はじめてのお点前
「こんにちはぁ」
「おう、竜崎か、すっかりウチの馴染みの顔になったのう」
その日、久し振りに立海の男子テニス部の部活動中に、青学から桜乃が訪ねて来ていた。
青学と立海はテニス部のレベルが非常に高く、互いにライバル視しているのは周知の事実なのだが、それはあくまでも男子同士の話。
桜乃は確かに青学の一年生でテニスも嗜んではいるものの、元から男子と女子という相違があり、更に立海メンバーとの交流も深い為、彼女が来ても彼らは別に嫌な顔一つすることは無かった…いや、寧ろ例外なく歓迎ムードである。
それは偏に彼女の性格が良く、彼らの信頼を勝ち得ている為であった。
今日、立海で初めて会ったレギュラーメンバーは銀髪の仁王。
『コート上の詐欺師』という呼び名を持つ彼ですら、桜乃の前では比較的いいお兄さんの顔になる…無論、たまにからかう事はあるのだが。
あまりに純粋な相手だと、騙す方が疲れるんじゃ…というのが彼の弁。
「…あら? 今日はまだ着替えてないんですね、仁王さん」
彼を見た桜乃は、不思議そうに小首を傾げた。
いつもなら既にテニスウェアに着替えている時間なのに、確かに今の彼はまだ制服に身を包んでいた。
「んー、ちょっと今日は雑用があってな…ヤボ用で茶室に行っとったんよ。あー面倒じゃ」
「茶室?」
「おう、柳の奴が出張で点前させられとるんじゃ。その道具の準備と片付けをさせられた」
「柳さんが、お茶のお点前を?」
え?と桜乃は更に首を傾げ、過去の記憶を反芻する。
「…柳さん、茶道部にも在籍していましたっけ?」
「あーいや…アイツはテニス部だけじゃがの…何でも今日参加する奴が急に出られんようになったそうで、代理を頼まれたらしい」
「はぁ…で、仁王さんまでお手伝いだったんですか?」
「……去年、茶道部の抹茶を、内緒でカキ氷に使った事を蒸し返されてのう…はぁ、もうとっくに時効じゃよ」
「うわぁ…仁王さんにしては脇が甘かったですね」
「いきなりそこを突っ込むとは…お前さん、本当にウチに慣れてきたのう」
評価されているのだと思おう…悪意はまるでないみたいだし。
「でもそういう罰ゲームみたいなのって、いかにも切原さんがさせられそうですけど…」
「…竜崎、一つ怖い話をしちゃる」
「え…っ」
びくんっと怯える少女に、仁王はまぁまぁとジェスチャーで落ち着くように促した。
「まぁ、聞きんさい。…或る日、部活中に抜け出した赤也が茶室に入り込んだ時にのう…弄って遊んどった茶碗を割ってしもうたんよ…時はまさに部活動予算請求に近い時期…部費もそろそろ心許なくなる時じゃった…」
「は、はぁ…」
にじり寄る仁王の顔は、まさに怪談話にぴったりの雰囲気で、桜乃も構えながらも静かに聞き入る。
「それがよりによって茶道部顧問の一番大切にしとった茶碗でのう…当然、割ってしまった以上は弁償せんといかんじゃろ? 慌てたのがウチの部長達よ。その値段を確認してウチの部費の残りをかき集め、お札をいちま〜い、にま〜い、さんま〜い…となぁ…で、」
「〜〜〜〜〜〜」
ぞくぞくうっと背筋に悪寒を感じた桜乃に、仁王が間近に迫ってとどめの台詞。
「一ケタたりない〜〜〜〜っ…」
「きゃああぁぁぁぁぁ―――――っ!!!」
「こら―――――――――っ!!」
悲鳴を上げた少女のそれを掻き消す程の怒声が背後で響き、立海の副部長が仁王立ちで現れる。
いや、いきなり現れたのではなく、前からいたのだろう…しかし相変わらず気配を消すのが上手い男だ。
「仁王〜〜〜っ!! 何を口から出任せを言っている!! 竜崎が信じたらどうするつもりだ!?」
「えっ!? 本当の話じゃなかったんですか!?」
「……」
既に本気で信じていたらしい少女に真田が視線を向け、続けて仁王に非難轟々のそれを移した。
『ほら見ろ、信じてしまった』という視線に、仁王はあらーっと苦笑い。
「いやぁ、ちょっと分かりやすく説明しようと少々アレンジを…」
「やかましいわ!」
青筋を立てて怒りの顔で迫る副部長に、しかし仁王は怯みもせずに笑みを返した。
「ははは、すまん。しかし今の怪談はまるっきり嘘じゃないんよ竜崎。あん時は流石の真田も肝を冷やしたじゃろ」
「思い出したくもない…正直、腹を切らねばならんかと思ったからな、あの時は…」
どうしてこの男はそこまで武士道にこだわるのだろうか…
「え…じゃあ…」
