涙は止まっているが、今まで泣いていたという証はまだ顔に残っている…しかし、見られた以上はもう彼に隠しても仕方がないし、いつまでも隠すことも相手に対し失礼だ。
 赤い瞳を男に向けて、桜乃はいつもの笑顔を見せた。
「…ちょっと、あの本を読んでいたら悲しくなって…主人公が、あんまり酷い目に遭うから…私、いつもこうなんですよ。本の中の話なのに、すぐに感情が高ぶってしまって…」
「………」
「子供っぽいでしょ? あ〜…やっぱり家で読んだ方が良かったかな…恥ずかしい」
 ぐしぐしと涙を拭く桜乃を、柳は少し安心したものの依然不安げに見つめていた…が、やがて身体を少し動かすと、そのまますとんと少女の隣に同じように座り込んだ。
「…柳…さん?」
「…その本は、俺も読んだことがある…その国に現実にあった事変の中にあって、運命を翻弄された男の話だった」
「…はい」
 桜乃ではなく、自身の前を見据えながら語る柳の瞳が、どんな表情をしているのかは窺い知ることは出来ない。
「俺がその本を読んでいる間に考えたのは、その国の歴史や政治情勢、そしてその長所と短所、今の国との相違、俺達が住むこの国がどうその教訓を生かすべきなのか…そういう事だった」
「…すごいです、私なんか、とてもそんな所までは考えられない…主人公の人の人生だけを見るのに、手一杯ですよ…こうやって、落ち着いて読むことも出来ないんですから」
 すごいなぁ…とため息をつく桜乃の隣で、柳は顔を相手に向けると、彼女を真っ直ぐに見下ろして言った。
「竜崎…・俺はお前が羨ましい」
「え…っ?」
 本を読んでもらい泣きをしてしまった相手を決して笑うことなく、柳は真摯な態度で桜乃を見つめながら続ける。
「そうやって、本の中の誰かの人生を真っ直ぐに見据え、ただ思うままに感じ、涙さえ流せる…それは、本を記した著者の心の奥深く入り込める…純粋な者にだけしか出来ないことだと思う」
「そ…そんなことないです。単に、子供っぽいだけですよ」
 慌てて柳にそう言う桜乃の頬が、涙だけではない理由で赤く染まってゆく。
「俺も、その主人公の悲劇と呼ぶに値する人生は知っている…だが、それだけだった。史実に基づいたこの本から俺が彼に感じたのは『彼と同じ人生を辿った者が、この時代は他にも数多く存在したのだろう』という事だけだった。彼個人に感じたことは…何も覚えていない」
「…柳…さん?」
 きょとんとする少女に、柳は微かに微笑んだ、が、そこには言い知れぬ苦悩も滲んでいるように見えた。
「俺は自惚れていいのなら、少なくともお前よりは数多くの書物を読んできた。お前だけでなく、他の同世代の人間と比べてもそう負けてはいないつもりだ。貞治の様な奴らばかりでないのなら、な。だが、かつてお前のように、そうやって本の中に何かを感じ、感情を露にした記憶が、俺には無い」
「……」
「その本を読みどう活かすかは読んだ人間次第だ。数多の、それこそ大海の波の数ほどもある本のどれにも、何処にも、模範解答というものは存在せず、その何れもが正しいのだろう。俺もこれまで読んできた本は、何らかの形で俺の人格形成、人生の道標として活かして来た…正しい事だったと信じている、しかし…」
 最後の言葉を小さな声で呟いた柳は、言葉とは裏腹に、自分に自信を失くしてしまった別の誰かの様にすら見えた…いつもの揺ぎ無い自信と共にある彼とは思えない程に。
「時には…お前のように、本を読めたら…と思う」
 自分のように、砂浜を歩き、書の大海の全てを見渡し、波を読み、最も安全で合理的な航路を取る航海ではなく、ただ愚直なまでに海へ焦がれ、その身を投じ、波に任せて流され、深く深く潜ってゆく…
 愚かに見えても、そうした者だけに見ることが出来る世界…そこはどんなものだろう?
「…柳さん…」
「…ああ、すまない。途中からは俺の愚痴になってしまったな」
 何故、ここまで話してしまったのだろう…と自分でも不思議に思いながら、柳はす…と己の指先で、桜乃の頬に残っていた涙を拭いてやった。
「竜崎、本を読んで感情を揺らすことは恥じることではない。隠すこともない、少なくとも俺の前ではな。本の中の架空の人物であれ、その者の為に流せる涙は俺はとても尊いものだと思う…」
「……ふふ」
「…!?」
 不意に、笑い声を聞いた柳が相手を見てぎょっとする。
 一度は止んだ涙が、また少女の瞳から流れ出していた。
「り…竜崎…?」
「あ…大丈夫、です…これは…嬉しかったから、ですから」
「…嬉しい?」
「はい…柳さんの言葉が、嬉しかったし…柳さんの指が、優しかったから…」
「俺の…?」
 落ち着いた素振りであっても、柳にとってはやはり予想出来なかった展開だったのか、その口調に僅かに動揺が見え隠れする。
 しかし、それが桜乃に悟られていたのかどうかは、分からなかった。
「…それぞれの海を持つ本が、その人の人格を作るって言うのなら…きっと柳さんも、海なんですね」
「…え?」
「すごく広くて、大きくて…・凪いだ、優しい海…私にとって、柳さんはそんなイメージです」
「…俺が?」
 海…?
 言葉を継げない柳は、ただ、桜乃が紡ぐ言葉だけを聞いていた。
「柳さん、私みたいに本を読みたいって言ってますけど…私は、今の柳さんのままでいいと思いますよ。だって、これまでの柳さんの読んできた本の一つ一つが今の柳さんを創り上げてきたなら、もし違う読み方だったら、違う柳さんだったかも…こうやって、私のことを心配してここに来てくれたかも分からないし、こうやって優しく慰めてくれたり、涙を拭いてくれたり…それも無かったかもしれない…なら、私は今の柳さんがいいです、他の誰かになっていたかもしれない柳さんより」
「……」
「あ、勿論、元々の性格もあるし、本だけじゃなくて色んな人と会うことでも人って成長していきますけど…そう考えたら本だけじゃなくて、私は、今の柳さんを創ってくれた人達にも感謝しますよ? あー…やっぱり上手く言えないなぁ…」
「…竜崎…」
「え?」

