もう一度、安心させるようににこ、と微笑んだ白石の顔を間近に見た少女が、一秒も待たずにかぁっと真っ赤に頬を染め、俯く。
 その瞳は更に潤み、頬の赤の色が鮮やかに映え、白石の視神経をこれでもかと刺激した。
(うっ……)
 めっちゃ可愛えやんか…!!
 ガラにもなく、自分まで赤面してしまいそうになり、白石は必死に相手の手の処置に集中する…が、今度はその手の白さと細さに意識が向いてしまった。
 更に、若者の鼻腔をくすぐる優しい香りが漂い、それが相手のシャンプーの香りだと分かってしまった瞬間、更に男の心は激しくかき乱されてしまう。
(アカン…何か、ヤバいわ、俺…)
 何考えとんのや…ここはただの花屋で、この子は普通の人間で…俺はたまたまここに居合わせただけやのに…まるで、花の精にでも会うてしまった様な気分や…
(何か、最初に見た時より全然綺麗に見えてまう……はは、木花咲耶姫みたいやな…会うた事はないけど…けど、桜、か…ぴったりかもしれんな)
 そんな事を思いながら、ざぶざぶざぶ、と勢いよく流れる湯で相手の手の石鹸を洗い流した後で、彼はタオルで丁寧に相手の手に付いた水滴を拭きとってやった。
 それ程にきつい作業ではなかったにも関わらず…身体の疲労感が大きい…それはおそらく、必要以上に脈打った心臓の所為だろう…
「…一応ここで出来ることはこれだけや…ええか? 痒みや腫れは熱があったら悪化する、もしそんな感じがしたらすぐに冷やすんや。それと…」
 そこまで言って、白石は自分が持っていたバッグから小さな小瓶を取り出して少女に手渡した。
 趣味の植物、毒草好きが高じて、炎症を抑えるローションを持ち歩いていたのが役に立った。
「もし痒くなったらこれを塗ってみたらええ、少しはマシになるやろ…けど、本当に酷くなったらすぐに医者に行くんやで?」
「は、はい…有難うございます」
 結局、湯に曝しても解こうとしなかった白石の包帯は、腕の半ばのところまで水分を吸い、すっかり湿ってしまっていた。
 それを申し訳なさそうに見つめた娘は、深々と…直角より深くお辞儀をした。
「何とお礼を申し上げていいか…本当に、すみませんでした」
「いや…大した事はしとらんから…お大事になぁ」
「はい…あ、あのう…」
「ん?」
 呼びかけ、少し躊躇うように胸に手を置いて考え込んだ後、その可憐な娘は意を決した様に白石に尋ねた。
「不躾ですが…あの…お名前をお聞かせ願えませんか…?」
「!」
 いつもの逆ナンパだったら、決して教えることは無かっただろう、が、彼女に名を問われた途端、見えない心が小躍りするのを白石は感じていた。
「あ、ああ、名前、な……白石、や。白石蔵ノ介」
「白石さん…有難うございます」
「ん…なぁ」
「はい…?」
 声を掛けた自分に、小首を傾げて答えるその姿さえも可愛い…
 この子の周りの男は、いつもこの笑顔を見られるんやろか…ええなぁ…東京の女は肌に合わん思てたけど…この子なら…
「君の名前も、教えてくれへん?」
 瞬間、きょとんとした少女だったが、その顔はすぐに淡い笑みを称え、こくんと頷いた。
「私…竜崎桜乃って言います」
「桜乃…」
 密かに驚いた。
 桜乃…桜の名を抱いた名前か……
「…はは」
「?」
(ぴったしやなぁ…桜の花の姫様か…)
 あながち間違ってもおらんかったっちゅうワケやな…木花咲耶姫…
 この桜はすぐに散ることはないやろうけど…出会いの時はすぐに終わるんやなぁ、まるで桜が散るように……
 ホンマはもっと彼女について聞きたいけど、出会ったばかりでそんな野暮はナシやろ…
「じゃあ、俺はもう行かな…」
「あ、はい……お気をつけて、白石さん」
「はは、君もな」
 後ろ髪引かれる思いだったが、白石は軽く手を上げて挨拶とし、そのまま店を出て行った。
 まるで夢幻の様な一時だったが、店を出た途端に現実が自身を包む。
 戻ってくる喧騒…人の波…せわしなく流れる時間……
 今はもう誰にも会いたくない、何も聞きたくない、と言う様に、白石は無言で足早にそこから立ち去って行った……


 準決勝の日
 白石は、見事に青学の『天才』を下していた。
 本当に、面白いトコロだ、この街は……
