(どちら様…)
すぐに扉を開けることはせずに、先ずは覗き窓から相手を確認…したところで、柳生は光速の速さで扉を開いた。
「わ…っ」
その勢いの良さに客人が少しばかり驚いた様子だったが、気付いてないのかその振りなのか、柳生は何事もなかったかの様に挨拶をする。
「お早うございます、竜崎さん」
「あ…お、お早うございます柳生先輩。すみません、午前中からお邪魔を…」
驚いた所為で少々動揺してしまった相手だったが、何とか気を取り直しつつ笑顔で彼に挨拶をした。
長いおさげを揺らした、小柄な少女。
大きな瞳が印象的だが、その表情から伺える彼女の性格はいかにも内気そうだ。
しかし、柳生はそんな見た目だけの判断からではなく、既に経験から彼女がそうである事はよく知っていた。
「わざわざ来て下さるとは…今日は一体、どうなさいましたか?」
確か、会う約束はしていなかった筈…と不思議に思いながらも、心の中ではこの意外なサプライズを柳生は心から歓迎していた。
竜崎桜乃…青学の中学一年生であり、自分…いや、立海男子テニス部レギュラー陣にとっての妹分である。
青学は元々、男子テニス部が自分達にとっての強敵であるという関係に過ぎなかったのだが、その相手の顧問が桜乃の祖母であったことで彼女と知り合えたのだから、人の縁というのは不思議なものだ。
正直知り合った当初は、部長である幸村の判断に最低限従う形で、桜乃の見学を受け入れるだけで良いと思っていた。
しかし、徐々に彼女との交流が重なる内にその人となりを知り、自身の心が相手に傾いてゆくのを感じ始めるようになったのだ。
いつもいつも、気がついたら桜乃の事を考えてしまっている…その必要もないのに。
電話番号やメールアドレス…果ては住所に至るまで交換する程に親しくなっているにも関わらず、尚、その距離を縮めたいと思って止まない。
その感情が何というのか、最初はまるで分からなかった。
『本当の妹の様に思ってしまっているのだろうか?』と、自分の気持ちに混乱していたある時、相棒の仁王から唐突に言われた。
『なんじゃ、お前さんもあの子が好きなんか。そこまで似んでもええのにのう…厄介じゃ』
本当に厄介だ…本人より早くその気持ちに気付いてしまう相棒を持つと。
そしてそれ以上に、そんな相棒と同じ女性を好きになってしまったなど…厄介極まりない。
どうでもいい相手であったなら、遠慮なくこちらも行動を起こせるのに、残念ながらそうではない所為で、彼とこの少女との間ではいまだに手を出したくても出せない微妙な関係が続いていた。
そんな懸想の相手が今日という休日に自分を訪ねて来たともなれば、紳士であっても内心、浮かれたくもなるものだ。
「何か困ったことでも?」
自分に出来ることなら全力でやらせてもらおうと考えていた柳生の問い掛けに、その娘はにこりと微笑みながらも首を横に振った。
「いえ、別にそういう事ではなかったんですけど…あの、これ…」
「え?」
そう言って桜乃が差し出してきたのは、淡い色の布ナプキンで包まれた長方形の物体だった。
思わず受け取ってみると、重さは大したものではない。
「この間、部活の合間にお話していた時に、手作りのお菓子で盛り上がりましたよね。あれからちょっと作りたくなって、エクレアを作ってみたんですよ。そうしたら、いつになく上手く出来ましたから、是非お裾分けしないとって思って…届けることばかり考えてて、連絡も取らずに来てしまってすみません」
「わざわざ持って来て下さったんですか!?」
「はい、平日だったら部活の時で良かったんですけど、今日はお休みでしたし…」
確かにクッキーなどなら日持ちもするだろうが、生菓子となるとそうはいかない。
それだけの為にわざわざ自宅まで届けてくれた相手の心遣いに、柳生は感謝し、喜びながら、心からの礼を述べた。
「有難うございます、大事に頂きますよ」
「そんな…いつもより上手く出来ただけの話ですから……じゃあ…」
ぱたぱたと忙しなく手を振って謙遜する少女を見下ろしていた柳生は、その彼女が暇を告げようとする台詞を紡ぐ直前、珍しくそこに割り込んで発言した。
普段なら相手の言葉を遮るような真似はしないのがマナーだが、今のこの状況なら話は別。
「あの…これから何かご予定はお有りですか? 竜崎さん」
「え? 私ですか? いえ、特には…」
己にとって絶好のチャンスが巡ってきた!
