(あ、良かった…)
確認出来て安堵したが、よく考えたら当然の話でもある。
改めて自分の今の状態を自覚し、下から不思議そうに見上げてくる子猫の視線にも気付いた少女は急に恥ずかしくなり、相手から離れようとした…ところで、
「…?」
ふっと、柳生の瞳が眼鏡の向こうで見開かれた。
今、何か…身体に触れた…?
まだぼんやりとしている視界のままで瞳を動かすと、胸元に一人のおさげの少女が見える。
「……」
いつもの紳士然としている柳生なら、その瞬間大いに驚き、姿勢を正して、相手の意図を問うところだったのだが、何を思ったのか、彼は身じろぎもせずにゆうるりと抑揚のない台詞を桜乃に投げかけていた。
「…淋しく、なったのですか?」
「え…?」
まだ眠気を含む男の声が聞こえて桜乃が驚き、顔を上げると、その時には柳生の両腕は桜乃の身体を優しく包んでいた。
「いいですよ…こちらにいらっしゃい」
「え、え…!?」
全く話らしい話もなく、当然脈絡もないまま、桜乃は一方的に相手に抱擁され、動けなくなってしまう。
これは明らかに…向こうが寝惚けていると見た!
一体どんなシチュエーションが相手の頭の中で展開されているのかは分からないけど。
「ちょ…柳生、せんぱ…い?」
別に淋しくなったとかそういう訳じゃなくて…単に心配になっただけなんですけど…
しかしまさか『死んでいるかと思いました』と説明する訳にもいかず、桜乃はどうしようかと心の中で慌てた。
(ど、ど、ど…どうしよう! 声かけて起こすべきかしら…でも…)
おどおどと相手を見上げると、彼は既に再びの眠りに落ちてしまっているらしい。
遠くからでは確認出来なかった微かな寝息が、今は自分の頬をくすぐっている。
身体を抱き締めている両腕は、眠りの中にあっても解けない程強く、しかし心地良い。
(うっ…なんか、誘惑に負けてしまいそう…)
乙女が悩んでいる間にも、相手の柳生は今の体勢が気に入ったのか、ぎゅう、と相変わらず彼女の身体を拘束している。
照れと恥ずかしさに真っ赤になりながら、これは単に寝惚けているだけ、きっと相手は抱き枕を抱いているのと同じ感覚、と必死に自分に言い聞かせていた桜乃だったが、そこで彼女の耳に、若者の小さな寝言が聞こえた。
「…・桜乃…さん」
そして寝言だけではなく、柳生が、すり…と桜乃の頬に自分のそれを摺り寄せてきた。
「は、はひ…っ!?」
もしかして、起きた…!?
緊張と驚きで引きつった小さな返事しか返せなかった桜乃は、どきどきと胸を高鳴らせながら相手の反応を待った…が、結局、向こうは十秒待っても何も語らず仕舞。
夢の中での言葉だったのだとしたら、一体、どんな夢を見ているのか…
ほっとしていいのか悪いのか分からないまま、軽く桜乃は息を吐きだした。
(……あれ? そう言えば…)
吐いた息を吸おうとしたところで思い出す。
柳生先輩…いつもは私のことは、竜崎さんって呼んでるけど…
(え…でも今…名前…確かに…)
それって…もしかして、先輩…?
「〜〜〜〜〜〜!!!」
自惚れすぎじゃないかと思いはしたが、自分が導きだした答えに桜乃が顔から湯気を出しそうな程に赤面している様子を、子猫が首を傾げて見ていたところで…
がさっ…
「っ…!」
茂みを抜け、こちらに近づいてくる誰かの足音と気配に、桜乃がはっとそちらを振り返る。
こんな現場を見られたら、先輩に濡れ衣が掛かってしまうかも!
