言葉の海に
言葉の海に溺れたい
そう思っていた時があった
いや、今もそう思っている
無味無臭のただ連綿と書き綴られた言葉達は
記した者の暗く深い心の奥から生まれた大海
優しく、強く、眩く、昏い
寄せては返すその波に呑まれたら
その深淵で密やかに育まれた、真珠のような真理は見えるのだろうか
見てみたい 触れてみたい
溺れてもいいから…
某図書館
或る日、桜乃は珍しくその場所に足を運んでいた。
学校の課題で提示された、推薦図書の感想文の作成のためだ。
学校にも無論、図書室という場所は存在するのだが、少し出遅れた所為でほぼ全ての推薦図書が棚から消えてしまったのだった。
他の推薦図書で若干残っていたのもあったのだが、どうにも手にとっても読む気が起きず、仕方なく、今回はここで借り出しを行うことにしたのである。
(まぁ、確かに残ってるもので書くのもありなんだけど…)
そうしちゃいなよ、という友人達もいたのだが、やはりどうせ読むのなら自分が読みたいと思ったものの方が良い。
別に期日がそんなに迫っている訳でもないのだし、たまには読書に勤しむのも学生としては有りだろう…感想文は、あまり得意な方ではないのだが。
(それにしても…)
入館して、一階のフロアに入った桜乃がぐるりと辺りを見回し、はぁ、と息を吐く。
(相変わらず、ひろ〜〜〜い…迷子になれそうなくらい)
桜乃にとっては致命的なことであるが、確かにこの図書館は敷地が広く蔵書数もかなりのもので、設備も整っており、読書家には非常に有り難い聖地だった。
並ぶ本棚はきちんと整頓され、アルファベットでジャンルなどを細かく区分けされているのだが、それでもその数は尋常ではなく、初心者が求めている本に行き着くまでは結構な時間がかかるのだ。
(どうしよう…ちょっと司書さんに聞いてみようかなぁ)
少なくとも、自分よりは早く目的の本の場所を示してくれる筈だ…と、受付の場所へと一旦引き返した桜乃は、先客がそこに立っているのを見た。
艶やかな黒髪を持つ男性の後姿を見て、桜乃はそのまま彼の背後に立つ。
驚いたことには、彼は二十は下らない数の書籍を前のテーブルに積み上げ、司書の応対を待っていた。
高い本の塔がテーブルの上に二つ組み上げられている様は、結構壮観だが、桜乃はどうしてもそこにそれだけの本が置かれている理由が分からなかった。
借りるということは有り得ない、一人の人間がこの図書館から一回に借りられる本の冊数は三冊までと決められているからだ。
その規約は、館に入ってすぐの壁にもしっかり記載された案内板にも記されている。
(どうしたんだろ…)
やはり、こういう不思議な光景を見ると他人事としても気になり、桜乃はこっそりと男の背後で聞き耳を立てた。
「お待たせしました…・あら、お久しぶりです」
「…こんにちは」
司書は、男の姿を見るとすぐに彼が常連客であると気付いて応対し、相手もまたそれが決められた日常であるかのように挨拶を返した。
(あれ…)
何となく、聞き覚えのある声だなぁ…と考えている桜乃の前で、男は軽く手を広げて、問題の本の山を司書に示した。
「これらの蔵書、中に落丁、乱丁がありました。場所は付箋を挟んであります」
(ええ――――――っ!!!)
声には出さなかったが、背後で聞いていた少女は目を剥いて心で叫んだ。
これだけの落丁・乱丁本を見つけ出すなんて、どんな人!?
もしかして、そういうのを探し出す職業の人がいるのかしら…!?
