世界に不可欠なもの・1
「さて…」
とある日曜日、立海大附属中学三年生の柳生比呂士は朝食を済ませた後、自室で窓を開け放ち、朝の空気を肺一杯に吸い込みながら、腰に手を当て空を見上げていた。
今日はテニス部の活動も無い、完全フリーの貴重な休日。
別に誰との約束も無く、家人から頼まれごとをされている訳でもないので、どう過ごすかは柳生の自由。
久し振りに羽を伸ばせるこの日を如何に過ごすべきか、その若き紳士は晴れ渡った青空を見上げながら頭の中でアイデアを模索していた。
(着替えて朝食を取った今でも、まだ店などが開くには早い時間ですからね…庭に出て、ゴルフの素振り練習をやるのもいいかもしれませんが、どうせならクラブに行った方が…)
ここできっちりと堅実な計画を立てておかないと全てが無駄になる可能性もある…と非常に慎重な思考を巡らせていた彼は、ふと、思いついた様にくるっと振り返った。
他には誰もいない、自分だけの部屋…
「……ふぅむ」
手を口元に当てて、柳生は過去の自分が此処を掃除した日を思い出す。
「…そう言えば、しっかりとここを掃除したのは二週間ほど前になりますかね。軽い拭き掃除と、掃除機を当てるぐらいはやっていましたが…」
同学年男子ならそれだけで既に十分過ぎるだろうが、彼はしまったという様に眼鏡から僅かに外れて見えている形の良い眉をひそめた。
「部活が忙しかったとは言え、少し気を緩めていましたね…そう言えば書架の中の整理もそろそろしなければいけませんでした」
自分が自宅で一番居る時間が長いのは、当然この自室である。
部屋の乱れは、己の心の中の乱れでもある。
常日頃からそう考えている優等生は、もう一度今の時間を確認してから、予定を素早く自身の脳内で組み上げ、頷いた。
「街に出る前に、一度部屋を綺麗に掃除することにしましょう」
幸いと言うべきか、今日は自分以外の家族は全員もう出払っている。
父親は仕事の付き合いのある同僚と出かけており、母親は近所の主婦達と連れ立って日帰りバス旅行…兄弟たちも朝早くから友人達と落ち合って遊ぶと聞いていた。
(良かった、多少賑やかにしても迷惑は掛かりませんね…では手早く行ってしまいましょう)
家族に対してさえこの気遣いである。
世の親達の理想であるだろう子供が具現化した様な若者は、決めた予定を迅速に行うべく準備に取り掛かる。
掃除に必要な物品は一階の物置に収納されてあった筈だと、彼はすぐに階下へと降り、物置の前に立つと扉を開く。
光があまり射さないその薄暗い空間の中から手際よく掃除機や雑巾を取り出し、再び部屋に向かう途中で立ち寄ったキッチンの壁に掛けてあったエプロンを取ると、柳生はばさりとそれを身につけた。
「心遣いは有り難かったのですが…もう少しどうにかならなかったんでしょうかね、このプリント柄は…」
ちょっと溜息混じりにそう言いながら自分の胸元を見遣る。
そんな彼の視界には真逆になった形で、エプロンにばっちりと印刷されたアニメ調のヒヨコのイラストが写っていた。
実は、このエプロンを家に持って来たのは自分の家族ではなく、テニス部のダブルス相方である仁王雅治であった。
何故、他人の筈の仁王が、この柳生家にエプロンを納めたのか…
そこに至る経緯を話すと少し長くなる。
彼らは立海テニス部で、最強と呼ばれている丸井・ジャッカルペアに勝るとも劣らぬダブルスコンビなのだが、その息を合わせるという名目上、日常生活に於いても非常に珍しい付き合いをしている。
それが、互いの変装を兼ねた『入れ替わり』。
つまり、柳生が仁王の振りをし、その間は仁王が柳生の振りをして生活するのだ。
『俺達が互いのフリをして試合して、相手にそれをバラしたら、面白そうじゃとは思わんか?』
そんな詐欺師・仁王の一言が切っ掛けだった。
只の暇潰しだったら、柳生は一瞥もくれることなく彼の意見を却下していただろう。
しかし、それがテニスの試合…勝負に関わることになれば話は別だ。
れっきとした『作戦』としての提案なら、一考するに価する、と柳生は考えた。
普通の感性の人間ならば『入れ替わり』の案そのものが突拍子がなく、余りにも理解の範疇を超えているという時点で到底受け入れ難いものであるが、結局柳生はその相棒のアイデアを受諾した。
突拍子がなく理解の範疇を超えているということは、それだけ相手方の意表を突くことも容易だろう。
予想出来るアイデアは、敵方にも予想されうる危ういものだ、安易にそれに乗る事はそのまま敗北にも繋がりかねない。
自分は紳士だ、故に当然相手とは正々堂々と勝負する心積もりだが、だからと言ってバカ正直に真正面から突っ込む様な愚かな真似はしない。
戦いに際しては相手に敬意を払い、全力をもって挑み、あらゆる策を講じて打ち倒す。