 とん…

 柳の頭が、軽く、桜乃の肩に乗せられる。
 何かを切に願う巡礼者のように…顔を相手の肩に埋め、柳は深く息を吐き出した。
「や…柳さん…?」
「……分からない…データが…あまりにも不足している」
「え?」
「…今…俺が何を考えているのか…何を感じているのか…感情が、渦巻いて…どうしたら、いいのか……」
 これが、心が揺れるということ…?
 お前が、本を読んで感じている、心の揺らぎ…?
 だとしたら、何て激しいものだろう…何て…嬉しいものだろう…
 嗚呼、俺はやはり、こんな感情を抱いたことはなかった…こんな忘れえぬ感情を。
 だが、それを感じたのは、書物ではなく…記された言葉ではなく…
「…お前も」
「え?」
「…お前も、海だ…」
 少女の小さな肩に顔を埋めたまま、柳はひそりと囁いた。
 お前の口から生まれる言葉の波は、なんて静かで、心に染み入るのだろう…まるで海だ。
「…綺麗な…海が、見える…・昏い深淵ばかりを探していた俺の目には…眩しいくらいだ…」
「…柳、さん…?」
「……すまないな、お前を心配して来たはずが…だが、もう少しだけ…このままでいさせてくれないか…?」
「…? はい…いいですよ」
 柳に肩を貸しながら、桜乃はどきどきと激しくなる動悸を必死に抑えようとする。
 何故なら、己の顔のすぐ傍に、柳の秀麗な顔があるからだ。
 美しく整った顔が、穏やかな夢を見ているように笑っている…滅多に見ない柳の表情が、自分のすぐ傍にある…動悸の一つも覚えて当然だろう。
 まるで、静かな海を眺める砂浜にいるような…そんなひと時が緩やかに流れていった…


 図書館・玄関口
 中庭から屋内に戻った二人は、それから長居することなく、そのまま帰宅することになった。
 特に理由はない。
 ただ、それからまたすぐに本の中の世界に入る…二人ともそんな気分ではなかったのだ。
「今日はすまなかったな…お前の読書の時間を大幅に潰してしまった…」
「いいえ…私は、柳さんとお話出来て嬉しかったです。こちらこそ、ご心配をかけてしまって…」
「いや…俺も…」
「え?」
「…いや、何でもない」
 何かを言いかけて、結局止めた男は、それから相手が図書館から借り出して脇に抱えていた本へと視線を移した。
「借りて帰るのか…」
「はい…結局、読みきれなかったし…来週の期日までに読んで、宿題を仕上げないと」
「……」
「…柳さん?」
 黙り込んだ男に少女が声をかけると、相手はすぐにそれに答える形で彼女に向き直った。
「…その本…」
「はい?」
「…全てを語ることは出来ないが、やはり無情な話であることは否めない…お前は…その…お前なら、おそらく…また、泣くのだろうな…」
「あ…」
「何を読むか、という自由は誰にでもあるが…もし読むのであれば、学校などではあまり勧めない」
「は、はい…そうですね……家で一人で読むことにします」
 柳の忠告を素直に聞いた桜乃は、こくんと頷き、それを確認した男は一安心したような表情を覗かせた。
「…それでいい…お前の涙は、他の誰にも…」
「え?」
「ああ、こちらの話だ…しかし本を読んで、というのならやむを得ないが、お前が泣くというのは、なかなかに心苦しいものがあるな…」
「あは…私、泣き虫ですから、ね、確かに…」
「もし、お前が読書ではなく他に泣きたい時があったら…俺に言うといい」
「はい…?」
「…その…少しは、お前にアドバイスを与えてやれるかもしれない…それに…お前の、助けになれたら、と…思う」
「柳さん…」
 常に論理的に物事を考え、分析することに長けた『参謀』が、初めての状況に際しての行動だった。
 初めての状況…というのは誰にでも何度でも訪れる機会だが、彼自身、これまでのテニスの試合なども含めて、ここまで緊張する場面に遭遇したのは初めてだった。
 言葉を選びつつ…しかし、少女の不快にならないように…
「…有難うございます…優しいんですね、柳さん」
 その男の努力は、少女の笑顔によって完全に報われた。
「いや…」
「…今日は、色々と有難うございました」
「ああ…また、な」
 こちらに頭を下げて礼を述べた桜乃が、ゆっくりと背を向けて去ってゆく。
 自分の見つけた海が…去ってゆく…
「…・竜崎…桜乃」
 存在をもう一度己の心に刻み込むように、柳は相手の名前を呟くと、ふ…と瞳を開いて相手の背中を見つめた。
 とても小さな背中…そして、自分にとっての大海…優しい言葉の波が、寄せては返す…
「…お前になら、俺は」
 乾いた心を浸すことが出来るかもしれない…
「…溺れてもいい」
 お前という海の中で、溺れても、心を満たせるかもしれない…

 求めていた『真理』を…見つけられるかもしれない…






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