眠りの森の紳士


「あれ?」
 その日、桜乃が昼休みに何気なく窓の外を眺めていると、ある人物が目に留まった。
 ここから眺める景色は、校内の中でも特に緑が多く、目にも優しい平和なもの…端的に言えば中庭に面しているのだ。
 なので、昼休みにはそこで食事を取ったりくつろぐ生徒達も多いのだが、それも時間が経過すると、各々教室内に戻ったり、校庭の方へと移動してゆく。
 特に遊ぶものもないので、面白みのない場所と言えばそうかもしれないが…
 しかし今、桜乃が目で追っている人物は、中庭の更に木々が茂っている場所の方へと移動していた。
 尚更不思議な光景に、ついつい彼女は相手の行動をつぶさに観察していたが、それも向こうの身体が木陰の奥に入って叶わなくなってしまう。
(どうしたのかなぁ…柳生先輩)
 そう、桜乃が目で追いかけていた不審行動を取る人物は、立海内でも特に優等生と評されていた柳生比呂士だったのだ。
 その行動は常に品行方正、相手を選ぶことなく人と真摯に接し、己の信念は曲げる事無く正道を往く。
 どうやったらこんな中学生が出来るのかと、世の親達が間違いなく羨むだろう好青年。
 しかも、良いのは性格のみに非ず。
 勉学にも秀で、加えて運動能力も他より突出している彼は、在籍しているここ立海でも全国的に強豪で有名な男子テニス部レギュラーにもなっている。
 更に、ゴルフの腕も相当なもので、本気になればプロも目指せるとかいう噂も実しやかに流れていた。
 ここまで来ると殆どスーパーマンだが、本人は至って冷静且つ謙虚に生きており、これもまた彼の評価を上げているのだった。
 そんな学内の人気者が中庭の一画に消えていく姿は、大いに桜乃の興味を沸かせた。
(あの場所には特に何も見るものなんかない筈だし…)
 もしかして、静かに読書とかしたいのかな?と、尤もらしい理由を考えてみたが、それもすぐに桜乃自身の頭の中で否定される。
(ううん、だってあそこだと多分日も射さないし、却って読みづらいと思うんだけど…それに、柳生先輩なら読書はいつもベンチに座ってしていたし…)
 実は柳生のことをそれなりに気にして見ていた少女は、自分の中にある相手についてのデータを引き出してきたが、結局、『そうだろう』と納得出来る予想は浮かばなかった。
(…なんだろー?)
 年頃の女子は好奇心の塊。
 普段、テニス部マネージャーとして接している時にも、柳生は文句なく紳士的で非常に優しくしてくれるのだが、まだまだ自分の知らない一面があるのかも…と思うと、身体がうずうずと落ち着かなくなってくる。
 ちらりと教室の壁掛け時計を見上げると、まだ昼休み終了まで時間は十分あり、それを確認した桜乃は柳生の許に向かう事を決めた。
(何をしてるのか聞いてみよう…お邪魔だって言われたら、すぐに退散したらいいよね…?)
 いそいそと桜乃は教室を出て靴箱へと向かい、そこで履物を変えた後で、数分後には柳生が消えた茂みへと近づいていた。
 この時間になると、殆どの生徒は校庭へと移動したり、中庭の中でも日当たりのいい場所へと移動している。
 自分が靴箱へと降り、ここに来るまでの間に柳生が場所移動をしていなければ、まだ彼はこの奥にいる筈である。
「えーと…柳生、先輩?」
 いきなり大声で呼びかけるのも失礼だし驚かせてしまうかも、という心遣いで、最初は茂みの向こうからこっそりと呼びかけてみる。
 しかし…
『…………』
 何の返事もない。
 相手が無視をするというのは彼の人となりからは考えられない。
 と言う事は、小さすぎて自分の声が聞こえなかったか、既に相手がその場から立ち去っているかだ。
「あれ…? 柳生先輩?」
 再度、今度は少しだけ声を大きくして呼びかけてみたが、やはり返ってくるのは沈黙のみ…
(…あれ? もういらっしゃらないのかな?)
