
声がぴったり合う程なのに…と言い返したい気持ちはあったものの、それ以上言ったら更に二人が物凄いことになりそうなので、桜乃は大人しくその場は引き下がった。
「ったく…じゃあ俺はもう行くからな。せいぜい贅沢感を味わいながら夏休みの宿題でもやっておけ」
去る間際の帝王の言葉に、白石がちゃっと右手を上げて断りを入れる。
「や、俺もう済んどるし」
「…………」
他の部員から評された通り、見事に学生の本分もきっちり果たしているらしい男だったが、何故かベッドにいる彼の妹は、無言で視線を不自然に逸らしていた。
「……」
跡部退室後、その妙な沈黙に目敏く気付いた白石がずいっと少女に迫る。
「何や、嫌に気になる感じの沈黙やなぁ、桜乃…ちょっとお兄ちゃんの目ぇ見て話そか」
「ううっ…き、急にお腹が…」
あまりにもタイミングが良すぎる腹痛の訴えに、騙されるほど白石も甘くない。
と言うよりも、桜乃のつく嘘は万事が万事こういうレベルなので、騙される方が難しいくらいなのだ。
嘘をつくのが下手なのは或る意味その人の誠実さも示しているのかもしれないが、それと夏休みの宿題事情とはまるで話は違うので、兄はこの件に関しては見逃さなかった。
「えーい! とっとと吐けーっ、何がどんだけ残っとるんや!!」
「うわぁ〜〜〜ん! ごめんなさいくぅ兄ちゃんっ!!」
元々、逃げるという行為そのものにバイタリティーがあまり無い娘であり、その上今回は病人であったことも災いした。
ベッドから逃げる事も叶わず、桜乃は兄に迫られるまま残っている宿題の内容を洗いざらい吐かされてしまったのである、が、実際聞いてみたら兄が懸念していた程の内容ではない事が判明した。
「へ? 後は自由課題と、英語のテキストが何ページか?」
「うん」
てっきり隠すぐらいだから相当残っていると考えていた白石は、一気に気抜けして溜息をついた。
「何やそんぐらいなら、自分ならすぐ終わるやろ?」
「いえそれが……」
兄の楽観的な見方に対し、桜乃ははい、と挙手をして異論を述べる。
「…私、入院しちゃったじゃない?」
「ああ」
「ここ東京だよね」
「そうやな」
「宿題全部、家に置いてきたまんまなんだけど…」
「……」
えーと…と若者の脳裏にカレンダーが浮かぶ。
今は八月の下旬…新学期が始まるまで十日も無い。
桜乃が罹患したのはインフルエンザ…この疾患は基本、発症から一週間は自宅安静を推奨されている。
つまり…退院した頃に夏休みも無情にも終焉を迎えてしまうということだ。
「私も跡部さんにさっき言われて初めて気がついたんだけど…ちょっとだけでも現実逃避したくて……」
「もしもしおかん!? 今すぐに桜乃の宿題一式、こっちに送ってんかーっ!!」
くすんと嘆く妹の前で、白石は自分の携帯で大慌てで身内と連絡を取ろうとしていた。
妹が無事に入院したものの、兄はまた別のトラブルでなかなか気が休まる暇もなかった……
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