桜の君
彼女は、桜の様に清廉で芳しい香りがした…
小さくても気高く咲き誇り、その甘美な香りで人を楽しませ、時には惑わす…
例えどんな知識を誇ろうとも、自然の力には人は抗えない。
俺は、その不文律を、己の身で知らされた…
「おおー、流石は東京や、結構な人がいてるなぁ」
その日…男子中学テニス全国大会の準決勝前日…
白石は滅多に訪れることのない東京を散策しようと、一人街へと繰り出していた。
いつもならメンバー達と一緒に行動する事が多いのだが、たまにはこういう個人での活動もいい。
(ま、いつもは金ちゃんの世話で大体振り回されとるしなぁ…こんなにのんびりするんは久し振りや)
トレードマークの左腕の包帯に、道行く人たちは必ずと言っていい程に視線を向けてくるのだが、彼は全て無視して歩いてゆく。
視線を向けられようと、話しかけられたり、包帯の意図を尋ねたりする人がいないのなら、それは自分が無視することで、無いものへと変わるのだ。
無いものに気を向ける必要もない、義務もない。
割り切った若者は、飄々とした動きで人の波を上手くすり抜けて、街中を歩いて行った。
色々な店舗が立ち並ぶ通り…
いかにもな都会の若者達が群れをなして歩いて行く道を暫く歩いていた白石だったが、一時間も経つと、その表情には僅かに疲労の色が滲みつつあった。
別に体力の限界を感じている訳ではない。
これでも関西の雄、四天宝寺の部長を張っているのだ、たかが数時間普通に歩くぐらい何という事は無い。
しかし、その歩く最中で…
「あの〜、一緒にお茶しませんかぁ?」
「息するだけで精一杯や、茶ってもんは出来ん」
何度も何度も何度も何度も……
見たこともない女性達から、次々と声を掛けられる度に身体にのしかかる疲労感は何とかならないものだろうか…!!
世の中、女性に声を掛けられて喜ぶ男性もいるとは聞いているが…
(いらんわ! 欲しいんなら『のし』つけてくれたるっちゅうねん…ああしんど…)
モテる男にはモテる男の悩みというものは確かに存在するらしいが…彼にとって不幸だったのは、自分がモテる男だという自覚もなければ、興味もないということだった。
しかし、興味もない対象から次々と声を掛けられる度に削られる体力、気力は如何ともし難く、彼は何とかその失われたエネルギーを何処かで補給しようと企んでいた。
「……お」
ふと道の先を見ると、その右脇に翠の彩が鮮やかに輝いていた。
結構大きな花屋の様だ。
(そうやな…植物園程じゃないやろうけど、ちょっとココで休んでいこか…)
下手に騒ぐ女性達より、無言のままに心を癒してくれる植物達の方が、余程自分の心の琴線に触れてくれる…正直に言うと、それだけでは物足りないので、毒の一つや二つでも持ってくれていた方が刺激があって面白いのだが…?
「っても、流石に花屋でそんな物騒なモンはないやろなぁ…」
ここ辺りで見所のある植物園とかあったら教えてもらおうか、と思いつつ、白石は目を留めた花屋へ一時避難を決め込んだ。
「…はぁ、やっぱ落ち着くわ…」
まさか、ここの中でも逆ナンパしてくるような輩はいないだろうが…
それでも暫くは、その可能性を考えつつ神経を尖らせて店内を見て回っていたのだが、どうやら客は今は自分一人だったらしく、徐々に静かな空間に包まれる内に張り詰めた精神も凪いでくる。
毒の無い花々も、こうして静かに愛でる分には楽しい…
(ま、毒のあるモンが好きっちゅうても草花に限るけどな…ん?)
店の中をゆっくりと巡り、その角を曲がったところで、白石は足を止めた。
先客がいた。
中は男性の店員だけが見回りや帳簿の記載をしているだけで、客は自分以外はいないと思っていたが…一人だけいた。
女性だ…しかも自分と同年代…いや、もっと年下か?
(何やあの子…めっちゃ髪長いやん)
その目の先にいた少女は、美しい黒髪を邪魔にならないようにおさげにしていたが、それでも腰まで十分に届く程の長さだった。
彼女が身体を揺らす度に、その黒い束もゆらゆらと揺れる。
最初はその髪の長さにばかり注目していた白石だったが、その視線はやがて相手の横顔へと向けられた。
彼女が立っているのは所謂盆栽のコーナーだったが、相手は結構楽しいのか、にこにこと一人微笑んで指を伸ばしている。
盆栽と言うとどうしても高齢者の趣味というイメージを持たれがちだが、実は最近は自室でお手軽に緑を楽しむという用途で、結構若年者にも人気があるのだ。
(…へぇ)
華美という表現とは程遠い…絶世の美女という表現も違う…
ごく普通の、何処にでもいるような…一見したら只の女子学生だろう…しかし、何故か白石はそんな少女から、なかなか目を離せなかった。
少女はまだ彼の存在には気付かず、一心に目の前の小さな命を見つめている。
(何か…都会の子っちゅう感じやないなぁ…けど、何でやろ? そこらの女よりよっぽど可愛く見えるで…)
習慣なのか趣味からか、白石の脳内で少女が様々な花に例えられる。
(薔薇…やないな、派手過ぎる…百合…と呼ぶには幼い感じやし・・もっと小さくて可愛い感じやし…うーん)
夢中になった所為で、ついつい彼は当の女性の方へと歩き出した。
もう少し近くで見て、もう少しイメージを掴んで…って、何で俺、こんなコトしとるんやろなぁ…まぁええか、時間はあるし。
そんな事を考えながら少女のすぐ傍まで来た時、向こうが白石に気付くより早く、彼は相手の細い指先とそれが触れている小さな盆栽の植物に目を向けた。
「っ!!」
途端に、男の瞳が驚きの色を宿しながら大きく見開かれ、間髪入れずに左腕が相手の手首を掴んでいた。
「きゃっ…!!」
「あかん! 触れんなや!」
「え…」
イメージを掴むどころではなかった。
若者は掴んだ細い手首をそのまま自分の方へと引き寄せ、兎に角、盆栽から引き離そうとする。
一方、いきなり手首を掴まれた娘は、何が起こっているのか分からないまま、掴んだ男の顔を驚きの表情で見上げた。
悲鳴を上げた後は、ただ呆然と白石を見つめるばかりで、何を言おうと自分自身迷っている印象を受ける。
「触ったんか?」
「え…?」
「これ、触ったんか?」
小さな鉢植えの中に植えられていたのは、樹高八センチ程度の細身の木…赤い芽が非常に鮮やかで美しいものだった。
顎でその問題の盆栽を示した男に、戸惑いながらも少女はゆっくりと首を縦に振った。
「え…ええ…」
「……あかん」
「?」
あかん…って、関西弁で『いけない、駄目だ』って意味だったっけ…?
