「…そう言えばね、お兄ちゃん。私の友達みんな、大好きな人の隣で寝た事ないんだって、可哀相だね」
「…………は?」
丁度眼鏡を外しかけていた紳士が、珍しく抜けた声で訊き返す。
他人には見せないその素顔は、眼鏡を掛けている時より更に美々しく、相棒とされている銀髪の男と確かに目鼻立ちが似通っていたが、今の彼にはそういう事などどうでもいい。
「何ですって?」
「だから、皆がこうやって好きな人と一緒に寝るのっていいなーって言ってたの。一人っ子の人はしょうがないけど、兄妹いるのにそういうのが出来ないのって可哀相だよね」
「…………」
これは否定するべきか、詳しく説明するべきなのか…
いや、まだ桜乃は中学生に上がったばかりだし、まだそういう事を知るには早すぎる…いやいや、しかし昨今の女子はメディアを通じて色々と進んだ知識を得ているとも言うし、第三者から事実を聞かされるよりは兄の自分がちゃんと説明をしてやっていた方が後の自衛にもなるのでは………
もんもんもんと悩んでいる柳生を余所に、桜乃はぽふんと布団に潜り込みながら無邪気に笑っている。
「私は大好きな比呂士お兄ちゃんで良かったなぁ、お願いしたら、いつも一緒に寝てくれるもんね…………どうしたの? お兄ちゃん」
「いえ…………」
『大好きな』が激しくツボったのか、柳生が顔を向こうへと向け、ふるふると肩を震わせている。
結論…自身の教育方法に誤りなし!(別の誤りはあるかもしれない)
「…妹に頼られていると思うと、やはり嬉しくなるものですね」
「うふふ」
「さ、そろそろ休みますよ。明日も学校ですからね」
「うん、お休みなさーい」
相手を促し、消灯した後で、柳生も静かにベッドに横になった。
(まぁ、まだいいでしょうかね…)
大好きな人の隣で眠る、という意味を知らせるのは、もうしばらく先にしておこう。
いずれ知る事になるだろうが、それまではこの特権は兄の自分が享受する。
隠れた我儘を胸に、紳士は早くも寝入ってしまった妹の様子を見て微笑み、自分も静かに瞳を閉じた……
翌日…
「昨日は凄い雷雨だったね」
「ああ、しかし降り切ってくれたお陰で今日は一日通して晴天の様だ、練習には問題ない」
立海の男子テニス部レギュラーの面々は、いつもの様に朝練をこなしたところで、部室内で軽く天気について話していた。
他の非レギュラー達は、今は部長達に指示されたメニューをこなしている最中だ。
立海テニス部首脳陣にとっては天気を気にするのは井戸端会議レベルのものではなく、コートの状態によっては以降の練習内容の変更を迫られるので、それなりに重要な案件である。
外での練習が困難と判断したら、すぐに決められている連絡網を通じて早めに全部員へと練習内容、行う場所についての変更点を知らせる必要がある。
主に決断を下すのは、気象のデータにも詳しい参謀の柳蓮二であった。
「そうか、じゃあ午後はいつも通りコートに集合って事で…」
部長の幸村がそう判断を下しかけたところで、部室のドアがノックされる。
「はい?」
「あの、お、お邪魔します…すみません、朝練中に」
向こうから声が届けられ、ドアの向こうに姿を現したのは桜乃だった。
「やぁ、桜乃ちゃん? どうしたの?」
特に怒る事もなく相手の来訪を迎えた部長だったが、代わりに兄の柳生が桜乃を軽く嗜めた。
「どうしました桜乃、部の練習中は皆さんの迷惑になりますから、悪戯に来てはいけませんよ」
公私混同しないといういかにも紳士的な名目であるが、実はイケメンが揃っているこの部に、妹をあまり近寄らせたくないという意図が含まれているのは、当の妹には秘密である。
「ごめんなさい、お兄ちゃん。あのね、さっき登校していたらお兄ちゃんと同じクラスの人に頼まれて…これ、急いで渡してほしいって」