 試合が終わった瞬間、白石は奇妙な程に冷静な思考でそう考えた。
 モノがごちゃごちゃしているばかりの街だと思っていたのに、こんなに強い奴がいた…
 ああ、そう言えば、似たようなことを考えていたな、数日前にも…
 煩い女しかいないと思っていたのに、あんなに綺麗な人がいた…
 そうだな、そんな事を考えていた。
 試合前に不謹慎な事を考えるワケにもいかなかったし、思い出したところでどうにもならない事だったから、敢えて忘れていたけれど……
 こんなに高揚した試合の後では、何故かやけに意識が冴えて、そんな事ばかりを思い出す。
「はは…」
 試合に勝って嬉しいから笑っているのか…自分でも分からない。
 ただ、白石は試合の熱が冷めない身体を、ロビーの冷えた椅子に預け、包帯を巻いた己の腕を見つめながら笑っていた。
(そう言えば、あの子…手は大丈夫やったろか…漆でかぶれたりしたら、結構しつこいし辛いからなぁ…)
 こつこつこつ……
 静かなロビーに足音が響く…一人分の足音だ、無論座っている自分のものではない。
 誰か、関係者か観客が通り過ぎるのだろうと思って顔を上げもしなかった若者は、しかしそれからぴくんと肩を揺らして不思議そうな表情を浮かべた。
 足音が、こっちに近づいてくる…誰や?
 四天宝寺の奴らやないな…向こうは確か、別の…青学の方のベンチやろ?
 レギュラーの誰かが来たんやろか…
 まだ汗が残る肌を外気に晒しながら、男はようやく顔を上げて音の方へと目を向けた…途端…
 がたんっ…
「…!」
 思わず立ち上がっていた。
 重い身体を、試合の後で鉛のように重く感じていた身体を、無意識に、躊躇なく…
「え…」
 どう言えばいいのか…今の自分の感情を…
 驚きと、戸惑いと、喜びと、困惑と……
 ありとあらゆる感情がない混ぜになって、自分でもワケが分からない。
 唯、分かっているのは、今自分の目の前に小走りに向かってきているのは…紛れもない、あの日の木花咲耶姫だった。
「りゅ…ざき…?」
 声が掠れる…何て情けない声なんやろ…けど、今はそれだけで精一杯で…
 目の前に立った彼女が微笑む姿を…見ていることしか出来ん…
「白石、さん……」
 桜乃は、青学の制服を着て、その両手に白いタオルを握っていた。
「…青学の生徒やったん? 君…」
「…はい」
 微笑む桜乃は、あの時と同じ様に白石の心をかき乱す。
 自分がそんな罪な悪戯をしているとも知らず、彼女はそっと遠慮がちに、相手に向けて手にしていた白いタオルを差し出した。
「…あの…御迷惑でなければ…これ、使って下さい」
「!…ええの?」
「はい…」
 自分の学校でも、数多くの女生徒からタオルの差し入れを受けた事はあったが、今の自分の様に気持ちが昂ぶる事は無かった。
「おおきに…」
 礼を言いながらタオルを受け取り、再度椅子に座りながらそっと頬に押し当てる、が、その視界は遮らせず、ずっと桜乃を見つめている。
 もう会えんと思とったのに、こんなに早く、こんなに近く…彼女がいるなんて…
「…驚いたで、まさかこんな所で会えるなんて思わんかった」
「私もです…白石さんがコートに出てきた時は、思わず声を上げてしまいました」
 恥ずかしそうに笑う姿から、それが嘘ではないのだと何となく分かる。
 その時の光景を想像して、思わず若者もつられてしまった。
「ははっ…見たかったで」
「うふふ…」
 互いに笑い合っている間に、白石は感触を楽しみつつタオルで汗を拭き取ると、それを再び桜乃に返したところで、彼女の手に注目した。
「…手は、大丈夫だったん?」
「あ、はい…あれからちょっとだけ痒くなったんですけど…白石さんのお薬が凄くよく効いたんですよ?」
「そりゃ良かったわ」
「白石さんこそ大丈夫だったんですか…?」
「勿論や」
「そうですか、良かった……あ」
「ん?」
 不意に桜乃が声を上げて、白石が首を傾げる。
 彼の額に、まだ拭いきれていなかった汗の玉が一つ、光っていた。
「ちょっと、失礼しますね?…まだ、汗が…」
「…っ!!」
 断りながら、桜乃の顔が迫ってきて、白石の息が止まる。
(ちょっ……)
 清楚な微笑を浮かべたまま、何の警戒心も持たずに無防備に…
(アカン、汚れる…!)