そんな彼女の前では、司書が今回が初めてではないのか、複雑な表情をして相手の男性に礼を言った。
「…いつも有難うございます、柳さん」
「いいえ、ついでのことですから」
「柳さん!?」
ついうっかり相手の名前を声に出してしまい、桜乃は前の二人から注目される結果になってしまった。
「え?」
「…お前は…竜崎か」
「す、すみません、ついうっかり…」
口に手を当てて謝る少女に、柳は驚く素振りも無くいつもの様に、開かれているのかすら定かでない瞳を向けて、落ち着いた声で答えた。
「構わない、気を悪くしてはいない。お前もここに来ていたのか」
「は、はい…本の場所が分からなくて、ここで聞こうと思って」
「ほう…何の本だ?」
桜乃の話に興味を持ったらしい柳が、本について尋ね、少女は問われるままに題名を書き記した紙を彼に見せた。
「これなんですけど…」
題名を見た柳は一秒と待たずに頷くと、桜乃に僅かに微笑を見せて言った。
「それならば、上のフロアのJの棚の上一段目に置いてあるはずだ。誰にも借りられていなければの話だが」
「え…?」
「…お前には少々取り辛い場所にある…よければ案内するが、どうする?」
自分の中ではまだ信じられない部分があったが、相手のこの様子では、間違いない事なのだろう…桜乃はそれを漠然と知った。
「いいんですか?」
「ああ、そんなに時間もかからない。行こうか」
「はい」
そして、柳は司書に軽く会釈をした後、桜乃を後ろに連れて上層のフロアに続く階段へと向かい、ゆっくりと登っていった。
登り終わった先にも、下のフロアとさしてデザイン的には変わらない概観が広がっていたが、柳は迷う素振りも無く、前に広がる本棚の波の間を悠々と抜けていく。
後ろに続く桜乃は、ひたすらに柳を追いかけるだけで良かったのだが、その彼女の方が却って辺りをせわしなく見回したり、落ち着かない様子だった。
(本当に覚えているんだ…凄いなぁ)
とんっ
横を向いて考えている間に前の柳が立ち止まり、桜乃は彼の背中にぶつかってしまう。
「わぷ…す、すみません」
「あそこだ」
彼女の謝罪は聞こえていないのか、柳はくん、と顎を上げて右側にあった棚の一番上の段を示しながら、その片手を伸ばすと、並んでいた本の一冊を手に取った。
背表紙に記載された名前は、桜乃が書き記していたそれと見事に一致している。
「これで間違いないか?」
「は、はい、これです。すみません、手伝ってもらって…」
「いや、この程度のことなら礼には及ばない…その本は読んだことがある」
「あ、そうなんですか…私は今回が初めてです、これを感想文の題材にしようと思って」
「そうか、ならば詳しくは語らない方がいいな」
「そうですね…ところで柳さんはこちらには何か探しに?」
「いや、今日は時間があったので、新しく入った本で面白いのはないかと来ただけだ。ここは心を落ち着けて本を読むには良い場所だ、中庭の眺めもいいしな」
「ああ…そうですね」
中庭が見える窓を一瞥した柳は、それからもう一度桜乃を見下ろすと、彼女に断った。
「では俺は新しい本を見てこよう」
「有難うございました、柳さん…」
そこで終わろうとしていた会話に、遠慮がちに割り入った者がいた。
「すみませんが…」
「?」
桜乃がそちらに目を向けると、初老の男性が柳に向かって話しかけてきていた。
知り合いなのかと思ったが、何となく声の掛け方はかしこまった感じがする。
「はい」
柳は、全く動じることもなく、それが当たり前だというように今度はその男性と向き合った。
「年金についての簡単な本を探しているんですが、良いのはありませんか?」
「でしたら、この階のBの棚の中央にまとめて置かれている筈です」
「そうですか、有難う」
「いいえ」
「………」
ほんの数秒で二人の会話は終了し、男性が柳に示された棚の方へと歩いていくのを、桜乃は呆然と見つめていた。
「…ではな」
歩き去っていく柳を見送った桜乃の前で、それから彼は幾度も図書館の使用者達に声を掛けられ続けていた。
「すみません、園芸の本なんですけど…」
「戦争について調べろって言われたんだ」
「化学者の歴史について…」
「料理の……」
あらゆる分野の本の場所について問われ、その度に柳はすらすらと的確な場所を示してゆく。
まるでこの図書館そのものが、彼という人の形に成り代わって教えているかの様だった。
どうやら、この図書館の中では、彼はちょっとした有名人のようだ。
(すご――――――いっ!)
