繋ぐ香り
「柳―、本を返しに来た」
「む? ジャッカルか」
或る日の昼休み、自分の習慣に従い図書室にいた柳に、ジャッカルが一冊の本を抱えて声をかける。
手にした本はどうやら図書室の蔵書ではなく、柳個人のものらしい。
昼休みは、大した用事がない限りはここにいることが多い柳なので、然程労力を使うこともなく会うことが可能であり、それはテニス部員には周知の事実だった。
「うむ、確かに」
多少背表紙に小さな傷はあるものの、全体の保管状態は良好であるそれを、柳は片手で受け取って頷いた。
「やっぱりここにいたか、すまないな、返すのが遅くなっちまって」
「構わない。これならもう何度も繰り返し読んでいるから、大まかな内容は覚えている」
「相変わらず大したもんだな。俺なんかレポート書く時ぐらいでないと読む気になれないぜ…っと、それと、これだ」
「うん?」
思い出した様に、ジャッカルが胸ポケットから取り出したのは、古びた羊皮紙で出来た一枚の栞だった。
「…ああ、それは」
覚えがあるのか、栞に視線を向けた柳がそれだけ言って、対するジャッカルはすまないと謝りながら頭を掻いた。
「うっかり本を開いた時にそれが落ちてしまって、何処に挟んでいたのか分からなくなっちまったんだ。すまなかったなぁ、俺の不注意だ」
「いや、それも覚えているから特に問題無い。俺の癖でな、気になる場所には栞を挟む。お陰で、結構な量の栞を所持している」
「…覚えているなら必要無いんじゃないのか?」
「万が一ということもある、まぁ、保険のようなものだ。それに、栞を借りては失くす人間もいるし、持っているのに越したことはない」
「へぇ…因みにその栞を失くす奴って…」
「柳先輩みーっけ!! 本、有難うございましたー! 栞、失くしましたー!!」
「……」
タイミング良く図書室に入りながら元気な大声でこちらに声を掛けたのは、ジャッカルの予想通り、自分達の部活の後輩だった…
「…あそこまであからさまだと、最早、怒る気力も削がれる」
「…だな」
「かと言って、わざわざ栞に発信機を付ける訳にもいかないし」
「…そうだな」
「いっそ毒液に浸したヤツを渡してやろうかとも思ったが…」
「…アシがつくから止めとけ」
「まぁ、昔から使っているものが豊富にあるから、別に失くされてもどうということはない」
「ふーん…」
最後になると真面目に返答するのも馬鹿馬鹿しくなり、ジャッカルはそそくさと退散するべく、数歩歩いた…ところでくん、と鼻を鳴らす。
そして思い出した様に笑った。
「ああ、この香りはお前のか。どうも部活の時にはしないもんだから、あまり慣れないな」
「ふむ…不快か?」
「いや、良い香りだと思う、ただ気が付いただけだ、じゃあな」
「うむ」
そしてジャッカルと入れ替わりに歩いてきた後輩に、柳は仕方がない奴だと言いながらも、特に感情を揺らすこともなく、静かにそちらへと向き直った。
放課後
部活動を終えた柳は、その日、借りていた本を返すために、図書館へと足を向けていた。
もう少し早めに返却するつもりだったのだが、つい何度も読み返すなどして、結局今日の期限まで手元に置いてしまったのだ。
もっと自分の中学にも蔵書が増えたらいいのだが、と何度思ったか知れない…が、もし柳が望むままに蔵書が増えたら、おそらく一年と経たない内に、必要スペースは二倍以上に跳ね上がってしまうだろう。
夕方にもなると中は閑散とし、人の気配が少ない分、しんとした空気が耳に心地よく突き刺さる。
柳は、この時間になるとなるべくこの場で本は開かないようにしている。
もし下手に開いて読みふけってしまうと、閉館時間まで居座ることになり、帰宅の時間が大幅に遅れてしまう為だった。
(今日は、返却だけですぐに帰ろう…)
そう思って本を返却口に戻し、さて帰ろうと踵を返しかけた時、その柳の動きがぴたりと止まった。
「……」
すぐに帰ろうと決めていたにも関わらず、彼の足はそのまま図書館の奥へと向かってゆく。
本は読まないとしても、彼にとって素通りできない存在がそこにいたからだ。
「…竜崎?」
「え? あ、柳さん」
呼ばれ振り向いたのは、腰まであるおさげを持つ幼さを残した少女、竜崎桜乃だ。
青学の学生であり、自分と同じくテニスの魔力に取り付かれた点では仲間でもある彼女は、学校こそ違えど、自分達立海大附属中のテニス部メンバーとも非常に仲が良い。
今はもう、殆ど妹分の様なものだ。
「こんばんは」
「こんな時間にお前がいるとは思わなかった…どうした?」
「今日までに返さないといけない本があったので…」
「ほう…俺と同じだな」
「え? 柳さんもですか?」
「ああ」
