『おおきに』って、言えへんかった……サイテーや、ワイ…
 
「…どうしたんすか、金太郎。帰って来てからおかしいんちゃいます?」
 白石が遠山を引き摺って戻って来た後、その野生児はずっと自分の持ち部屋に引き篭もり、膝を抱えたままに一言も発しなかった。
 今までそんな少年の姿を見たことがなかった財前は、当然ながら疑問を呈し、白石に問い掛けたのだが、相手の部長もまたむーっと何かを思い悩んでいる様子だった。
「うーん…流石の俺もこればかりはなぁ…こういう事に関しての指導なんてやった事は無いし、かといってウチの顧問なんかに任せたら、先ず間違いなく道踏み外してまうやろし…」
「はぁ?」
「……せいぜい毒花の採集場所と使用法を教えるぐらいが精一杯で」
「どの道踏み外すのんちゃいます?」
「じゃあどっちに踏み外した方が幸せやろ?」
「外す前に穴掘って埋めてやったらええでしょ。来年の春には花咲かすかもしれませんし」
「う――――ん…」
(ツッコミ考えてるんか、本気で考えてるんか、恐くて聞けんわ…)
 取り敢えず聞かない理由を付ける様に、財前は手にしていたペットボトルに口を付け、その間にも白石は遠山にどうアドバイスをするべきなのか悩んでいる。
 あの反応を見る限りでは、間違いなく遠山を変えたのは『初恋』だろう。
 相手は勿論、青学の竜崎桜乃という少女…初めての経験から遠距離とは彼も随分高レベルな難問を抱えてしまったようだ。
 恋愛もデートも知らないある意味純粋培養の少年には、どういうアドバイスをしたらいいものか…放っておくのも一つの解決策ではあるのだろうが…
(下手に放置しといたら、どんな迷惑が向こうとこっちに掛かるか分からんしなぁ…)
 やはりここは一つ、部長で先輩の自分が一肌脱ぐしかないだろう。
「…取り敢えず、おしべとめしべの話から始めた方がええんかな…」
「そんな宇宙との交信の相談されても俺にはさっぱりですわ…」
 最早目を合わせるまい、と財前が青い顔で背中を向けたところに、部屋に入って来た千歳が白石を見て手を上げた。
「おお、白石。さっき青学の竜崎先生から連絡があったごたるよ?」
「あ? 竜崎先生…? 何かあったん?」
 竜崎、と言うと、青学男子テニス部顧問で、問題の少女の祖母でもあるあの女性か…
「いや、お孫さんから今日の出立時間聞いて、駅まで見送りに来てくれるらしかよ? なかなか律儀な人ばいね、お孫さんも一緒に連れて行くてたい」
「…へぇ、あの子も来てくれるん?」
 これはラッキーだ、取り敢えずなぁなぁで終わらせるのではなく、お互いに軽い挨拶だけでもさせたら、そこから切っ掛けが掴めるかもしれないし。
 まぁ、さっきみたいに人の陰に隠れてしまったらどうしようもないが…
(…そうなったら俺でももうお手上げやな、初恋は実らんってコトで泣いてもらおか…って泣く程に理解しとるのかも分からんけど)
 けど、暫くもやもやはするやろなぁ…と考えつつ、白石は遠山が篭っている部屋に足を踏み入れた。
(まぁ、彼女が来る事ぐらいは教えてやらんと…)
 金ちゃん?と声を掛けながら部屋に入ると、彼は口を開けたまま入り口に立ち尽くす。
 がらんとした室内…人のいる気配が…ない。
 さっきまで彼は確かにここにいた筈なのに……まさか
「ん? 白石?」
「千歳…もしかして金ちゃんにもそれ言うた?」
「ああ、さっき丁度そこから顔出して、俺と先生の会話聞いとったばい。いつもより随分静かやったけん、おかしかねーって思っとったけど…」
(だったら止めて…)
 心で思わず涙ながらに訴えるも、最早手遅れ…そして行き先が分からない以上は最早追尾不可能…
 流石に俺達でも敵方の顧問の家の場所などは分からないから、そこに向かったとも思えない。
(…せめて新幹線の時間には駅に来てくれたらええなぁ…足でもアイツなら帰れるやろうけど、切符代が無駄になるんや…)
 もっと心配しなければならない事案があるのは分かっていたが、最早彼に出来る現実逃避はそれぐらいしか残されていなかった……


「おばちゃん! たこ焼き一つ、いっちゃん美味しいアツアツなの焼いて!! 大急ぎやで!」
 白石の心配を他所に、遠山は東京に来て前から目をつけていたたこ焼き屋に飛び込んでいた。