じゃあ、この人は関西の人?
でも、どうしてそんな言葉を言うのかしら…?
疑問に思う彼女の手を離さないままに、白石はぐい、とその手を引っ張った。
「ちょっと、こっちに来いや」
「はい?」
「ええから」
随分と逼迫した様子の相手に、抵抗する事も憚られ、少女は比較的大人しく彼に従って同行した。
その行き先は、店員が常駐している受付だった。
「すみません、あそこにあるの、アメリカヅタやないですか?」
「はい?」
「あそこにある盆栽、アメリカヅタでしょう? 彼女、触ってもうたんです」
「えっ!」
白石にそう言われた壮年の店員は、その言葉だけで全てを察したのか、慌ててあのコーナーへと走って行き、暫くしてからすぐにまた走って戻って来た。
「すみません! 注意書きのプレートが下に落ちてました!」
(…え?)
何の事?と疑問を抱く娘の前で、勝手に話が進んでいく。
「そんなに長くは触ってない思いますが、取り敢えず、湯で洗わせてもろてもええですか? 早うせんと毒が皮膚から入ってまうんで」
「え……ええええっ!!??」
何それ…毒!?
物騒な言葉が耳に入ってきて、それが明らかに自分と関係あるらしいと知ったところで、少女の顔が真っ青になる。
そんな相手を連れて、白石は店員が案内する店の奥へと歩いて行った。
「あ、あ、あ、あのっ…ど、どど、毒って…」
「ああ、心配せんでええよ? 別に死んだりはせんし」
「いえ、死ななくても十分恐いんですけど…」
爽やかな笑顔を向けられても、少女は青い顔のままでぼそりと呟いた。
「ほれ、着いたで」
「え?」
促した男が示したのは、店の裏方にあったシンクであり、彼は迷う事無くそこの蛇口からぬるま湯を出すべくコックを捻り、自身の手を使って温度を確認する。
「…うん、これぐらいでええかな…さ、手ぇ出して」
「え…」
「しっかり洗って毒を落とさんと、後で痛い目に遭うで? ほら」
ぐい、と少女の手を引いて流れる湯の中に曝すと、白石は続けて自分も両手を差し入れ、彼女の手を包むように握った。
「あ…っ…」
「ここで手抜きしたらあかんからな…」
照れてしまった娘に優しく諭しながら、白石はシンクに備え付けの石鹸を借りてそれを泡立てると、相手の手を握って念入りに洗い始めた。
左腕に巻いていた包帯はそのままに。
「あのっ…その包帯…お怪我を…!?」
「内緒や、気にしたらあかんよ」
指先から指の間、掌は言うに及ばず、爪の間までも熱心に洗い続ける。
当然その間、二人の手は触れ合うという様な可愛いものではなく、指が絡み合う程に深く密着している…
「あ、の…だめ、です」
「ん?」
「…手を離して下さいませんか?」
照れながら、しかし目を合わせる事は出来ず、おさげの娘はそれだけを願ったが、相手の若者はきょとんとしながら顔を上げて少女を見つめた。
「え…? 何でや…?」
「だって…」
一度言葉を切り、そして、彼女はそこで初めて真っ向から白石を見つめた。
大きな…黒曜石の様な漆黒の闇を住まわせた瞳が…艶やかに輝いていた。
「貴方の手まで毒に…だから、いけません…」
「っ!!」
どき…っ!と、一際強く心臓が脈を打ち、微かに白石の両手が戦慄いた。
「え…」
何や、この子…そんな事言う奴、初めてやで…!?
今も、てっきり恥ずかしいからそんな事言うもんやと思てたのに…自分よりも俺の心配かいな…
何ちゅう心根の優しい子なんやろ…
「あの…」
「心配せんでもええよ?」
気遣う少女に白石はにこりと笑い、更に強く相手の両手を握った。
それは相手を安心させる目的の為でもあったが…離したくなかったからだ。
「…アメリカヅタはな、分かり易く言うと漆なんよ」
「漆…?」
「そ、結構その中でも毒素が強いヤツなんよ、だから、下手に触れたらかぶれたり、腫れたり、痒くなったりな…けど、死んだりはせんよ、安心しい」
「でも…貴方まで痒くなったら…」
「樹液が付いた部分をしっかり石鹸とお湯で洗って、服も洗って、爪の間の液もちゃんと落とさんとあかん…服は今は仕方ないけど、手だけでもしっかりやらんと後で泣くで?」
「……」
「俺は大丈夫や、直接触ったワケやないし、こうして一緒に洗い流せば心配ない…な?」
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