贈り物のお返しは


「わ〜〜〜…」
 クリスマス・イブ当日
 青学一年生の竜崎桜乃は、放課後、一人で街の中のある店に立ち寄っていた。
 少女が眺めているのは、今は香水関連の場所。
 様々なコスメティック用品が店先に並んだ、女性向けのそこは、他にも様々な品物を取りそろえており、桜乃以外の女性達も数多く訪れている。
 但し…
(…さ、流石、クリスマス・イブ…私以外はみんなカップルだぁ…)
 周囲の女性達は揃って彼氏連れであり、先程からハートが見える程のラブラブムードが漂っていた。
 ちょっと気後れしてしまった桜乃だったが、折角来たということもあって、もう少しだけそこに留まることを選択した。
(折角だもんね、もう少しだけ見ていこうっと…あ、あっちは口紅がある)
 普段、全く化粧というものには興味がなかった桜乃だったが、こういう場で見ると何となく興味を引かれるのだから不思議なものである。
 徐々に香水のコーナーが混んできていたということもあって、桜乃は今度は口紅のコーナーへと移動した。
(ま、ブランドものとかじゃなくても、こういうのを見るのも楽しいかもね…うわ、口紅ってこんなに色の種類があるんだ…)
 ざっと見ただけでも二十を越える色の見本を見て、はーっと感嘆の溜息をつく。
「うわ、これなんか真っ赤…大人の女性って感じだなぁ」
 ちょっと憧れるかも、と思いながら、その色のルージュを引いた自分を想像し…少女はがくっと頭を垂れた。
「うっ…生き血吸ってる妖怪みたい…諦めよ」
 まだまだ大人の女性には程遠い、と道のりの長さを感じつつ、桜乃は他の色も眺めていく。
「う〜ん、う〜ん…どれが私に合うのかなぁ…」
 結構真面目に考えながら見ている筈が、徐々に頭が混乱してくる。
 確かに色彩はそれぞれ異なるものの、同じ暖色系のものばかりを見ていると、どれも同じように見えてきてしまうのだ。
 まだこういうものを見るのに慣れていない桜乃にとっては、仕方のないことだった。
 そんな彼女の耳に、睦まじい隣のカップルの会話が聞こえてくる。
「君にはこれが合うんじゃないかな」
「え? そうかなぁ…貴方がそう言うなら、それにしようかな」
(ううっ…恋人じゃなくても友達と来たら良かった…!)
 クリスマスって、独り身には辛いイベントなんだなぁ、と実感しながら、桜乃は尚も口紅のサンプルを一つ一つ手に取った。
「確かに、自分だけで選ぶより他の人の意見も聞いた方が無難だよね…一人だけだと選択が偏りそう」
 自分の好きな色と、自分に合う色が同じであるとは限らないのだ。
 そう考えながら、彼女はふと一緒に色を見てくれる人物について想像した。
(朋ちゃんとかも結構お洒落には気を遣うから、的確なアドバイスがもらえそうだなぁ…でもやっぱり折角のイブだし、素敵な男性と一緒っていうのも…)
 ほぅ…と瞳を閉じた桜乃の脳裏に、一人の男性が思い浮かんだ。
 ぴしりと伸びた背筋と、自己の完璧なコントロールにより作り上げられた均整の取れた肉体が、彼の自律心を何より忠実に表している。
 一見クールに見えるが、立ち振る舞いはとても優雅で、まるでどこかの貴族の様でもある。
 眼差しは、眼鏡に隠されて見る事は出来ないが、微笑んでいる時のそれはきっと優しいものだろう。
「…はっ」
 妄想がどんどん肥大化していく途中で少女は我に返り、一人赤くなった。
(や、やだ…ついあの人のコト思い浮かべちゃった…私って厚かましい)
 おっちょこちょいで何の取り柄もない自分が彼と一緒に並ぼうなど、傲慢でしかない。
 いけないいけない、と自分を戒めていた丁度その時、
「おや、竜崎さん」
「ひゃああああああああっ!!!」
「っ!?」
 心を覗かれる事などありえない話だと知っているにも関わらず、背後から聞こえてきた覚えのある声に、桜乃は思わず悲鳴を上げてしまっていた。
 周囲の客達の注意まで引きつけてしまったその声に、相手も多少驚いた様子だったが、流石に精神修養がしっかりしていたのかあからさまに態度としては見せなかった。
「し、失礼しました。急に声をかけてしまいましたから、驚かせてしまった様ですね」
「や、や、や、柳生さん…っ…い、いえ、こちらこそっ…」
 そう、立海大附属中学三年の柳生比呂士その人。