しかし、桜乃がどう取り繕ったとしても、もう新たにその場を訪れた侵入者に真実を隠す事は出来なかった。
「あ…」
「…んー?」
結局…
柳生が午睡からようやく目を覚ましたのは、午後の授業が始まる前の予鈴が鳴り響いた時だった。
「…………」
「…………」
今、柳生と桜乃は互いに芝生に座り、向かい合わせになって互いを見詰めている。
若者の顔面は、眼鏡があってもすぐに蒼白であると知れ、対する少女は相変わらず頬を朱に染めていた。
「あ…あの…竜崎、さん…っ」
「…はい」
明らかに紳士の声が強張り、震えている。
これが夢であるならば、すぐに覚めてくれ!と言わんばかりの狼狽振りで、彼は震える左手を眼鏡に触れさせた。
「わっ…私は…まさか、貴女に何か…したんですか…?」
「……えーと」
何処をどう話したら、一番ショックが少なくなるだろう…と桜乃は悩んだ。
別に、何もされてはいない…いかがわしい事は、何も。
只、近づいたら抱き締められて、名前を呼ばれただけだ。
しかし…その真実を語っても、向こうにとっては耐え難い失態だろう。
紳士は常に隙を見せず、凛としていなければならない…その持戒を思い切り破ってしまった様なものなのだから。
「いえあの……別に何も…はい」
「ではどうして貴女が私の腕の中にいたんです…!」
上手く誤魔化そうとしても、その問題の瞬間を当人がばっちりと記憶しているから、或る意味無駄な足掻きである。
なぁなぁで済ますことが出来ない実直な性格だからこそ、厄介な事もあるのだ。
「あ〜…お休み中の先輩を見つけて…あ、そうだ! 猫ちゃんがいたんですよ」
「猫…?」
仕方なく問題の時のコトを話そうとした桜乃は、丁度、思い出した事実を使って、話の転換を図った。
「柳生先輩の足元に小さな猫がいたから、つい必要以上に寄ってしまって……その、先輩も、枕か何かだと思って私に縋りついちゃったんじゃないですか?」
「…枕?」
「はい」
「……」
上手くかわされた様な気もするが…と、柳生はまだ自責の念に押し潰されそうな心を必死に支えつつ、記憶を辿った。
枕…ということで、相手は納得しているのだろうか…本当に…
確か自分が見た夢の中では、完全に相手を恋人扱いして、名前で呼んで、甘えてくる彼女を抱きしめて可愛がって……それ以上は言葉に出せない程にべったべただった様な…
もしあんな光景に似た真似を現実の彼女にしてしまったという事になれば、自分はきっちりと責任を取らなければならないのだが…
(まぁ、それはそれで好都合…………って、何を考えているんですか私はっ!!)
良い訳ないでしょう!と自身に突っ込みを入れていたところで、話を逸らそうと桜乃が苦笑いを浮かべながら彼に問い掛けた。
「あの猫ちゃん、先輩に凄く懐いてたみたいでしたよ? もうどっかに行っちゃいましたけど…餌とかあげてたんですか?」
「ああ…猫…ですか…」
話を振られ、柳生は狼狽を必死に隠しながら答えた。
「ええ…たまにね…最初は仁王君がやりだしたことですが」
「仁王先輩が?」
「はい…親猫からはぐれたらしい子猫に、彼が餌付けを始めたんです。私と彼はたまに入れ替わる事がありますから、そういう時は私が餌をあげているんですよ。最近は、ようやく私にも懐いてきた様で…」
「ああ……だから仁王先輩が」
「………だから?」
「っ…!」
何気ない少女の台詞を繰り返すと、向こうがはた、と口元に手を当てた。
明らかに『しまった!』というジェスチャー。
そこに自身の相棒が関わっているらしいという時点で、既に柳生の心中には嫌な予感がこれでもかと渦巻きつつあった。
「…何で、『だから』なんですか…竜崎さん…」
「え、えーっとぉ…」
何とか誤魔化すか、向こうが諦めるかしてくれないかな…と淡い期待を抱いた桜乃だったが、残念ながら彼女自身も柳生を騙しきる甲斐性などなく、向こうも見逃してくれる気はなさそうだ。
早々にそう悟った少女は、仕方なく肩を落として白状した。
「あのですねぇ…柳生先輩がお昼寝中に…その、私を抱いてたところに…仁王先輩が来まして……多分、猫ちゃんの様子を見に来たんだと思いますけど…」
「!!!」
あの極悪詐欺師に見られた!?
柳生にとっては死刑宣告にも等しい告白だったが、更にそれだけでは終わらなかった。
「仁王先輩は『バラさない』って言ってくれたんですけど……記念だって言って写メとっていきました…」
桜乃の脳裏に、その時の物凄く楽しそうに笑う仁王の姿が浮かんだが、その情景を柳生に説明する暇はなかった。
「仁王くーんっ!! そのデータ、今すぐ私の目の前で消去しなさいっ!!!!!!」
あの危険人物にそんなネタを掴まれたら、どんな取引(?)に使われるか分かったものではない! すぐにでも回収しなければ!!
既にその場にいない相棒に叫びながら、紳士猛ダッシュ。
向こうもおそらくは彼の行動を見越して、既に何処かにトンズラこいているだろうが、果たして軍配はどちらに上がるか…
「……」
結果の予想がつかない鬼ごっこの開始に居合わせた桜乃は、ただ無言で紳士の疾走を見送るしかなかったが、やがてぽ、と赤くなった頬に手を当ててこっそりと思うことがあった。
(…に、仁王先輩に焼き増しお願いしたら…柳生先輩、怒るかしら…?)
ちょっと…と言うか、物凄く見てみたいんだけど…あの時の自分達を。
(……仁王先輩が逃げ切ったら、お願いしてみよ)
そして結果がどうなったかは、仁王と桜乃以外、知る者はいない…
了
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