理想の二人(中編)
時は少し遡ってのロビーにて…
「あーあ、あっちいな今日も」
「しょうがないやろ、夏なんやから…それより急ぎや、跡部のヤツが待っとる」
「分かってるって…」
幸村と桜乃が出会った場所からそう遠くない処では、氷帝の三年、忍足侑士と向日岳人がそんな会話を交わしながら歩いていた。
何処かで飲み物を買って席に向かう途中なのか、二人ともがラージサイズのストロー付きカップを手にしている。
「でも、どうせ俺達は特等席準備されてるから、焦らなくても良い場所で見られるのは有り難いよなぁ」
「かと言っても、遅れたら跡部にどやされるんは決定事項やで?」
「まぁな…おっ?」
不意に向日の足が止まり、彼の目線がある一点へと集中した。
「どないしたんや、岳人」
「あれあれ、あれ見てみ、侑士」
「ん?」
促され、忍足が見つめた先には二人の人物の姿があった。
一人は見知らぬ女性だったが、もう一人はよく知る人物だ。
「…立海の幸村やんか…何しとんのやろ?」
ここから眺めて様子を見ていると、どうやら向こうの女子と何か話している様だ。
すぐに別れないところを見ると、親しい間柄なのだろうか…?
実は初対面同士であることは勿論知る由もない忍足だったが、それは向日も同じだった。
と言うより、向日に至っては、二人がイイ仲なのではないかと早速勘繰っている。
「おおー、ストイックで有名な立海の部長さんも隅に置けないじゃんか」
「やめとき岳人、憶測でモノ言うもんやあらへんで」
特に女性が絡んでいることに関しては…と付け加えようとした時には、もう既に隣から友人の姿は消えていた。
「な! おもしれーじゃん、ちょっと冷やかしてくるわ!」
「こらーっ!! 馬に蹴られて死んでも知らんで!!」
引きとめようと手を伸ばしたが、時既に遅し…
向日は幸村達の元に風の如く走り去っていた。
本来なら、物の数秒あれば彼らの近くまで行ったところで減速し、立ち止まり、そこから全てが始まる筈だった。
こちらからの質問も、向こうからの返答も…全てが。
ところが、ここでも運命の神は悪戯の罠を張っていたのだった。
がっ…!
「とわ…っ!!」
突然、向日の片足が何かにつまづいて、彼の身体が大きく前に傾いだ。
元々脚力のある若者の全速力だ、その運動エネルギーは大きく、彼は派手に前へとつんのめった…が、かろうじてもう片足で踏み止まり、転倒という最悪の事態は免れた。
しかし、もう一つの最悪の事態は…止められなかった。
手にしていたコップが、勢い余って彼の手からすり抜け、大きな放物線を描きながらあの二人の頭上へと落下していったのだ。
まるでスローモーションを見ている様な錯覚に陥りながらも、向日は精一杯、危険の回避を試みた。
「うわーっ! ヤバイ、避けろーっ!!!」
大声で叫んで、彼らに注意を促したのだ。
「え?」
「ん?」
そして、二人は声のした方へとほぼ同時に振り返ったが、そこに見える一人の若者の姿を見ても、一体何が起こっているのか全く理解出来なかった。
しかし、その時偶然…本当に偶然にも、桜乃が視線を少しだけ上に上げた。
そしてそこに幸村も気付いていない落下物の正体を見つけた時、桜乃は殆ど条件反射の勢いで目の前にいた幸村を突き飛ばしていた。
「幸村さんっ!!」
叫んだのは…押したその後。
「う…っ!?」
強く押され、数歩前にととっとふらつきながら歩いて場所移動した幸村の耳に、ばしゃっと何かの水音が聞こえてくる…背後から。
「……」
ふっと顔を上げると、そこにいた若者の表情が見えた。
向こうは自分を見ておらず、その背後を、青ざめた様子でじっと見つめている。
いつもは賑やかな相手が、今に限っては声も出ない様子だった。
その向こうから走ってくる眼鏡をかけた相手の相棒も、非常に逼迫した表情をしていた。
…何となく分かる。
彼らがあんな表情をしているのは…自分の後ろに「そう」させている何かがあるからだ。
何だが物凄く嫌な予感がするけど…振り返らないと分からない。
「……」
すぅ、と小さく息を吸い込んで、嫌な緊張感と共に幸村はゆっくりと振り向いた…ところで、
「わ―――っ!! き、君っ!!」
大丈夫!?と思わず叫んでしまったが、大丈夫じゃないことぐらい見たら分かる。
その娘は、上半身がびっしょりに濡れていたのだ、雨も降っていないのに。
彼女の足元には、見事にプラスチックの蓋が外れたコップが転がっていた。