 恰幅のいい女主人が大阪出身だということで、その味は遠山の舌も納得させる程であり、彼はここに宿泊している間はずっとここに通い詰めていた。
「あいよ、あら、いつもおおきに。今日は随分急いどるようやね」
「うん、今から帰らんとアカンねん…やから、お土産に」
「あら残念。もう帰るん? ならとびきり美味いたこ焼きをサービスしないとねぇ」
「おおきに! ええっと…お金…」
 ごそっとポケットを探って取り出したのは、あの五百円玉だった。
「…」
 たこ焼き一箱四百円だからそれでも十分に足りる筈なのだが、彼はそれを再びポケットにしまい込み、代わりに皺くちゃの千円札を取り出し、それを差し出す。
 鉄砲玉の息子を不安に思い、母親がバッグに縫い付けてやった非常時の為のお金だった。
「これでよろしゅう」
「はいはい」


 東京駅、新幹線乗り場
「じゃあ、くれぐれも道中気をつけて」
「わざわざすみませんねぇ」
 監督同士が挨拶をホームで交わしている間に、生徒達は先に車内に荷物を持ち込み待機していたが、そこに遠山の姿はまだない。
「金太郎はまだ来んの? 白石」
「ああもう…帰巣本能だけは渡り鳥並やから、日にちは掛かっても帰ってくるとは思うけどな…」
 来るか来ないかやきもきしている白石の視界の先、窓越しに桜乃は祖母の隣に立ってこちらの様子を伺い、お辞儀をしながらたまに不思議そうな顔を覗かせている。
 おそらく、あの少年の姿がないことを訝しんでいるのだろうが、自分も行き先が分からない以上は何も言えないし…と言うか、そこまで自分がしてやらんとならんのやろか…?
「あれ? あれ金太郎ちゃうん?」
「お! 来よったでぇ!!」
「ん…?」
 他の部員が騒ぎ出し、頭を伏せていた白石が顔を上げるとホームに続く階段を物凄い速度で駆け上がる遠山の姿が見えた。
(間に合った!)
 良かった、と思っている主将の前で、一年ルーキーは真っ直ぐにホームをダッシュして桜乃達の方へと駆け寄って行く。
「あ…遠山さん?」
「くおらーっ! 金太郎、勝手な行動はやめぇ言うてたやろ! 若いウチは無茶もアリやけど、ちゃんと責任は取らんとアカンのやで!」
 渡邉監督の怒声にも怯まず、遠山は真っ直ぐに桜乃の傍に来ると、ずざーっと靴底ブレーキを効かせて立ち止まり、彼女に向かって手にしていた白のビニル袋を差し出した。
「やる!!」
「え…?」
「お、お礼…や…朝の……お…おおきに!!」
 まだ少し完全調子には戻っていなかったが、朝の様に人の陰に隠れることはなく、遠山は真っ直ぐに相手を見ながら目的を果たし、袋を差し出してそのまま受け取らせた。
「…あ、たこ焼きですね、まだあったかい」
「ワイのお気に入りの店のなんや! メッチャ美味いんやで!…やから、お礼に…」
 一般人の目線からしたら、大したお礼ではないかもしれない、しかし、新幹線の中では驚愕の嵐が吹き荒れていた。
『金太郎が他人にたこ焼きやった!!』
『アイツが人に食い物やるなんて、明日は槍が降るで!』
『いや、世界崩壊ちゃう!?』
『病院、連れていかんでええんですか!? 白石はん!!』
『いや、いっそショック療法で致死量寸前の毒盛ってみた方が…!』
(…どんな名医でも草津の湯でも無理なんやて…)
 ホンマもんや…こりゃ、完全に恋に落ちよったで…たこ焼きで推し量れる心っちゅうのもアイツらしいけどなぁ…
 窓の向こうでは、たこ焼きを受け取った桜乃が嬉しそうに笑っている。
 おそらく、それをあげるのにどれだけ相手が覚悟を決めたのか、彼女は分かっていないのだろうし、同じく純粋なお礼としてしか受け取っていない。
 それでも、あの笑顔の価値は、遠山にとっては通天閣よりもずっと高いものなのだろう。
 部員達の前で、二人はまだ聞こえない会話を続けている。
「わぁ…有難うございます。姿が見えなかったから心配してたんですよ…でも良かった、どうか気をつけて帰って下さいね」
「…なぁ」
「はい?」
「えーと…えーとなぁ…ワイにアンタの電話番号とか、教えてくれへん?」
「え…?」
「…アカン?」
 アカンのやろか…でもそうかもなぁ、オカンも知らない人にそんなの言うたらアカンってしょっちゅう言うとるし…そしたらワイ、これからこの子と話したい時はどうしたらええんやろ…? 手紙…は、住所知らんと届かへんし、時間かかるやろ…?