きょとんとする桜乃に、仁王はにこりと笑って詳細を明かす。
「ま、割りはしたが、レプリカだったんで大した出費にはならんかったというオチじゃ。勿論、赤也は出入り禁止になったがのう…」
「ああ、成る程…」
ほっと桜乃は胸を撫で下ろす。
確かに弁償額が一桁も違えば、それはそれは恐い話だ……
「言い方は変ですけど、良かったですねぇ」
少女の心からの一言に、真田はうむと深く頷く。
「まぁ、蓮二が茶道部と多少の繋がりがあった事も、穏便に済んだ理由だがな」
「あいつは茶道の心得があるし、和風のものに造詣が深いからのう…茶道部に何事かあれば、結構助力を請われとるんよ」
真田の言葉に続けて仁王が言った一言に、桜乃はふんふんと頷いた。
「そうなんですか…でも確かに、柳さんって普段の立ち居振る舞いも、私とかとはちょっと違うなって感じがします…」
「たまに家でも和服を着ることがあるらしい。身に染み付いとるのかもな」
「ふぅん」
「仁王、お喋りはそのくらいにして、いい加減着替えて来い」
真田の注意に、詐欺師は思い出したようにあ、と顔を上げる。
「おっと、そうじゃった。竜崎がおるとつい時間を忘れてしまうのう…じゃあの」
「はい、頑張って下さいね」
軽い口説き文句を言って反応を楽しもうと思ったのに、気付かれることもなく無邪気に手を振られてしまい、仁王は苦笑してその場を離れた。
やっぱりいい子じゃから、こっちの方が疲れるのう…楽しいが。
仁王が離れた後に、桜乃は真田に向き直って謝っていた。
「お邪魔してすみませんでした…私が仁王さんを引き止めてしまったから…」
「いや、お前が気に病むことはない。元はといえば、あいつが下らん怪談話などを始めるからだ」
「はぁ…」
正論ではあるのだが、やはり真田も竜崎に対しては少し甘い。
確かに桜乃は、教育しても教育してもことごとくその成果を水泡に帰しまくっている二年生の後輩と比べたら、なでくりまわしたくなる可愛さと従順さだ。
「…じゃあ、今日は柳さんは練習に参加しないんですか?」
首を傾げて尋ねる少女に、真田はどうかな…という表情を浮かべた。
「いや、出番が終われば戻ってくるとは思う。しかし、もう一時間は経過しているか…おおよその終わる時間を聞いておけば良かったかもしれんな」
「茶室って、遠いんですか?」
「そうでもない、あの建物の一階にある」
真田の指差した建物は、確かにコートからでも見えるさほど遠くない場所にあった。
見えている…ということは流石に自分でも迷子にはならないだろう。
「ふぅん…」
建物の場所をじっと見つめて確認している間に、真田のことを呼んでいる声が聞こえてきた。
レギュラーメンバーのものではない、他の部員の声。
振り返ってみると、見慣れない誰かが真田の方へ名を呼びながら手を振っていた。
「…おっと、呼ばれてしまったか。竜崎はいつものように自由に見学してくれて構わない。たまに飛んでくる球には気をつけろ」
「はい」
気遣いが含まれた言葉を残して、真田は副部長の任を果たすべく、すたすたとその場から立ち去って行き、桜乃だけが残された。
(柳さん、茶室にいるのね…お点前かぁ…)
自分はまるで知らない世界だが、何となくイメージは沸く。
いつも制服かテニスエウェアでしか会ったことのない柳に脳内での空想で和服を着せてみると、やっぱり似合うイメージはあった。
(…見てみたいなぁ)
うずうずと好奇心の波が桜乃の心を茶室へ、茶室へと動かしてゆく。
今日は確かにテニスの見学に来てはいるが…義務というものではない。
ちょっとだけ席を外して、覗きに行こうと桜乃が決意するまでには、そう時間はかからなかった。
(それにまだ時間が掛かりそうなら、終わる時間だけでも聞いて、真田さんにお伝えしたら役にも立てるし…よし、決めた〜)
えへへ〜とささやかな企みを胸に、桜乃はとことこと茶室を探して建物の方へと歩いて行った。
前もって、手伝いの要請の連絡を受けていた柳は、今日は自宅から和服を持参しての参加となり、ぴしりと見事にそれを着こなしていた。
秋も深くなり、久し振りにお点前を合同で行おうという企画だったが、その会も無事に終了したところだった。
「有難うね、柳君、助かったわ。本当に無駄のない見事なお作法で、生徒にも良いお手本になりました。また何かあったら宜しくね」
「いえ…お役にたてたのなら何よりです」