かつて数多の紳士達がそうしてきた様に…自分も。
『…宜しいでしょう、それが我々立海の勝利に繋がるならば』
『決まりじゃな』
柳生の紳士然とした姿の奥に宿る勝負師としての一面を最初から見抜いていたのか、だからこそこの案を持ちかけたのか、仁王は引き受けた相棒に、最初からそうなると知っていた様に笑っていた。
そして彼らの『入れ替わり』が始まったのである。
二人の身長が然程に相違がなく、また、顔立ちも双方整っていたからこそ出来たことだが、只の遊びと呼ぶには余りにもリスキーな行為。
しかし、そんな行為を彼らはもう一年以上に渡って続けているのだから、お互いの性格や嗜好の分析、理解は相当なものだった。
当然、そこまで徹底した互いの模倣はテニスの試合の中でも大いに発揮され、発起人となった仁王は更に『コート上の詐欺師』という異名を不動のものにしたのである。
そろそろ、テニスにおける入れ代わりの話はここまで。
そんな『詐欺』も、最初は第三者、赤の他人のみが集う学校内に限られた行為だったのだが、実は互いの技術が向上してきた昨今は、それぞれの家人の前でも入れ替わりを行う様になっており、長い時には一泊二泊、相手の家に泊まり込む行事にもなっていた。
そして某日、仁王が柳生の振りをして彼の家で過ごしていた時のこと。
『比呂士、前のエプロンがダメになっちゃったから、買ってきてくれないかしら。可愛いのがいいわ』
柳生の母親から頼まれた、彼女の息子に扮していた仁王は、相棒だったらそうしていた様に二つ返事でおつかいを引き受け、エプロンを買ってきたのである。
それが…このヒヨコ柄のエプロンだった。
(…確かに可愛いと言えば可愛いのですが…彼はどんな顔でこの柄を選んだのでしょう…)
想像しかけて止める。
ちょっと考えただけで、相手が、自分もこれを使う事を予測して思い切りウケを狙うべく、ハンガーに掛けられているエプロン達を嬉しそうに勢い良く捲っている姿が思い浮かんできたのだ。
(全くもう…)
部屋を片付けすっきりしようと考えていた早々、ちょっと鬱になってしまった。
相手の思考を読める様になってしまったのも考え物かもしれない。
「…まぁ、エプロンには罪はありませんからね」
実は最近、使っている内にこのヒヨコエプロンがそれなりに気に入ってしまったという事は内緒。
これも相棒の読み通りだとすると少々癪だなと思いながら、紳士はエプロンをつけたまま、掃除を始めるべく道具を持って自室へと向かって行った。
普段から、親に掃除を任せず自主的に行っているだけに、柳生の一連の動きは実にスムーズだった。
紳士を気取り、テニスだけではなくゴルフも嗜んでいるだけあって、その姿は掃除中であっても実に様になっている…例え手にしているものがはたき箒であったとしても。
「ふむ…こんなところでしょうか」
一時間もしたら、元々そんなに汚れていなかった彼の自室は、更にぺかーっ!と輝きを増して清潔感に溢れていた。
その成果に本人も腕を組み、うんうんと満足げに頷いている。
「ああ、やはり綺麗にすると心も晴れ晴れしますねぇ」
そんな様子で部屋を眺めていた柳生だったが、その表情が徐々に、ちょっと困惑したそれに変わってくる。
(…? うん…?)
これだけ整然と整っている部屋なのに、何となく落ち着かない…何だ、この違和感は。
「…ああ」
すぐにその理由について思いついた柳生は、自分の勉強机の上に、参考書とノートを載せてみた。
あまりに片付けられた部屋は、人が住んでいるという気配すらも消えてしまい、却って不自然になってしまう…そう、きっと生活感が足りないのだ。
それを補う為に、机の上に物を置き、ついでに制服の上着も椅子の背もたれに掛けてみる。
これで或る程度の生活感も出て、自然な部屋に映る筈だ。
「……」
かなりの自信をもってアレンジしてみた柳生だったが、それでも問題は解決しなかったらしく、彼の愁眉は消えなかった。
(何でしょう…? 何かが足りない様な…?)
それが何なのか…部屋の主である自分にも分からないなんて…?
腑に落ちず、口元に手をやって暫く悩んでいた柳生の耳にふと…
ぴんぽーん…
「ん」
玄関の方から、来客を告げる呼び鈴の音が届けられてきた。
どうやら客人の様だが、そんな予定は柳生自身にもなく、家人の誰からも聞かされてはいなかった。
(どなたでしょうか…? もしかして配達?)
最も考えられる可能性を思い浮かべながら、柳生は取り敢えずは玄関へと向かい…その途中でリビングのソファーの背凭れに、ばさっと着ていたエプロンを外して置いた。
家族ではない、他人の誰かにエプロン姿を見せるなど紳士としてあるまじき行為である。
エプロンを外した普通の私服姿になった後で、柳生は早足で玄関へと向かった。
柳生編トップへ
サイトトップへ
続きへ