何気ない会話だったが、その中で柳は自分の身体からほっと力が抜けるのを感じていた。
脱力ではなく、無駄な力が抜けてリラックスしているという感じに近い。
それはおそらく、彼女の笑顔の為だ。
飾り気のない素朴な笑顔が、張り詰めていた精神の糸を少しだけ緩めてくれているのだろう。
ささやかな事ではあるが、柳はそれが非常に気に入っていた。
「…あら?」
不意に、桜乃がきょろっと辺りを見回す。
「どうした?」
「えと…今、何となく…」
柳の問いに、言葉を切りながら桜乃は答え、くん、と鼻を数回鳴らした。
「…凄く良い香りがしたんです…ほんの一瞬だけですけど」
「香り?…ああ…もしかしたら」
昼間のジャッカルの言葉を連想しながら、柳はごそ…と胸ポケットを探ると、一つの鮮やかな色の玉を取り出した。
いや、よく見るとそれは玉ではなく、紅と金と銀の糸で編まれた和製の小袋だ。
「これかな? お前が感じた香りは…」
「え?」
差し出された袋に、桜乃は恐る恐る顔を近づけてくんと匂いを嗅ぎ、ぱっと晴れやかな笑顔に変わった。
「はい、これです! 匂い袋ですね?」
「ああ…何となく香りを纏っていると、心が落ち着く気がするのでな…こうして身に着けている」
「いいですね、…仄かに香って、全然きつくないし…」
香りを楽しもうと、瞳を閉じて桜乃が袋に顔を近づける。
まるで夢を見ているようにうっとりと微笑む桜乃の表情が、夕闇の中差し込む微かな明りに照らされた。
それは何処か危うい儚さを醸し出し、間近で見た柳の動揺が腕に伝わって匂い袋が微かに揺れる。
「…お香とかよく分かりませんけど、凄く上品な香りですね…柳さんのイメージにぴったりです」
「あ…ああ…有難う」
まだ動揺が残っていたが、柳は何とかそれを押し隠し、瞳を開いた桜乃と改めて対峙する。
「昼間にジャッカルにも指摘された…あまり気になるなら、少し香りを抑えてみた方がいいだろうか…?」
「そんな必要はありませんよ」
不安げに言う柳に、桜乃はいつもと同じ偽りの無い笑顔で答えると、ぴ、と自分の鼻を指差した。
「私、結構鼻は利く方ですけど、全然気になりませんでしたよ? でも、匂い袋かぁ…」
「ん…?」
「あ、いえ…それもいいかなぁと」
「?」
首を傾げて疑問を示す相手に、桜乃は頬を赤く染めながらぽそっと告白する。
「いえ…テニスやっているとどうしても汗の匂いとか気になっちゃって…でも、香水とかだと却って不自然だし匂いもきつくなりそうで…」
「ああ、そうか…まぁ、俺もそれを目的に身に着けている部分もあるが」
「やっぱりそうですか…」
スポーツをやっている人間の苦労するところですよね…としみじみ桜乃が言ったが、おそらく彼女の憂慮は、年頃の女性だけに柳よりも上だろう。
「…俺も鼻が利く方だが、少なくとも、お前から不快な匂いを感じた事は一度もないぞ?」
「うーん、そうですか?」
「お前はその…別に香水などつけなくてもいいと思うが…」
「そうですか…じゃあ、香水は止めておきますね」
「ああ…」
こういう時に気の利いた言葉の一つでも掛けてやれたら良いのだが…と柳は心底思う。
ただ事実や仮説を述べるだけなら、自身の最も得意とするところだが、人とのコミュニケーションはそれだけの単純なものではない。
それに女性との会話は家族以外、あまり経験が無く、更に桜乃のように自分にとって一種特殊な立場の存在との会話は、まだまだ慣れないものだ。
今はまだ自分でぎこちないところもある、それでも少しずつ慣れていけたら…と思っている柳の陰の努力を知らないまま、桜乃は彼に微笑みかけた。
「でも、香りを覚えていたら便利ですよね」
「ん? 何でだ?」
「だって、その香りが柳さんの居場所を教えてくれますから。『あ、近くに柳さんがいる』って分かるじゃないですか……犬みたいですか?」
変なコト言っちゃいました?と桜乃が照れる。
「い…いや、そんな事は無いが…」
一方で柳は、自身の纏う香りを追って自分の後ろをちょこちょこと付いて来る桜乃の様子を想像してしまった。
非現実的な光景ではあるが、いかん、可愛いと思ってしまった…
「じゃあ、私、そろそろ帰らないと…」
「ああ…では、良ければ駅まで一緒に行かないか?」
柳の遠慮がちな申し出に、相手は嬉しそうに笑って頷いた。
「わ、いいんですか? 暗くなってきたから心強いです。有難う、柳さん」
「いや…では行こうか」
少女の信頼してくれている笑顔をその日一番の収穫とし、柳は彼女と共に図書館を後にしてゆっくりと家路を辿っていった。
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