桜乃が単純に感動して、柳の背中をずっと見送っていることは彼は全く気付いておらず、その大きな背中はあくまで飄々としていた。
一通りの市民の要求に答えた後、柳はようやく落ち着いて窓際の席の一つを確保し、そこでゆっくりと流れる時の中で読書に耽っていた。
常人の数倍は速い速度で、次々と頁が捲られてゆく。
しかし柳は決して飛ばして読んでいる訳ではなく、読解能力が非常に高いのだ。
加えて生来、記憶力と理解力にも優れており、読書という行為は彼にとっては心を落ち着かせ、集中力を高め、望む知識を得るためにうってつけのものだった。
「…ふむ」
既にここに来て三冊を読み終わったところで、一度柳は本を閉じ、顔を上げた。
さして疲れた訳ではないが暫く文字ばかりを見ていたので、少し遠くのものを見ようと、彼は窓越しに中庭を見渡した。
今日は外も良い天気で、中庭にも程よい日光が差し込み、美しい景色を創り出している。
暖かな景色は、それだけで人の心を和ませる。
柳も同じく、中庭の穏やかな自然の様子を眺め、微かに息を吐いて微笑む…ところで、その視線が一つの処に固定された。
ここは中庭に出られる扉があり、利用者が一息入れることが出来るのだが、今の時間帯は一人を除いては誰もいなかった…そう、一人だけ。
(あれは…)
柳の細い瞳が捉えたのは、中庭の一本の木の根元に座り込んでいる少女の姿だった。
そして自分は今日、彼女ともう会っている……
(む…竜崎…?)
視線を止めたのは、どうにも様子がおかしかったからだ。
自然を愛でて、吹く風の香りを楽しんでいるという雰囲気ではない。
顔を伏せ、膝を抱え、肩を震わせている娘の姿は、何かに耐えている…或いは苦しんでいるような印象を受け、流石にそのまま放置するのは心理的に憚られた。
(何があったというのだ……おかしい、別れた時は何も異常は感じなかったのに)
幾度反芻しても、桜乃があんな姿を晒す理由に繋がる因子が思いつかず、柳は分からないからこその不安定な感情を抱く。
何が原因か分からないからこそ不安にもなるのだ、ならば、それについては本人に尋ねるのが一番確実である。
それに苦痛で動けないでいるというのなら、尚更こちらから接触を図らなければならないだろう。
そう決めた柳は即座に行動を起こし、立ち上がって中庭へ通じる扉を抜けると、足早に木の根元にじっと蹲っている少女の傍まで近づいた。
風はあるが穏やかで、微かに感じられる程度…暑いとも寒いとも言えない、丁度良い気候だ。
しかし、木の葉は先がひそりと色を変えているものも見られ、もうすぐ秋が深まることを教えてくれていた。
「……竜崎?」
「あ……っ」
呼ばれ、反射的に顔を上げた竜崎の瞳が真っ赤に腫れている。
そして、そこから溢れる涙が頬を濡らしており、それはまだ止まることもなく、ぽろぽろと雫が溢れ続けていた。
「や、柳さん…」
「どうした? 何処か、身体が…?」
座り込んでいる少女と視線を合わせるように、柳もまた木の根元に片膝をついてそっと相手の方へと身体を傾けたが、少女はぶんぶんと手と首を横に振り、そして手で自分の顔を覆い隠した。
「いっ、いえ、何でもないんです! あ〜、もうやだ…柳さんにこんなところ見られちゃって…」
泣き顔を見られまいと手で顔を隠す桜乃は、苦笑いしながら瞳を伏せるが、確かにその口調からは苦痛の表情は認められず、どうやら身体の不調や疼痛が原因という訳ではなさそうだ。
「…何処か、痛む訳ではないのだな?」
「はい…あは、ちょっと…痛んでるのは…心、かな」
「心…?」
首を傾げる柳の前で、ぐい、と涙を拭った桜乃がようやく手を下ろして顔を晒した。
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