茶室に残っているのは藍の色の着物を纏った柳と、茶道部の顧問らしき老齢の婦人だった。
柔らかで和やかな雰囲気をまとった婦人は、いかにも茶道部の顧問というイメージに合っている。
茶室の中、柳は粛々と婦人に丁寧な礼を返して顔を上げた。
その振る舞い一つとっても、まさに流れるようでいて心地よい緊張感も感じられる、雅な仕草だ。
「生徒の皆さんは、これからまた別室での講義ですか」
「ええ、今度は生花の作法について教えるの」
「…一つ我侭を宜しいでしょうか」
遠慮がちに申し出る柳に、婦人は笑って頷いた。
「あら、何かしら」
「恥ずかしい話ですが、少々喉が渇きました…宜しければ、ここで茶を点てさせて頂けませんか? 片付けは責任をもってさせて頂きます」
「勿論、構いませんよ」
柳ならば粗相はないだろうという信頼の許で、教師はすぐに許可を出してくれた。
「有難うございます。折角の炉開きですから、もう少しこの場の雰囲気を楽しみたくて…」
「いいのよ。じゃあ、私はここで失礼するわね。柳君なら間違いはないと思うけど、炉の火だけは注意して頂戴」
「はい」
再度礼をして、教師が茶室を後にすると、そこには炉で熱されて湯気を出す釜のしゅんしゅんという音だけが残った。
「……」
心地よい静寂と、湯気の音、炭のはぜる音…
それらにしばし聞き入ったところで、柳は茶をたてる準備を始めた。
テニス部には無論参加するつもりだが、もう一杯だけ、我侭を許してもらおう…
そう思い、柄杓の柄を持った時、先生が閉ざした茶室のにじり口から、遠慮がちな声が聞こえてきた。
『あのう…』
「? どうぞ」
誰か忘れ物でもしたのだろうか、と思ったが、この狭い茶室の中にそれと思しきものは見当たらず、柳は不思議に思いながらも入室を促した。
相手は女子…では、テニス部からの催促でもない…
す…と声と同じく遠慮がちに開かれたにじり口から、ひょこっと顔を覗かせたのは、自分の良く知る人物だった。
「あ、柳さん…」
「む? 竜崎か」
座していた身体を少しずらして、柳は少女の方へと向き直った。
「どうした? 今日も見学に来たのか?」
桜乃は相変わらず小さな入り口の向こうから、ウサギの様にぴょこりと顔を出したままで答える。
「はい、でも柳さんがお点前に参加されていると聞いて、ちょっと見たくなって…えーと、もう終わっちゃったんですか?」
「うむ…少し前にな」
「そうですか…」
ちょっと残念ではあったが、それでも柳の和服姿を目にした桜乃はしげしげと彼へと注目する。
大人っぽ〜〜〜い…
背も高い柳は、普段から落ち着いた雰囲気も手伝って大人びてはいるのだが、こう和服を着ている姿を見ると、更にその印象は強くなる。
その上、茶室の四畳半の畳の上に、ぴしりと背筋を伸ばして座する姿は非常に凛々しく、桜乃でなくても注目を集めるだろう。
事実、お点前の最中も、女性が多い茶道部では彼はかなりの注目の的だったのである。
しかし悲しいかな、茶道の基本は『茶を愛する心』。
それを心から実践している柳が、お点前の最中に他人からの視線など意識する訳もなかった。
「…? どうした?」
じっと視線だけを向ける桜乃に、流石に柳が訝って尋ねた。
「あ! いえ…柳さんの和服姿って初めて見ましたから、つい…ごめんなさい」
「いや、構わない。お前も茶道に興味があるのか?」
持っていた柄杓を置き、柳が薄い笑みを浮かべて桜乃に尋ねると、相手は恥ずかしそうに俯いてしまった。
「実は、殆ど知らないんです。テレビとかでやっているのを見たことはあるんですけど…道具とかこういうお部屋とか、何だか準備だけでも大変そうで…お稽古も厳しそうだし、私なんかだとすごいドジを踏みそう…」
素直で飾らない桜乃の言葉は嫌味一つなく心地よく男の耳に響き、彼は更に笑みを深めて相手に諭した。
「そんなにかしこまる必要はない。茶の心は、茶を愛して客を心からもてなすという事に重きがある。礼儀、作法は最初は間違えて当然。おいおい覚えていけばいいものだ」
「はぁ…そう言って頂けると…」
柳の優しい言葉に慰められて、桜乃がぺこりと礼をしたところで、彼は思い出した様にこく、と頷いた。
「ああそうだ。丁度これから茶を点てようと思っていたところだ。お前も良ければ、相伴しないか?」
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