「ふぅん、そういう経過が…」
「おおよそは忍足が言ってたけどね、詳しくはそういう事。俺も彼女に会うのは今日が初めてなんだ…名前も勿論知らない」
「成る程な」
 シャワールームの外…その廊下で跡部と幸村は桜乃と出会った経緯について話していた。
 この二人が、こういう場所で、テニス以外の話題について語る事は非常に珍しい。
「で? いつまで面倒を見るつもりだ? お前も立海の部長なら、そうそう暇じゃねぇだろうが」
「今日は青学と四天宝寺の試合だからね…本番は明日さ、流石に今からアップはちょっと早すぎるし。ここまで来て放り出すのも気の毒だろう?」
 それに、あの子の名前を…自分はまだ知らない。
 教えてくれるのかは分からないけど、諦めるには惜しい気もしている。
「しかしFブロックと言えば、あまり観客席としては良い場所じゃない。選手の身内にしては不自然だな」
「お兄さんに内密に来ているってことだから、ぎりぎりの時期で取ったのかもしれないね、チケット」
「…その兄ってのも随分と過保護が過ぎるんじゃねぇか? 身内を大事にしたい気持ちは分かるが、この会場も大きいし、そうそう迷子になる場所でもねぇだろう」
「……」
 帝王の指摘に、幸村が押し黙る。
 あの子が二十分以上も、この場所と〇京ドームの見取り図の違いを見抜けないまま彷徨っていた事実を知る者としては、正直返答に困る意見だった。
「…幸村?」
「うん、まぁ……向こうのお兄さんの気持ちも分かるというか、実際正解だと思わないでもないと言うか…」
「……込み入った事情でもあるのか?」
 背中を向けた立海の部長に呼びかけたところで、シャワールームを使い終わった少女が、お色直しした姿で通路へと出てきた。
「はふぅ…すみません、シャワー、頂きました」

『……』

 彼女が外に出てきた時、一瞬その場が静まり返り、男達の息を呑む音だけが響いた。
 謎の少女、激変。
 おさげだった髪は、今は解かれてしっとりと湿ったまま自然に流されている。
 シャワーを浴びた肌はほっこりと上気して薔薇色に染まり、艶々として、微かな色気さえ振りまいていた。
 そしてその身体を包んでいるのは、跡部の氷帝ジャージ…
 男性用で、しかも元の若者も中学生としては結構長身の部類に入るので、全体的に大きく袖も裾も大いに余っているのだが…それがまた視覚的に絶妙なハーモニーを生んでいた。
 これは男性的な視点によるものかもしれないが…所謂萌えスタイル。
「男性の方って、凄く大きいんですね…袖も足元もだぶだぶです。あ、上着だけでもお返しした方がいいでしょうか…?」
 下は半袖だが、今の時期ならそれでも何ら問題はない…と桜乃が上着を脱いで返そうとしたが、跡部が速効で断った。
「何だ? 俺様が貸してやるってのを要らねぇってのか?」
「そっ、そういうワケでは…っ!」
 殆どノリは『俺の酒が飲めねぇってのか?』と管を巻く酔っ払いであり、勿論そんなつもりではなかった桜乃はあわあわと可哀相な程に動揺してしまった。
「……」
 気の毒な程にうろたえている桜乃を見て、跡部は調子を狂わされるのを感じながら溜息をついた。
「冗談だ、真に受けるな…会場は、コートはそうでもないが観客席は結構空調が効いている。女の身体じゃ寒くなるかもしれねぇからな…念の為に持っとけ」
「跡部の言い方じゃ怯えちゃうよ…心配要らないよ、君の身体を思っての事なんだから素直に受け取っていたらいい」
「うるせぇぞ、幸村」
 幸村のフォローに跡部は悪態をつきつつ視線を逸らす…あながち間違った指摘ではないらしい。
 そして彼らの様子を見て、それが本当らしいと感じた桜乃は、胸に手を当ててほうと安堵の息をつきながら笑った。
「良かった…私、昔から人とお話することが苦手みたいで…お兄ちゃんからも「ボケ」も「ツッコミ」も才能ないって言われてたから…こうして皆さんに親切にして頂けて凄く嬉しい…! 本当に有難うございます…!」