 何故か、無意識の内にそう思った。
 清廉な花の女神が、人に触れたら穢される…俺が穢してまう…っ!
 あり得ない、現実離れした懸念が白石の心に過ぎったが、無論、それは現実には起こらず、何事も無かった様に桜乃が白石の額にタオルを当てる。
 さわり…
「!!」
 額に柔らかな感触…そして間近で己を射抜いてくる瞳…淡い微笑み…
 少女の優しさは、しかし白石にとっては鋭い毒の棘となり、彼の胸を容赦なく射抜いてしまった。
 ざっくりと、心臓を貫通し、鼓動すら許さず、熱い血潮が流れてゆくような…絶頂
(ああ……)
 毒が回る…全身に、余すところなく巡ってゆく…俺という意志が、呑まれてゆく…
(アホやな…桜に毒なんかないて甘く見とったらこのザマや…)
 人が女神を穢すなんておこがましい…その前に天罰が下るのが昔話の常やった。
 世界中の毒草を覚えたからって、そんなん何の役にも立たん…
 そう、桜には毒はない…
 けど、桜はその足許に人を捕えると言われとったやん…見えん毒で人を誘い、その人を抱いて礎にして、全てを昇華させて、だからあれだけ美しい花を咲かせるんやと……昔話で何度も聞かされとったわ。
 目に見える毒ならば、例え侵されても解決出来る…けど、目に見えん毒は、人の手にはもうお手上げや…
(その桜の姫にやられてもうた…アカンなぁ、もう)
 もう棘は抜けない、抜きたくない。
 このまま貫かれたまま、君の毒に浸されたまま、それでいい、それがいい…
「…白石さん?」
 ずっと黙り込んだまま、されるがまま動かない若者に、桜乃が首を傾げて顔を覗きこむと、彼女を下から見上げる形で、白石が切なげな笑みを浮かべる。
「…堪忍や、竜崎」
「え…?」
「…後でどれだけ殴ってくれても構わん、なじってくれても構わんから…堪忍してや」
「はい…?」
 すぅ…
「!?」
 両手を伸ばし、それらで少女の両の頬を支え持った白石は、ぐ、と椅子から身体を少しだけ持ち上げると、そのまま唇を相手の頬に触れさせた。
「え…っ」
 全身を強張らせ、何が起こっているのか把握出来ていない桜乃が息を詰める間に、若者は静かに唇を離し、そして静かに立ち上がった。
「…好きになってもうた」
「……!?」
「…殴らんの?」
 自嘲の笑みを浮かべた若者に、しかし桜乃は真っ赤になるばかりで答えない。
「……」
「…なじらんの?」
「……」
 再びの質問にも沈黙で答えた娘に、白石は再び手を伸ばす。
 それが乙女の頬に触れた瞬間、ぴくんと相手の肩が戦慄いたが、彼女は逃げなかった。
「逃げんのなら…もう知らんよ?」
 君の毒に侵された男は、もう、君しか見えんのやから…
「し、らいし…さん…」
「可愛えなぁ…ホンマに桜の女神みたいやで」
 くすっと笑った男に、頬を染めて俯いた姫は、今度はその唇を優しく塞がれた。
「…っ」
 柔らかな花弁のような唇を愉しんで、白石が微笑みながら耳元で囁いた。
「初めてや…こんな極上の絶頂…」
 それからも、男は己を虜にした花の女神を優しく抱き締め、甘い毒に望んで侵されていた…






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