「じゃあ…試しに買ってみようかな…」
そう言いつつ桜乃はそろっと遠慮がちに柳生に向かって手を差し出した。
無論、彼が手にしていた新品の箱を受け取ろうとしたからだったが、何故か相手はそれを彼女の手に乗せようとはしない。
「?」
あれ?と首を傾げた少女に、紳士はぐ、と自身の手で箱を握りしめながら、あることを提案した。
「…これは…私から貴女へ差し上げる訳にはいきませんか?」
「え…!?」
「折角ここでお会いしましたから…クリスマス・プレゼントに」
「えぇ…っ!?」
ただただ驚くしかない桜乃が呆然としている間に、柳生はその箱を握りしめたまま店内のレジをちらりと省みた。
「ああ、客が増えて混んできましたね…列が出来る前に行って来ます。申し訳ありませんが、荷物だけ見ていて下さい、お願いします」
「え、え…あの…っ」
さっさとレジに向かう相手を追いかけようとしたものの、彼の鞄と袋をその場に放置する訳にもいかず、桜乃はそこに足止めされてしまった。
(あああ…荷物頼まれちゃったから動けない…も、もしかしてわざと…?)
頼む時も紳士だったけど…紳士だったけど…何か侮れないっ!
そう思いながら、結局少女は紳士が買い物を済ませるまで大人しく待ちながら、ある一つの事を思い出していた。
(…誰が教えてくれたんだっけ…口紅を贈る意味)
『貴女の唇が欲しい』
(ま、まさかね…)
流石に偶然でしょ…ありえない。
どうしてこんな都合のいいことばかり考えるのかな…きっと、今日という日のせいだ。
周りが浮かれているから、自分もつい同じように浮かれてみたくなる、気をつけないと。
もんもんもん…と苦悩している内に、小さな紙袋を一つ持って、柳生が戻ってきた。
「お待たせしました竜崎さん。ここは少々混み合ってますから、場所を移動しましょう」
「は、はい…」
言われるまま、桜乃は柳生に連れられて、その店から離れるべく歩きだした。
二人が到着したのは、その店から離れたプロムナードに設置された広場だった。
ライトアップされた木々が目映く煌めき、人々の歩く道を照らしている。
普段は閑静なここも、今日はクリスマス仕様。
いつもより派手になった場所は人々の足を留め、目を楽しませていた。
見るだけで楽しい場所だったが、そこに長く留まって観覧するより歩きながら景色を楽しむ人口の方が多いのか、各所に設置されているベンチには多少のゆとりがあり、お陰で柳生達もそう苦労せずに腰を落ち着ける事が出来た。
「様々な色が混じり合って綺麗ですね」
「はい」
二人はベンチに腰を下ろすと、先ずは周囲をぐるりと見回した。
場所を変えても、見えるのは恋人達や家族連れの姿が殆どだ。
皆が楽しそうに、嬉しそうに、木々の間を巡り歩いてゆく。
今の彼らの視線は自分達の連れやライトアップされた木々、イルミネーションのみに向けられており、こちらを一瞥だにしない。
「みんな、夢中ですね」
「ええ、そうですね」
桜乃の素直な感想に、柳生が笑みを含ませながら答えると、そっと手にしていた紙袋を掲げ、中から例の箱を取り出した。
「ラッピングをお願いしようかとも考えたんですが、すぐに開けて頂きたかったので…構いませんでしたか?」
「はい!」
「良かった…」
口紅の入った箱を嬉しそうに受け取った桜乃を見下ろしていた柳生は、そこで一度呼吸を整えると、ゆっくりとした口調で彼女に尋ねた。
「貴女は…ご存知でしょうか?」
「? 何をですか?」
「…男性が、女性に口紅を贈る意味を」
「っ!!」
かたん…っ
問われた直後、桜乃の手が箱を取り落とし、二人の間のベンチに落ちる。
しかし、もうそれを拾い上げる心のゆとりは、桜乃にはなかった。
口紅を受け取った手は行き場をなくして胸の前をさまよい、今日のどれよりも激しく胸が早鐘を打ち始める。
緊張で喉が渇き、視界が霞む。
声を出そうにも、どんな言葉を言えばいいのか分からない。
ああ、どうやら自分は、かなり混乱しているらしい。
頭のどこかで呑気にもそう考えている間に、柳生はこちらの反応からあっさりと答えを導き出していた。
「…ご存知の様ですね」
こちらへ振り返り、顔を覗き込む様に身体を傾けてくる相手にたじたじになりながら、桜乃はどもりつつ必死に言葉を紡ぐ。
「あ、あの……まさか柳生さん、も…知って?」
知らずに問いかけてくる訳もない。
かなり間抜けな質問だったが、相手はそれを咎めることもなく微笑みながら答えてくれた。
「ええ…知っています」
答えながら、彼の右手がベンチに下ろされていた桜乃の左手を捕らえると、そのまま指先同士を絡めてくる。
逃げないように…逃がさないように。
「…それを踏まえた上で、貴女に贈ったのです。ご存知なければ、ここでお伝えするつもりでした」
「〜〜!!!!」
イルミネーションの中でもはっきりと分かる程に紅潮した桜乃の顔を見ていた柳生は、微かに緊張している面持ちにも見えたが、やはり眼鏡のせいでよく分からない。
その彼は一度絡めた指を離すと、やや姿勢を正し、桜乃がベンチに落とした例の贈り物を取り上げて彼女に差し出した。
「つけて頂けますか?」
「…」
「…私の為に」
「!」