 いないかはどうかは見てみないと分からない…ということで、桜乃は、がさ…と茂みの音を極力抑えるようにゆっくりと歩を進め、柳生が消えていった筈の向こう側へと歩いて行った。
 そして、そこで見たものは…
(…あらら)
 思わず口元に手を当てて、声を上げそうになった自分を何とか止めた桜乃は、代わりに瞳を大きく見開いた。
 何とも珍しい光景。
 自分だけではなく、他の立海の生徒もそうそうお目にかかったことはないだろう…この隙の無い紳士の寝姿など。
 その長身痩躯の若者は、近くの木に背を凭れさせ、右膝を立ててその上に右腕を置き、ゆったりと流れる時に身を任せていた。
 瞳は相変わらず偏光眼鏡でその表情を隠されていたが、微妙に傾いだ首の角度から、相手が眠っているのだろうということは察するコトが出来る。
(うわうわうわぁ…! 柳生先輩がお昼寝してる〜!)
 きっと、他人には隙を見せない様に、且つ邪魔されずに静かに休める場所として、この面白みのない場を敢えて選んだに違いない。
 まさかその現場を、桜乃に見られているとは思いもしなかっただろうが…
(わ〜、珍しいもの見ちゃったなぁ…あれ?)
 何かが、柳生の足元で動いた気がする…
 よくよく注意してそちらを見ると、彼の伸ばされた左脚の付け根部分の向こうから、ふわふわした何かが顔を覗かせていた。
 猫だ…しかもかなり小さな、雑種らしい。
 向こうは柳生にかなり懐いている様子で、そこから動く気配は見せず、脚の向こうから侵入者である桜乃の方をじーっと見詰めている。
 飼い猫っぽくはない、という事は野良なのだろうが、一見の人間に野良はすぐに懐くものではない。
 餌で釣っても貰う物だけ貰って後はトンズラするのが関の山だ。
 にも関わらず、相変わらず向こうの子猫はじっと柳生の足元から動こうとはしない…まるで彼が自分を守ってくれるという確固たる自信がある様だ。
 と言う事は…彼らは前からの『知り合い』なのだろうか…
(…こっそりここで餌とかあげてるのかな…? 柳生先輩、優しいし)
 勿論、学校の関係者にそれをバラすつもりもない桜乃は、邪魔をしては申し訳ないかと一度、身を引こうとした。
 しかし折角の機会ということで、つい柳生の寝姿に再度視線をやったところで、桜乃はある事に気付いた。
(…ぴ、ぴくりともしてない…!)
 生きている以上、眠っていても呼吸はしている筈なので、寝息や胸の運動は認められるのだが、桜乃のいる場所から見える柳生は、まるで蝋人形の様に固定し、微動だにしなかったのだ。
 無論、その動きそのものが普段から目立たず、服で隠されている場合も多いので、運動が目に見えなければ異常という訳でもない。
 しかし、気になって暫くじ〜〜っと観察していても、相変わらず呼吸の様子は窺えず、本物の人形を見ているかの様な気分にさせられた桜乃は徐々に不安が強くなっていった。
(い、い…生きてるよ、ね…まさか…)
 滅多に見ないが、若い子の突然死というニュースも稀に見ることがある。
 この健康そのものの相手がそんな悲劇に陥っている筈はないだろうと思いつつも、桜乃はどうしても心配になって再び彼へと寄って行った。
(…やっぱり、静か…凄く気になる〜〜)
 目が見えないと更に不安は募ってゆき、桜乃はいよいよ相手のすぐ傍まで近づくと、そろっとそこに膝をついて覗き込む。
「――――――――」
 相変わらず向こうは彫像の様に動かない。
(…き、気付かれないようにこっそりと…)
 ここまで近づいても起きないって事は、相当深く眠っているということだろうし…と思いつつ、桜乃はそろ〜っと右耳を相手の胸にシャツ越しに軽く触れさせた。
 温かい…微かだけど、心音も聞こえる…



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