「え? 私が、ですか? でも、無礼をしちゃうかも…」
「気にするな。ここには俺しかいないのだし、薄茶ぐらいなら練習してみてはどうだ?」
 そう勧められ、桜乃はまた少し好奇心を覗かせた。
 確かにここには柳一人しかおらず、その彼が手ほどきしてくれると言う…
 自分には全く知識がない事も理解してくれているのだから、何かしでかしたとしても、それ程に恥じることもない…かも。
「い、いいんですか? 甘えちゃっても…」
「勿論だ」
 頷いてくれた柳に後押しされ、桜乃は結局、茶室に上がって柳とお点前の練習をする事になった。
 靴を脱いで上がった畳張りの小さな部屋は、い草の清廉な匂いがした。
「今日は細かい作法は抜きにして、茶を点てるだけにしよう。さ、座って」
「はい」
 炉を囲む形で柳の傍に座った桜乃は、釜の下で赤々と燃える炭を見つめた。
「本格的なんですね…炭の赤い色がとてもあったかい感じです」
「ああ、今日は『炉開き』だったからな。やはり、炭の香りはいいものだ」
「炉開き?」
「春から夏は風炉を使い、秋から冬には炉を使って釜を熱する。その炉を初めて使う日を炉開きと言う。大体は大寒に開かれたりするのだが」
 基本的な言葉でも、柳は懇切丁寧に教えてくれた。
「ふぅん…そんな記念日に居合わせたなんて何だか得した気分です。こう、湯気が出る音とか、炭がぱちぱち言う音を聞くと、心がほっとして…何て言うのかな、日本人で良かったなーって気がします」
 柳の言葉を聞いて嬉しそうに炉を覗き込み、それから彼に笑顔を向けた桜乃に対し、相手は暫く何も言わずにその姿を見つめていた。
 にこにこと些細な事にも喜びを感じて笑う少女を見ていると、男の胸もほっこりと暖かくなってくる…
 これまでも何度も彼女の優しさと素直さに触れてきた柳は、そこでやはり自分がこの子のことをかなり気に入っているのだと自覚した。
 立海も青学も関係ない、おそらくこれまでの人生の中で一番気に入っている存在…
「……お前は、可愛いことを言うな」
「え…!?」
「言葉がとても素直だ。真っ直ぐで、聞いていて心地いい…」
「は、はあ…」
 まだ何もしていないのに、早速褒められてしまった…
 嬉しいは嬉しいが、何となくこれからの展開に向けてプレッシャーを感じながら、桜乃は居住まいを正した。
「では、今日は薄茶をたててみよう。これならお前も飲みやすいだろう」
「あ、はい…お願いします」
 礼をする桜乃の前で、柳は一礼から始まり、淀みのない動きでふくささばきから、茶せん通しまでを済ませた。
 続いて茶碗に茶杓で抹茶を入れ、釜から湯を注ぎ、手早く茶せんで茶を点て始める。
(うわぁ、凄く速い!)
 茶せんと茶碗が擦れる心地よい音と共に、茶の芳しい香りが辺りに漂ってくる。
 その香りを嗅ぐだけで、桜乃の背筋は更にぴしりと伸びてゆく。
(お茶って…想像していたより泡立つんだ…)
 実は、薄茶の場合は上手い人がたてた場合は、非常に肌理細やかな泡がたつのだが、少々不慣れな人間の場合はそれが無い。まぁ、流派によっては敢えてたてない場合もあるのだが。
 柳がたてたものは、然程時間をかけず、しかし細かな泡で飾られた翠の作品だった。
「薄茶は夏にはもっと浅い碗で頂くこともある…さぁ」
「は、はい…有難うございます。ええと…」
 確か、三回回して飲むんだっけ…?