相変わらず紳士的な言葉だったが、その内に潜む熱情に当てられた様に眩暈がする。
夢の中での出来事のように感じながら、桜乃は請われるままに彼から箱を受け取った…が、
「…あ、あれ…?」
箱を包装していたビニルを外そうとするが、緊張の為か手が震えて上手くいかない。
何とかそれを外し終えて中から実物を取り出しても、なかなか手は言うことを聞いてくれなかった。
「や、やだ…私…」
恥ずかしいところを見られ、それが更に焦りと緊張を生んで悪循環に陥りそうになったところで、柳生が助け船を出してくれた。
「では私が…」
「あ…」
そっと桜乃の手から優しく口紅を奪い取ると、彼は左手の指先で、くいと彼女の顎を支え、上向かせた。
そして右手で持った口紅のキャップを外し、捻って本体を出すと、それを乙女の唇に当てて優しくなぞってゆく。
(う、わ…柳生さん…)
彼の手で、唇が彩られてゆく…彼の好きな色に。
キスという形でなくても、優しく唇が犯されてゆく様で、桜乃は思わず目を閉じて微かに身体を震わせた。
「…」
そんな乙女の姿に、紳士は決して表に出せない、しかし消せることもない衝動に襲われた。
ぞくぞくする戦慄が背筋を走り、欲望が理性を捨てろと耳元で甘く誘う。
彼はその誘惑に耐えながら、最後まで丁寧に桜乃の唇を紅で彩ってやった。
「さぁ、出来ましたよ」
柳生の呼びかけで桜乃がぱちりと目を開くと、彼が優しい笑顔でこちらを覗き込んでいた。
「あ、有り難うございます」
「ええ…やはり、とてもお似合いです。いつにも増して愛らしい」
「そんな…」
「…」
手放しの誉め言葉に桜乃が恥じらう様を見ていた柳生が、浮かべていた笑みをすっと消し、酷く真剣な表情で相手の頬に手を添えた。
「…!」
遊びでもなく、生半可な想いでもない…それを伝えるように紳士は真っ直ぐに乙女を見つめていた。
「……奪わせて頂いても、宜しいでしょうか?」
「っ…」
何を、という事を言われずとも、その意味を察した桜乃が一瞬、息を呑む。
しかし、その時には彼女ももう覚悟は出来ていたのか、数秒後に恥じらいつつ頷き、微笑んだ。
「…奪うのに、わざわざ相手に確認するのもちょっと変ですね」
それは照れくささによるものなのか天然なのか…分からなかったが、柳生は苦笑して律儀に答えた。
「紳士ですからね」
少なくとも拒絶の意志がない事を確認し、柳生はゆっくりと顔を相手のそれに近づけると、そっと唇を重ねる。
柔らかな相手のその感触を感じた瞬間、自分の心の中にあった堅い何かが、ぱりんと音をたてて割れるのを聞いた。
何だろう、と思ったのはほんの一瞬のこと。
その次の瞬間には、彼の脳裏からはそんな事など忘れ去られており、ただあるのは目の前の少女への渇望のみだった。
何度も何度も繰り返し、唇を重ね…
自分が冷静さを失っている事実にすら気づけない程夢中に、柳生は桜乃との口づけを交わした。
「あ…ぁ…やっ……」
「愛していますよ…貴女を」
見たことがない柳生の激しい一面に翻弄されながら悶える少女に、彼は心に秘めていた想いをぶつけた。
「愛しています…心から」
ずっと…伝えたかった…
激情の一時が過ぎ去った後、柳生は胸の中に桜乃を抱きしめたまま、望みを叶えたにも関わらず申し訳なさそうな顔をしていた。
「すみません…その、あまりに嬉しくて、我を忘れてしまった様です…」
「い、いえ…」
紳士らしく振る舞うつもりが、途中から記憶が曖昧になってしまう程にキスを求めた事実に、今更ながら男は恥いることしきりだったが、桜乃はそんな相手に対しぷるるっと首を横に振った。
「イヤじゃ…ありませんでしたから」
「!…」
再びぐらっと自分の中の何かが揺らいでしまいそうな気がしたものの、今度はしっかりとつなぎ止める。
「あ、あの…」
「はい?」
呼びかけられ、桜乃を見下ろすと、何故か彼女が不安を滲ませた大きな瞳でこちらを見上げていた。
「口紅、有り難うございました…でも私は…柳生さんには何も…」
「ああ…いいんですよ、そんな事を気にしなくても」
「でも…贈り物を頂いたのに、何もお返ししないのは…」
気が引ける、という様にしょぼんと肩を落とした少女を暫く見ていた柳生は、不意に彼女に呼びかけた。
「では、竜崎…いえ、桜乃さん」
「は、はい?」
初めて名前で呼ばれ、それに顔を向けた桜乃に、柳生は再びあの口紅を見せた。
「?」
何だろうと思っていると、彼は再び、キスで殆どそれが取れてしまった相手の唇に紅を塗り直してやり、終わったところで柔らかく指を押し当て、笑った。
「これから私とのデートの時にはこれをつけて…少しずつ私に返して下さい」
「……っ!!」
何を言わんとしているのか分かってしまった桜乃は大いに赤面し、柳生はそれを見て嬉しそうに笑った。
「そしてこれからは、私の事を比呂士と呼んで下さいね」
贈り物なら、もう貰っていますよ…ずっと欲しくてたまらなかった、とても可愛い、愛しい恋人をね。
彼女が手中にある喜びを感じながら、柳生はこっそりと心の中でそう告白していた…
了
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