「…君…」
さっきの衝撃…俺を庇ってくれたのか…
「ぎゃーっ!! サイアクーッ!」
「アホか岳人!! 「冷やかす」と「冷やす」は大違いやねんで!?」
立ち尽くす幸村の処に、慌てて向日が駆け寄り、そしてすぐに忍足も追い付いて来た。
二人とも問題の瞬間を目撃していたので、何が起こったのかは理解している。
取り返しのつかない事をしてしまったことも。
「悪いっ!! ほんっとうにゴメン!!」
「自分、大丈夫か!?」
「…………」
呼びかけられた少女は、呆然として視点も定まっていない…放心状態だ。
理性が保たれていたのは幸村を庇うところまでで、直後、ジュースが頭からぶちまけられた瞬間、意識が一瞬飛んでしまっていたのかもしれない。
「…君?」
今度こそ、本物のパニックを起こすかも…と思いつつ、幸村がそっと相手の肩に手を置いて軽く揺すると、それによって僅かに相手の瞳に理知の光が戻って来た。
「……」
彼女は無言のままに、先ず幸村を見て、そして向日と忍足を見ると、続けて自分の身体を眺め遣った。
びっしょりに服ごと濡れた、現実の自分の身体…
それを見ていた桜乃の瞳に、じわ、と涙が浮かぶ。
(ひ―――――――――っ!!)
女の涙の対処法なんて知らねーぞ!!と向日が心の中で悲鳴を上げていると、彼の肩を忍足が軽く叩いた。
「岳人、ちょっとココ頼むわ」
「へ?」
そう言い残し、少なくとも自分よりは女心に敏い親友までもが、だーっとその場から走り去ってしまう。
「わーっ!! 侑士〜〜〜っ!! 裏切り者〜〜〜〜っ!!!」
確かに自分が悪かった、悪かったけど…そんなにあっさり見捨てるコトないじゃんかっ!!と向日が内心で悪態をついている脇で、幸村は自分のハンカチを取り出して桜乃の濡れた顔を拭いてやっていた。
「大丈夫だよ、泣かないで…」
「ふぇ…えっ…」
少女は彼女なりに必死に涙を止めようとしているのだろう…しかし止まらないのだ。
精神と肉体のバランスがごちゃごちゃになっているのだろうが、いずれそれも落ち着くだろう。
一生懸命、自制しようとする心があるだけ、この子は強い…
そう評価しながら優しく桜乃を宥めていると、やがて向こうからまた誰かの声が聞こえてきた。
『だから、何処へ連れてくつもりだ!?』
『えーからちょっと助けてーな! 女の子のピンチなんや!』
「ん?」
何事…と思ってそちらを見遣ると、先程逃げ去った筈の忍足が、別の若者の腕を掴んで、無理やりこの場所に連行してきていた。
薄い色素の髪と瞳…着ているのは忍足達と同じ、氷帝のジャージだ。
切れ長の目で眼光は鋭く、見る者全てを威圧する様な冷えた空気を纏っている若者は、忍足に連れられるままにそこに到着すると、先ずは幸村へと目を遣った。
「幸村? 何してやがんだこんな所で」
「跡部…」
いかにも俺様口調の話し方だったが、幸村は慣れているのかそれについては全く意を介してない様子だった。
いや、今はそんな事より、桜乃の方が心配だといった方が正しいのか。
そうしている内に、跡部と呼ばれた若者は今度は傍の桜乃へと視線を動かし、眉をひそめる。
「…雨でも降ったのか?」
どうやら忍足は仔細を話す暇もなく、本当に無理やり腕を掴んで引き摺って来たらしい。
「えーと、実はかくかくしかじか…」
「ふん…?」
忍足がここに来てようやく事の次第を語っていると…
「……やっぱり」
「え?」
ぽつんと聞こえた少女の言葉に、幸村が首を傾げ、氷帝の面々もそちらへと注目した。
「…バチが当たっちゃったんです…」
「…バチ?」
どういうこと?と尋ねる相手に、桜乃はひくんとしゃくりあげながら懺悔する。
後ろめたい事をした事実と、身に降りかかった不幸が、罪と罰という形になって、桜乃の良心を苛んでいた。
「お兄ちゃんを応援したくて…止められてたけど、どうしても来たくて…心配してくれてるの、分かってたのに内緒で来ちゃったから……だから」
そして、ぼろぼろと涙を幾粒も流しながら、桜乃はここにいない兄に謝っていた。
「こんなに沢山の人にまで迷惑かけて…バチが当たったんです…! ごめんなさい、くぅ兄ちゃん…!」
「……」
内緒で兄を応援しに来た…名前を言えなかったのは、その所為か…
納得しながら、幸村はこっそりと桜乃の涙に感銘を受けていた。
それは、桜乃をじっと見つめている向日達も似たようなものなのかもしれない。
(この子…物凄くいい子じゃないか…?)