 たった今、妄想していた男性が目の前にいると事実に桜乃はまだ動悸が続いている状態だったが、かろうじて挨拶だけは無難に済ませた。
 お互いの通う学校は異なるが、テニスが縁となって桜乃と彼は互いに見知った仲である。
 詳しく言うと、柳生だけではなく立海のレギュラー全員が桜乃とは知己の仲なのだが、中でも品行方正で慈愛の念が強い柳生は、桜乃が立海を訪れた際にも色々と気を配ってくれる優しく頼りになる若者なのだ。
 だからこそ、桜乃は彼の事を信頼し、心密かに想っていた…そんな彼にいきなり背後から声をかけられたのだから、驚くのは当然だろう。
 それにしても、自分の悲鳴で驚いたのは向こうなのに、逆にあちらの不手際として謝罪してくるとは相変わらずの紳士っぷりである。
 彼はいつもの制服姿と学生鞄に加え、今日は別の手に割と大きめの白いビニル袋を提げた姿だった。
 どうやら何かの買い物帰りらしい。
 何度かこっそりと深呼吸を繰り返して、少しは落ち着いた桜乃が改めて彼に一礼する。
「こちらこそ、大声を出してしまってすみません…今日はどうしてここに…?」
 明らかに立海の校区とは離れた街なのに…と不思議がった少女に、柳生は笑みを称えながら答えた。
「頼まれものですよ。母が贔屓にしている店で予約していたターキーを受け取りに行ったんです。私が学校帰りに立ち寄って受け取れば手間も省けますし、多少重いものですから」
「成る程、そうだったんですか」
 ターキーとはまたレベルが高いアイテムを…と思いながらも納得していると、今度は柳生が桜乃に問いかける。
「竜崎さんは、こちらで何を?」
「あ、ええと、今日は折角のクリスマス・イブですから…女性が彼氏と一緒にデートする一大イベントじゃないですか」
 ぴく…っ
 桜乃の台詞に微かに柳生の肩が動いた…ところで、彼女の言葉が続いた。
「こういう時期って、そんなカップルを狙ったように新商品が出ますから、私みたいな独り身にもチャンスなんですよー」
 ほ…っ
(…あれ?)
 何だろう…今何となく柳生さんの纏う空気が少し変わった様な…?
「あのう…どうかしましたか?」
「いえ、何でもありません」
「はぁ」
 何でもないこともなかったような…でも、この人が何でもないって言っているなら、そうなのかな…と流したところで、相手が桜乃が見ていた陳列棚の方を覗きこんできた。
「それで、何を選んでいらっしゃったんですか?」
「あは、今は見ているだけです、口紅をちょっと…」
「ほう」
 軽い会話を交わしている間に、さりげなく柳生が桜乃の隣に場所移動し、サンプル達を一瞥した。
「私達はまだ中学生ですが…女子の方々はこういうものを普通につけているのですか?」
「いえいえ、普通は流石に…でも、私のクラスメートでも、お洒落な人は外出する時には口紅つけてたりしますねー」
「そうなんですか」
「最近はリップでも結構お洒落なものがありますから、それでも十分ですけど…こうして見ると試したくなっちゃって」
「成る程」
 一つ、二つ…と、自分が気になっているらしい色のサンプルを改めて手にとって眺めている桜乃を、柳生が微笑ましそうに見つめている。
 その視線に気づいた桜乃が、恥ずかしそうに頬を赤くしながらそれらを元の場所に戻した。
「…あ、すみません、つい夢中になって…男の方にはあまり興味がないものですよね」
「いえ、そんなことはありませんよ。なかなか男一人では見られないものですから、かえって新鮮です」
「あー、それは確かにそうかも…」
 男が一人でこういうコーナーをうろうろとしていたら、何かしらあらぬ疑惑をかけられそうではある。
 桜乃が丁度良いカモフラージュになっている間に、こういう珍しいものを堪能しておこうという様に、柳生も幾つかのサンプルに手を伸ばしていった。
「ほんの小さな色の違いでも印象がかなり変わりますね…不思議なものです」
「ですよね…選択肢が多い分、凄く悩んじゃいます」
 どれがいいかな…と見ていた桜乃の横で、暫く無言だった紳士が、一本のサンプルを取り上げると、そっと優しく少女の肩を押して自分の方へと振り向かせた。
「え…?」
 きょとん…とする桜乃の口元に、柳生が手にしていたサンプルを翳してその色合いを見る。
「ふむ……少々派手すぎますね、もう少し落ち着いた色の方が…」
(え…えええ!?)