「ん…?」
どうやら学級内での何かの案件のプリントだろうか…それらしきものを差し出され、柳生が受け取っている間に、部長の幸村が微笑みながら桜乃に改めて挨拶をした。
「久しぶりだね、桜乃ちゃん」
「はい、皆さんも変わらずお元気そうで…今日は晴れて良かったですね、昨日は凄い雨でしたけど」
「ああ、ガラガラ煩かったよなぁ」
二年生の切原が忌々しそうに昨日の雷について文句を言うと、桜乃も苦笑して同意する。
「音も大きかったし…何処かに落ちたかもしれませんね」
「恐くなかったかい?…って、流石にもう平気か?」
にひゃっと悪戯っぽく笑いながら丸井が尋ねると、桜乃はにこ、と屈託なく笑って首を横に振った。
「大丈夫でしたよ。昨日はお兄ちゃんと一緒に寝ましたから」
し〜〜〜〜〜〜ん……
「……あ?」
「?」
ややひきつった顔でジャッカルがようやくそれだけを言ったが、他のメンバーもほぼ同じ様な反応だった。
唯一、柳生だけがその場の微妙な空気に気付いているのかいないのか、ふむ、と頷きながら手渡されたプリントを検分している。
「柳生と一緒に寝たの? 昨日?」
「はい、ちょっと雷が怖かったんで…いつもそんな感じですよ」
いつも!?
更に全員が硬直している間に、プリントを見終わった柳生がけろっとした様子で桜乃に声を掛けた。
「承りました。有難う桜乃。さ、貴女もそろそろHRでしょう、遅刻しない様に行きなさい」
「はぁい。お邪魔しました」
ぱたり、とドアを閉めて妹が去って数秒後…
むんず…
「俺にはいっちどもそんなうらや……突発イベントはなかったんじゃがのう〜〜〜〜〜?」
柳生の肩を掴み、地の底を這う様な声で背後から言ったのは、相棒の仁王雅治だった。
柳生とは、ダブルスの相方としても同級生としても、他のメンバーより親交が深いらしい彼は、紳士とは対称的な「詐欺師」という仇名を戴いている。
テニスの試合の際には、互いの背格好、面立ちが似ている事を利用して、入れ替わりさえ行う事もあるのだ。
その入れ替わりに当たっては、似ているからというだけで実践してみても、絶対にその不自然さは隠せない。
その不自然さを払拭する為に、彼らは常日頃から機会があれば互いに入れ替わりを行い、それぞれの『模倣』に磨きをかけているのだ。
その場は最初は学校内での生活に留まっていたのだが、最近はよりレベルアップを目指し、家でのそれにも及んでいた…が、仁王が入れ替わっている時に桜乃がそうやって部屋を尋ねて来た事はこれまで一度としてない。
そこに何らかの相棒の思惑を感じるのは、仁王でなくてもそうだろう。
「でしょうねぇ、私、気象情報は逐一細かくチェックしておりますから」
対する柳生は、ふん、と軽く鼻を鳴らしながら眼鏡に手をやり、あっさりと相手の予想を認めた。
「どお〜〜〜〜りで台風シーズンには断固として入れ替わりを拒否しとったワケじゃなぁ〜〜?」
「飢えた狼の前に子ウサギ放り込む様な真似は出来ません」
間違いなく、骨までしゃぶられる。
長い付き合いで、相手の好みがどういう娘かという事は分かっている…ついでに言うと、彼が自分の妹を殊の他気に入っている事実もよーく知っている。
気の置けない親友だという事は認めるが、それとこれとは話は別!!
兄として、断固、徹底、絶対、阻止しなければ!!!
「俺も優しくする自信はあるんじゃけど…」
「死にたくなければそれ以上の発言は控えることですね…」
明らかに普通の握り方とは違う…バットを持つ感じで自身の愛用のラケットを握りしめ、柳生が低い声で忠告する。
桜乃が本当の意味での「大好きな人の隣で目を覚ます」日は、まだまだ遠い……
了
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