『きゅーん…!』

「…何か、ヘンな音が胸の奥で…」
「奇遇やなぁ、俺もや…」
 忍足達がこそこそと囁き合っている向こうで、きっと同じ音を感じたであろう部長二人が、動揺を隠しつつ妙に引っ掛かった部分を思い返していた。
(…『ボケ』?)
(…『ツッコミ』?)
 何だろう、その関西のノリ丸出しの兄の意見は…
 しかしこの娘には関西弁の訛りなど微塵もないし…きっと兄が漫才好きとか、そういう事なんだろう…これから四天宝寺の試合があることが少し引っ掛かりはするが。
「あ、そろそろFブロックに行かないと…試合が…」
 ここからFブロックにそのまま向かおうとしている少女の様子に、幸村と跡部がちら、と互いの顔を見合わせた。
「……」
「……」
 二人が考えていることはどうやら一致している様だ…となれば、後は行動あるのみ!
「俺達の席、隣同士なんだけど…良かったら一緒に観戦しない?」
「Fブロックよりは眺めはいいぜ? 俺様たちが招待してやるから、有難く思えよ」
「はい?…」
 そして数分後には、桜乃はF席ではなく、選手や出場校枠の生徒が優先される特等席に座っていた…


「…精市」
「なに?」
「…お前は、少し前に気晴らしに外を見回って来ると言った筈だが、女を連れ込むとは一言も言ってなかったぞ」
 立海メンバー達の控える席で、部の副部長を務める若者が、只でさえ厳格な表情を更に厳しいものにして幸村に物申していたが、相手は怯むでもなく実にあっさりと答えていた。
「連れ込んだんじゃないよ、拾ってきたんだ」
「ひろ…」
「たった一人で行くあてもなく迷子になっててね、おまけに着るものにも困っていたから、跡部と一緒に拾ったんだ」
「……」
 どう返していいのか分からず、呆然と部長とその隣に座る少女を見つめる副部長の真田だったが、他のメンバーも似たような表情だ。
 そして、幸村の隣に座っている桜乃の更に隣には、跡部が堂々と座っていた。
 確かに彼らが言っていた通り、氷帝と立海の席は隣同士だった。
 桜乃は、それらの席の丁度境界線に位置する場所に座っている。
「宍戸さん、誰なんですか? 跡部さんの隣に座っている子」
「さぁ…さっきの立海の奴らの話だと、拾ってきたとか何とか…」
「…それってさぁ、これからペットにするって意味じゃないよねぇ?」
 流石にヤバいでしょ…とごにょごにょと話し込んでいる仲間から外れて、忍足と向日はふーんと視線を試合会場に向ける形で無視していた。
 どうやら立海と氷帝が座っている席は、四天宝寺の席とはかなり離れているらしく、向こうの誰かに見つかるという可能性は低い。
 しかも、桜乃は今は氷帝のジャージも着ているので、これは絶好の目くらましとなっていた。
 その桜乃は先程から、隣に座っている跡部の方をじーっと見つめていた。
「…?」
 何となく視線は感じるものの、跡部の方はどう反応すべきなのか今ひとつぴんとこない様子で、彼女と目を合わせてはそれを逸らしている。
(バタバタしててゆっくりお話する機会もなかったけど…この人が跡部景吾さん、なんだ…)
 氷帝のテニス部部長…ということはやはり間違いない。
(くぅ兄ちゃんが認める、理想の人ってことだったけど…うん、確かに格好いい人。部員の人達にも慕われているみたいだし、統率力もありそうだし…千歳先輩のテストって凄く当たるんだなぁ…それにしても、二人の「理想の人」にこんなに早く会えるなんて…)
「???」
 更にじーっと見つめてくる少女に、跡部が僅かに身体を引く。
 只のガンの飛ばし合いなら誰にも負ける事はなかっただろう帝王だったが、今のこの状態は彼でも気恥ずかしいのか、何となく落ち着かない様子だ。
 その一方、相変わらず桜乃はそんな彼に気付かないまま考えを巡らせていた。
(でも二人とも凄くモテそうだから、そのまま理想だけで終わりだよね…もしかしたら、もう恋人さんとかいるかもしれないんだし…)
 私は住んでいる場所も離れているし…きっと、今日、このままでさよならだろうなぁ…
「……」
「……」
 そして、そこでようやく跡部が自分を見下ろしてきている事に気付いた桜乃は、屈託なく、にこっと笑った。
「…っ!」
 無邪気な笑顔を惜しげもなく見せてくる少女に、帝王はまたも調子を狂わされてしまい…
「〜〜っ、ヘラヘラしてねぇでとっととジュースでも飲め!!」
 ガコッ!と勢いよく桜乃の席のジュースサーバーに冷えたペットボトルを投げる様に突っ込んでいた。
「はっ、はひっ!!」
 殆どヤクザの押し売り状態…但し、金を取るつもりは毛頭無い。
「なーんじゃよ、あの輝かしいツンデレ男は」
「ウチの部長も随分気にしている様ですね」
 立海の詐欺師と紳士が評している通り、跡部から与えられたジュースをんくんくと飲んでいる桜乃の姿を、幸村もじっと見つめていた。
(…可愛い)
 本当に、何処の子なんだろう…頼んだらこっそりでも教えてくれないだろうか…?
 最初に会った時には、すぐに別れる縁だと思っていたのに…今は彼女の素性が気になって、知りたくて仕方がない。
 こんなに心を乱されてしまうなんて…決勝が明日で本当に良かった…
「…あ、始まりますよ、青学の試合」
「ん…」
 氷帝の鳳の一言で、跡部達の意識が一斉にコートへと向けられる。
 そしてそれは立海側でも同じで、男達はじっと試合の始まる様を凝視していた。
 この試合を制した者達が、明日自分達と戦うことになるのだ、注目しない手はない。
「……」
 そんな男達と並んで、桜乃もまた、真剣そのものの面持ちでコートを見ていた。
 先程までの柔らかな笑顔はいつの間にか失われており、真っ直ぐに見つめる視線はその先にある者を焼き付くすかの様な熱が籠もっている。
「…熱心だな、どっちを応援してるんだ」
「四天宝寺です」
 迷うこともなく答えた少女の返事に、幸村と跡部が視線を交わす。
 人が何処の誰を応援するかはその人個人の自由意志に委ねられて然るべきものだが、この時の二人の視線には別の意味があった。