 予想だにしなかった展開!
 これってもしかして…
(う、うわぁ…なんだか、周りのカップルの人達と同じに見える…)
 見た目だけとは言え、まさか自分がさっき描いていた妄想が、こんなにも早く実現するなんて…!!
 どきどきしている少女の一方で、紳士は極めて真剣に、桜乃の唇とサンプルの色合いとのマッチングに挑んでいた。
「少々オレンジが入った方が合うかもしれません…ああ、やはりこちらの方がいい…向こうにも良い色が並んでますね」
(何だか楽しそう、柳生さん…)
 もしかして、美術とかも好きなのかな…イメージにはぴったりだけど…
 思いつつ、素直に相手の好きなようにさせていた桜乃だったが、何もしていないのに徐々に心拍数が上がってゆく。
(ちょ…顔、近い…み、見られてる…)
 色合いをよくよく確かめているせいなのか、いつになく近づいてくる相手の顔に、桜乃は緊張して視線を下に下ろした。
 しかし、やはり柳生の様子も気になり、ちらちらと上目遣いで覗いてしまう。
(やっぱり格好良いなぁ…目が見えないのは残念だけど、仁王さんと入れ替わっていること考えたらハンサムなのは間違いないだろうし…優しいし紳士だし…)
「ちょっと失礼?」
 ひた…っ
「っ!!」
 声と共に頬に相手の指先が優しく触れてきた事で、少女は我に返った。
「は、はい…?」
「じっとして…」
 いつの間にか、相手は鞄と袋を地面に置いて、いよいよ本格的に色合わせの最終確認に入っていた。
 しっかり確かめようというのか、指先で桜乃の頬を押さえて固定し、直前まで顔を近づけてくる。
(きゃーっ! きゃーっ!)
 そんな事は起こり得ないと思っていても、どうしても心の中に浮かんでしまう。
 相手と自分のキスシーンが。
(あああ、紳士な人を相手になんて煩悩を! 終わって! 嬉しいけど早く終わって〜〜! ばれちゃうよう〜〜)
 もしばれたら絶対に軽蔑されてしまう、その前に離れなければ…!!
 必死に願う桜乃の心の声は神に通じたのか、それから数秒とせずに柳生はようやく腰を屈めていた姿勢を起こし、元の対人距離へと戻った。
「すみません、つい夢中になってしまいました」
「いっ、いえ…お構いなく」
 こういう場合、お構いなく、というのは果たして正しい使い方なのかどうかは分からなかったが、とにかく場を誤魔化せればいいという判断で桜乃はそう言った。
 まだ頬が熱い…きっと見た目にも赤くなってしまっているだろう。
 見られているかも…と思いつつ、そっと両の頬に手を当てると、それを見た柳生が申し訳なさそうに言った。
「ああ、すみません。寒空の中で長く付き合わせてしまいましたね、頬が真っ赤になって…私としたことが」
「いえ、大丈夫です」
 良かった…寒さのせいで赤くなったと解釈してくれている様だ。
 ちょっと安心していると、柳生は今度はサンプルではなく、新品の箱を見せて彼女に言った。
「貴女には、この色が大変お似合いですよ。私も好きな色ですね」
「そっ、そうですか?」
 何となくカップルの女性側の気持ちが分かった気がする。
 そんな事を好きな人から言われたら、それはもう嬉しくて一も二も無く買ってしまうだろう。
(…恋人でもないのにいきなり買ったら引かれないかな…でも、折角選んでもらったし…好意を無碍にしないって意味なら大丈夫よね)
 何度か頭で考えて、桜乃はその口紅を購入することを決定した。
 細かい値段は覚えていないが、もし今日買えなくても、色を覚えていたら後日購入する手もある。



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