(けど、ワイはどうしても…じゃあどないしたら…)
「いいですよ?」
「え…?」
 顔を上げて尋ね返した遠山に、桜乃はあっさりとその申し出を受けた。
「携帯のメアドと番号でいいですか?…あれ? ええと、メモメモ…」
 バッグを探り、ペンは見つかったが、書くものが見つからないらしい少女に、咄嗟に遠山は自分の手を差し出した。
「じゃあ、ここに書いて! ワイの手に!」
「え!? い、いいんですか!?」
「うん! もうすぐ新幹線出てまうもん!」
「う…じ、じゃあ失礼しますね…」
 かきかきかき…と、彼女は左手で相手の掌を支え持ち、ペンをその肌の上に走らせた。
 その間、遠山は、ずっと自分の手に触れている少女の柔らかな肌の感触にばかり集中していた。
(同じ女の人なのに…オカンと全然違うやん…)
 そして、見事に即席刺青の出来上がり。
「はい、どうぞ」
「お、おおきに! おおきに!!」
 何度も自分の腕と相手の顔を交互に見て、遠山は凄く嬉しそうに笑った。
 やった! もらえた!!
 じゃあこれで、大阪に帰っても、彼女の声が聞ける…めーるっていうのも出来る!
「金太郎、そろそろ中に入らんかい」
「う、うん…分かっとる…えと」
 監督に言われて頷いてから、彼は最後の挨拶をしようと桜乃に向き直った。
 何て言おう…さいならって言うのは少し寂しいよなぁ…またって言ってもいつになるかは分からんし…そう言えば、白石がメッチャええコト言うとった気がしたで…?
「あ…そうや、あんな、竜崎」
「はい? 何ですか?」
「…ワイも」
 白石の台詞を思い出した遠山は、同じ様に自分の気持ちを伝えようと、にひ、と笑いながら言った。
「アンタ、めっちゃキレーやと思う」
「っ!?」
 発車のベルがホームに鳴り響く。
 その音を遠く聞きながら赤くなった少女に、もう一度、にっと無邪気に笑った少年は、そのまま新幹線へと飛び乗り、ほぼ同時に扉が閉められた。
 ガラス窓越しに、若い二人が視線を交し合う。
 少年は微笑み、そして桜乃はまだ呆然としながら…しかし、最後は相手の笑顔に誘われ、ほんの少しだけはにかんだ笑みを浮かべた。
 それは、遠山が今まで見てきた中でも、とびっきりの笑顔だった。
「元気でな!!」
 大声で、向こうにも聞こえるように遠山は叫ぶ。
 彼女が拾ってくれた五百円玉を、お守りのようにポケットの中で握り締めながら…
「必ず、また会いに来るで!!」
 足でも新幹線でも何でもええ…アンタに会えたらそれでええんや。
 けどそれまでゼッタイ我慢でけへんから、ケータイ持って、白石にめーるとか色々と教えてもらう。
 だからそれまで…またワイが会いに来る日まで…
 アンタはそうやって、笑ってるんやで…?






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