(この子の兄は、四天宝寺側なのか…?)

『向こうのレギュラーにコイツの兄がいるのか…?』
『単純に考えたらそうだけど、もしかしたら補欠や応援も含まれての話かもしれないな…』
 そこまで会話して、二人はあれ?と首を傾げる。
「…見事な標準語だから、俺は青学の誰かの身内かと」
「俺もそう思ってたけど…」
 そんな外野に桜乃がいるとは知りもせずに、四天宝寺の面々は試合中の選手以外はずらりとベンチに揃って勝負の行く末を見守っていた。
「おーし、いてこましたれ! 小春ーっ! ユウジーッ!!」
 遠山が手をぶんぶんと振り回して声援を送る傍らで、部長の白石はじっと両腕を組んで前を見つめている。
 やけに静かな相手の様子に、ぴんときた千歳がぼそっと呟いた。
「自業自得」
「やかましわ!」
 丁度自分が考えていた事を見透かされ、白石が怒鳴る。
「やっぱり桜乃ちゃんの事ば心配しとったっちゃろ? 変な強情張らんで連れて来たら良かったとにねぇ」
「べ、別に喧嘩した訳やないし、お弁当もちゃんと作ってくれたしな。俺の気持ちは桜乃にちゃんと届いとる」
「けど、見送りは家止まりでしたな…ってててて!」
「余計なコトは言わんでええ」
 隣から突っ込んできた財前の頭をぐりぐりと拳で捻り回しつつ、白石がそれ以上の発言を止める。
 確かに。
 四天宝寺メンバーがいよいよ全国大会に向けて出立する日、結局兄の制止に遭って東京行きを止められてしまった妹は、お弁当をメンバーに渡して玄関先で彼らを見送ったのである。
 笑顔で見送ってくれたし、励ましの言葉もかけてくれたから、兄の仕打ちに怒っていたという訳ではない…だろう。
 それでも、てっきり駅まで見送ってくれると期待していただけに、多少の落胆と不安はどうしても拭えなかった。
(帰りは、ぎょうさん東京土産、買うて帰ろう…)
 勿論一番の土産は、自分達がここで優勝するという事実なのだろうが…今視線の先で行われている試合の流れを見ていると決して楽観は出来ない。
 流石、青学…一度は乱されかけていた試合のペースをもう自分達の方へと引き戻しつつある。
「…ふぅ」
 何ともなしについた溜息に、隣で騒いでいた遠山がくるんと首を巡らせた。
「白石〜、そんな心配なら電話でもしたらええやん」
「ん? ああ、電話ね」
 この子にしては気の利いた発言だな、と思いつつ、試合を控えていた部長は悩むでもなく首を横に振った。
「今は止めとくわ。これから試合って時に下手に電話したら、また心が乱れるかも分からんからな。試合に勝った後で報告するって決めてた方が身も入るってもんやろ」
「ふぅん…?」
 どうせ勝つなら、後でも先でも同じやのに…と不思議がる少年に白石は苦笑した。
 負けることなど微塵も考えていないのだ、この一年生ルーキーは。
 大物なのかバカなのか…しかし、実力を備えた人間が悲観的でいるよりは、いっそこれぐらい大きく構えてくれていた方が周囲にも良い影響を与える。
「そうやな、勝たんとな」
 そうじゃないと、家で待っているはずの妹にも、胸張って報告出来ん…
 まさか、数百メートル先にその妹がいるとも知らず、白石はそんな事を考えながら、再び試合に集中していた…



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