ここであっさりと相手を帰す手はないだろう…折角来てくれたのだし、彼女も少しは疲れているだろうし…引き止める大義名分は幾らでも思いつく。
「そうですか…では、宜しければウチで少し休んでいかれては?」
「え…」
桜乃から受け取ったエクレアを手にしたまま、柳生は厳かに相手に申し出た。
「ご心配なく、丁度家族は出払っておりますので、気を遣わせることもありません。折角の美味しい頂き物を一人で食べるのも味気ないですからね、休憩ついでに付き合って頂けませんか?」
「!」
柳生からの申し出に、桜乃は少し驚いた様子で彼の背後の玄関を見遣り、再び相手へと視線を戻す。
遠慮と興味が入り混じった瞳は、少なくとも拒絶は表してはいない。
なら、こちらも遠慮する必要は無いだろう。
「…でも、お邪魔では…?」
「いえ、私も丁度時間を持て余していましたから、ご一緒にお茶でもどうですか?」
「わぁ…」
どうやら本当に相手の迷惑にはならないらしい、と感じたところで、ようやく桜乃は嬉しそうに深く笑った。
「じゃああの…お言葉に甘えてもいいですか?」
「ええ、勿論」
そして柳生は、想い人を自宅に招くことに遂に成功した。
それを心から喜びつつ…不意に彼は相棒の姿を思い浮かべた。
自分と同様この娘の事を想っている仁王の事を思い出した時、目には見えない傷がそこにある様に、胸の何処かが痛んだ…気がした。
勿論、傷など負っている筈もなく、それは気のせいでしかないのだろうが…敢えて言うとするならば、良心の呵責?
親友の気持ちを知っていて尚、彼女との距離を縮めようとしている己への非難が、痛みとなって顕れているのだろうか?
(…い、いや、しかし…)
これもまた一つの真剣勝負…と柳生は気を取り直した。
そうだ、今日ここに彼女がいるのはそもそも自分が呼んだ訳ではなく、彼女自身の意志なのだ。
そこまで負い目を感じる必要はない筈だ…と言い聞かせつつ、彼はいよいよ玄関の扉を開けて相手を中へと招きいれた。
「それではこちらへどうぞ?」
「えへ…お邪魔します」
英国紳士の如き優雅な動きで桜乃を招いた柳生は、先頭に立って彼女を自室へと案内した。
二階へ上がって、部屋のドアを開くと、先程掃除を済ませたばかりの整頓された空間が現れる。
「うわぁ〜〜! 流石、柳生さん! お部屋の整頓も完璧なんですねぇ、驚きました」
「いえ、当然のことです」
さり気なく眼鏡に手をやりながら淡々と答えながらも、柳生は心の中でタイミングよく掃除を終えていた自分自身と、その行為へ導いてくれたかもしれない神を絶賛していた。
それはもう、心中でくす玉が開いて『おめでとう!』の垂れ幕と鳩と紙吹雪が舞い散った程。
元々人に見せられない程のものではなかったのだが、やはり印象は多少は違ってくるだろう、そう考えると本当に上手い具合に評価を上げることが出来た。
「すみませんね。リビングには丁度父の書類がまだテーブル上に残っていまして少々見苦しいので…広い方が良かったですか?」
「いいえ、全然構いません。柳生さんのお部屋も十分広いじゃないですか…あ、あのう、本棚、見てもいいですか?」
興味津々とばかりに尋ねて来る少女に、柳生はあっさりと頷いた。
「勿論、構いませんよ。興味がありそうなものでしたら、どうぞ手にとって頂いても」
「有難うございます!」
ミステリーやゴルフ、テニス関連の本が、綺麗に区分けされ、ずらりと並んでいる棚に近寄った桜乃は、最初はへぇ〜と楽しそうにそれらを見詰めるばかりだったが、やがてタイトルなどから興味が引かれたものへと遠慮がちに手を伸ばし始める。
そんな少女の姿を微笑ましそうに見詰めてから、柳生はこれ幸いと行動に移ることにした。
「貴女が本を見ている間に私はお茶の準備をしてきましょう。遠慮なくゆっくりとしていて下さい」
「あ! じゃあ私も何かお手伝いを」
予想通りの桜乃の反応だったが、そこは柳生がきっぱりと遠慮する。
「いいえ、今は貴女はお客様ですから、キッチンに入れる訳には参りません。大丈夫、お茶ぐらいなら私でも淹れられますよ、ご心配なく」
「…そう、ですか? すみません」
「謝る必要はありません。では、少々席を外しますので…」
そして柳生は一旦自室を出て、リビングへと向かった。
キッチンに入る前に、一度そこのソファーに置きっ放しにしていたエプロンを再び身につける為である。
建物の構造上、キッチンとリビングは繋がっているので、彼はリビングに寄ってエプロンを着けながらキッチンへと入った。
先ずはお湯を沸かす作業に入りながら、淹れる茶葉の選別。
桜乃に言った言葉は嘘ではなく、紅茶の淹れ方には少々自信がある、それに丁度…
(頂き物の美味しい紅茶の茶葉がまだありましたから、それを使いましょう…後は)
茶葉の入った缶を棚から取り出しつつ、彼は一度冷蔵庫へと目を遣ったが、結局その時は扉を開く事はなかった。
中に別の洋菓子があった事を思い出したのだが、桜乃から貰ったエクレアもある事だし、一気に出す必要はないだろう、それに心情的にも、彼女の手作りのお菓子の味を集中して楽しみたいという希望もある。
エクレアを並べるプレートを選び、これから迎えるであろう有意義且つ魅力的なティータイムに思いを馳せていた時だった。
『きゃ―――――――――――っ!!!』
「!?」
突然、響いてきた女性の悲鳴。
二階から。
あの少女の声に酷く良く似たものだった。
「竜崎さん!?」
何が!?と疑問に思うより早く、彼の手はIHヒーターのスイッチを切り、身体はもう階段へと向かっていた…
前へ
サイトトップへ
後編へ