身内の応援をしたいがために単身、慣れない場所に来て、人を庇って不幸に遭っても、恨むことも詰ることもしないなんて…
何となく鼓動が速まった様な気がしながらも、幸村はぽんぽんと相手の肩を優しく叩いた。
「大事なお兄ちゃんを応援しに来たこんないい子に、バチなんて当たらないよ」
「うう…っ」
必死に涙を堪えようとしている少女の姿を暫く眺めていた跡部は、ふぅ、と溜息をつきながらくしゃりと自身の髪をかきあげた。
「…で? 俺様に何をしろって?」
「会場に、 俺らの使えるシャワールームあるやん? あそこ彼女に使わせてくれんかな、部長の跡部の許可がないとアカンやろ、やっぱ」
「…フン、まぁウチの部員が迷惑かけちまった以上は仕方ねぇな」
許可を出そう、と部長が言ったところで、もう一つ、と忍足がお願いを追加。
「跡部のジャージも貸したって? この子の服、もう砂糖水でべったべたやし」
「何で俺様のジャージを!」
「だって替えのジャージ持ってきとる様なキトクな奴は自分ぐらいしかおらへんやん…それともまさか、跡部ともあろうお人が持ってへんの?」
「ハッ、バカにするな。嗜みとして三着ぐらいはいつも揃えている」
「じゃあええやん」
「……」
何となく、引っ掛かるものがあるのだが…
もやもやとした気持ちを抱えつつ、跡部はちらりと桜乃の姿を改めて確認する。
確かに、服は乾きつつあるが、ジュースの色素で明らかに汚れが目立ってしまっている。
皮膚の一部にもてらてらと不自然にツヤがあり、糖分が付着していることが伺えた。
「…ったく、有難く思えよ。滅多にねぇコトだぞ」
俺様の一張羅に袖を通すなんざ…と憎まれ口を叩きながらも、結局跡部は忍足の願いを聞き届けてやった。
『来い』という様に左手の人差し指をちょいちょいと曲げると、さっさと先に立って歩き出す。
シャワールームに案内してやる、という事なのだろう。
ここは幸村も跡部に感謝しつつ、桜乃の手を取って歩き出した。
「一緒においで…大丈夫、彼はいつもあんな感じさ」
別に怒っている訳じゃないから、と断り、幸村が桜乃を連れていく後に、向日と忍足が続いた。
「ふぃー…あーどうなるかと思った…助かったぜ侑士」
「……」
ほっと息をつく向日とは対照的に、忍足はゆらっと影の滲んだ表情で振り返ると、ぐりぐりぐりっ!!と相手の両のこめかみを拳で捻り回した。
「いでいでいでいでっ!!」
「さっき自分、裏切り者言うとってくれたなぁ…」
「スミマセン、ちょっと魔が差してっ!!」
「全く…ちゃんと後で跡部からの罰もあんねんからな、覚悟しとき」
「うう、馬に蹴られて死ぬより恐え…」
そんなやりとりが交わされつつ、一団は一路、シャワールームへと向かっていた。
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