それから時は少し過ぎて…
「今日は、おばあちゃんのおつかいですー」
「お前、殆ど竜崎先生の使いっ走りになってないか? 祖母が孫をこき使うって…まぁ、無い話じゃないけどさ」
立海の男子テニス部部室に桜乃が訪れており、二年の切原は困惑気味な表情を浮かべていた。
来てくれるのは実際嬉しいが、あまり回数多いと疲れるんじゃないか?との質問に、桜乃ははい、と手を上げる。
「実は私が立候補して来ています」
「偉いのう、本気でウチに転校して来んか?」
「青学のテニス部の奴らより、可愛がってやるぞ。テニスも教えるし〜」
仁王と丸井の勧誘にあはは、と桜乃が笑ったところで、柳も、そちらへと歩いてきた。
「竜崎、久し振りだな」
「あ、柳さん、こんにちは。そうだ、おばあちゃんがここに書かれている内容について少し聞きたいって言ってました。柳さんなら知っているだろうって…」
そう言いながら桜乃がプリントを鞄から取り出すと、柳は快くそれに対して頷いた。
「構わない…すまないが、みんなは先にコートに行ってくれ。俺もすぐに向かう」
「おう」
「じゃあな」
柳と桜乃だけが部室に残った状態で、二人は取り敢えず席に座る…と、
「?」
柳の鼻腔を、何かの香りが掠めた。
自分の持つ匂い袋の香りとはまた違う…それより少し華やかな感じの香りだ。
「? 柳さん?」
「すまない…今、何か良い香りが…」
「え?…あ、もしかして…」
相手の言葉を受けて桜乃がはっとすると、彼女はごそっと自分のポケットから手帳を取り出し、更にそこから一枚の浅黄色の栞を取り出した。
「これ…ですか?」
「栞?」
受け取った柳に、再びふわりと感じる香り…確かに先程のものだ。
よく見ると、栞は和紙で作られた小さな薄い袋状になっている。
「…香袋を栞にしているものか」
「偶然、お店で見つけたんですよ。これなら香水でもないし、手帳は普段身につけているものだから…それに手帳を開いた時に、ふわって香りがするんです。楽しいですよ」
「ほう…確かに、なかなか雅だな」
書を開いた時に、仄かに立ち昇る香りを思い、柳は薄く微笑んだ。
「あ、これ、二枚セットのお揃いだったんです。えーと…」
そう言いながら、桜乃は手帳の最後の頁に挟んでいた、ビニル袋に入っていたお揃いの栞を取り出すと、それを柳に差し出した。
「良かったら、使って下さい」
「え?…しかし、お前のだろう?」
「私はこれがありますし。柳さんにはよくお世話になってますから、もし気に入ったのなら…栞、使いませんか?」
「いや…使うが」
非常に嬉しい相手の好意を受けて柳が寧ろ戸惑っている間に、桜乃はあ、と何かに気付いて申し訳なさそうな顔をした。
「あ、すみません…お揃いは嫌でしたか?」
よく考えもせず、図に乗って失礼なことをしてしまったかも、と心配した相手が腕を引く…が、柳は思わず、その手を掴んでいた。
「いや! あ…」
「……」
掴んでしまった後に初めて自分の大胆な行動を認識し、柳は再び慌てて手を離す。
「す、すまない、つい…」
「い、いえ…」
何となく頬が赤くなっている相手に更に自身の動悸を速めながらも、男は出来るだけ冷静を装って申し出る。
「…本当に、いいのか? お揃いを俺が貰っても…」
「…はい…」
照れている様子で微かに微笑む桜乃の顔を見て、相手を不快にさせてはいない事に取り敢えずは安心し、柳は軽く息を吐き出しながら笑った。
「…では、遠慮なく貰おう。有難う、竜崎」
「はい…どうぞ」
す…と差し出された栞を受け取り、柳は先程に感じたものと同じ香りを嗅ぐ。
?…いや、違う…
先程までビニルの中で保管されていた筈の栞だが、少女の時に感じた香りとは何となく違う気がする。
香りの強弱の問題ではなく…その質が…
「? どうかしましたか?」
「いや……ん?」
ふわん……
こちらを覗きこむ桜乃から、香りが漂う。
やはり手にした栞とは少し違う、それよりも微かに甘い様な香りが……
「!!…な、何でもない」
「?」
思い至った結論に、柳が赤面しながら桜乃に首を振った。
とても口に出せるような結論ではなく、無論、相手に説明する事も出来ない。
ただ、自分の心の奥に、答えはしまっておくしかないだろう…
「大丈夫ですか? 柳さん、顔が赤いですけど…」
「う、む…少し気温を高く設定しすぎたかもしれない…この説明が終わったらすぐに外に出るから、気にしなくても大丈夫だ」
「そうですか」
何とか桜乃を誤魔化すことに成功した柳は、もう一度有難うと礼を述べ、貰った栞を大事そうに自分の鞄の奥へとしまい込んだ。
その夜
自室にて机に向かって読書に勤しんでいた柳は、章を読み終えたところで視線を上げた。
掛け時計の時間を確認すると就寝の時間にも近く、彼は続きは明日以降に読むことを早々に決定すると、手元にあった栞に手を伸ばし…途中で止めた。
「……」
そう言えば、今日貰ったばかりの栞があったな、と思い出し、鞄からそれを取り出して本の頁に挟むと、あの華やかな香りがゆうらりと立ち昇った。
良い香りだ…良い香りだが……
「…いけないな、学校では使えそうもない」
口元を押さえて、柳はひそりと呟いた。
別に香りはきつくないし、図書室の本に使用するにしても、香りが抜けなくなる程に長期間使用しなければ支障はない。
ただ、一番の問題は…香りが思い出させるのだ、あの子を。
その香りを感じる度に、脳裏にあの少女の姿が浮かんで自分の心が乱されてしまう。
自室では誰も見ていないから関係ないが、公衆の場所では厄介な問題だ。
「…仕方がない、これは家でのみ使用することにしよう…赤也に借りられるワケにもいかないしな」
他の栞ならばいざしらず、もし万一この栞を失くされたら、流石の自分も冷静を保ってはいられないだろう…
こればかりは、失くす訳にはいかないものだ。
「……」
本を閉じる前に、柳は栞を見つめて薄く微笑む。
お揃いの栞…もう片方は、今、あの娘が持っているのか。
物理的には離れているのに、まるでこの栞が自分達を繋げてくれている様に思える。
微かな香りが、二人を繋いでいる。
(しかし、この香りを纏わなくても…お前の香りは甘かったが、な…)
栞を受け取った時の桜乃の笑顔を思い出し、柳は自嘲気味な笑みを浮かべながら、ぱたん…と乾いた音をたてて本を閉じた……
了
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