「まず、茶碗を取って」
「は、はいっ」
 戸惑う桜乃に、柳が的確な指示を出して、所作を見守る。
「時計回りに、二回半ほど回してから飲む。濃茶は回し飲みをするが、薄茶は飲み切るものだから、残す必要はない。まぁ、苦手な味ならば、残して構わない」
「はい…」
 言われた通りに慣れない手つきで二回半回し、くぴ…と口に含むと、特徴的な苦味と爽やかな味が混ざり合って舌の上で踊った。
(あ…何か、思ってたより美味しい…凄く舌触りが滑らかで…)
 柳の点てたお茶の出来上がりの良さに驚きながら、桜乃はくぴくぴくぴ…と全部飲み干してゆく。
「飲み終えたら、飲み口を親指と人差し指でつまんで拭って…後は懐紙で拭く。今日はこれを使ってくれ」
「はい…」
 何とか一通りの作法をこなし、柳の懐から出された懐紙を受け取って茶碗の飲み口を拭いて、桜乃はそれを畳の上に置いた。
「ええと…結構な御点前でした」
「ふ…」
 一礼する桜乃に微笑み、柳はす、と一礼を返した。
「うわ…緊張しましたぁ」
 一段落したことで、はぁ〜っと桜乃は力を抜いた声を出し、その様子を見た柳は苦笑しながら頷いた。
「慣れない作法だから仕方がない…しかし心はこもっていた、良い事だ」
「有難うございます。柳さんの点てたお茶って、凄く飲みやすいんですね」
「そうか? 流石に茶道部の使用する抹茶だからな、いいものを使っているからだろう」
「でも、点てるときも泡が細やかで…見ていても楽しかったです」
「そう褒められると嬉しいものだな…では、次はお前の番だな」
「…えーと」
「? どうした?」
 急に歯切れが悪くなった桜乃に尋ねると、彼女は困った様子で頬に手を当てる。
「この場合…私が点てたものを柳さんが飲む事に…?」
「そのつもりだが…?」
「…やっぱり、激しく止めておいた方がいいと思います。私、あんな綺麗に点てられないし…」
 最初にあれだけ美味しいお茶を飲んでしまった所為か、すっかり自信を喪失してしまった少女に、柳は困った様に笑いながらぽん、とその頭に手を乗せた。
「?」
「大丈夫だ…誰でも最初から上手い人間はいない。上手くなくてもいい、ただ、俺は…」
「…何ですか?」
 桜乃の問いに男は少しだけ躊躇し、そして声を小さくして告げた。
「…お前が点てた茶を飲みたいだけだ」
「…っ!」
 途端に赤くなり、無言で顔を俯けて照れる相手の仕草があまりに愛らしくて、柳までもが心を揺らせてしまう。
「あ…ええと…はい」
 どきどきとした様子で、こくんと頷いた桜乃は、柳のリクエストに答えるべく、茶を点てることを決意した。
 大丈夫、大丈夫…別に料理とかじゃなくて、単純に考えたらお抹茶をお湯に溶かすだけだし、お腹壊したりはしないし…うん。
「ええと…どうしたら?」
「ふくささばきはまたの機会にしようか。では、茶せんを湯で温めて。温まったら茶碗から湯を捨てて、拭いた後に、抹茶を茶杓で二杯ほど掬って…」
「はい…」
 再び柳の親切な指導で、桜乃は点前のやり方を習ってゆく。
「そして、お湯を注ぐ」
「はい…・っ!?」
 湯を入れる際に、腰を浮かせかけた時、いきなり桜乃の身体が大きく傾いだ。
「きゃ…っ!」
「竜崎!?」

 どさっ…!!

 茶室の中でそんな一際大きな物音が響いた時、丁度その茶室のにじり口が開かれて、ひょこりっと仁王が顔を覗かせた。
「おい参謀? いつになったら戻るん…」
 言いかけた彼の口が止まる。
「……」
 男の目の前…茶室の中で座した柳の膝上に、身を投げ出すように桜乃の身体が乗せられていた。
「……」
「……」
「……」
 全員がもれなく沈黙の世界に包まれる。
「…えーと」
 詐欺師が、ぽり…と頬をかいて、何事か言おうと口を開く。
「いやーん、だいたーん(はぁと)」
「誤解だっ!!」
「足が痺れただけですーっ!!」
 柳と桜乃の必死の弁解を聞きながらも、銀髪の詐欺師ははぁ〜っと嘆息して首を振った。
「…入り口開けばいきなりラブシーンで驚いたぜよ」
「仁王っ!!」
「ううう〜〜〜〜…っ」
 柳は更に語気も荒く相手を戒めたが、もう一人の少女の方は足の痺れと必死に奮闘中で、涙は出るが声は出せない状態だった。
 その姿を見て、仁王はくっくっと声を殺して笑っている。
「…はぁ、分かった分かった。竜崎に変な噂がたつのは俺にとっても不本意じゃし、冗談はこれぐらいにしとくかのう…参謀」
「む…?」
「どうせお前さん、しばらく動けんじゃろ? 真田は俺が上手く誤魔化しとく…抹茶一缶で」
「…取引のつもりか?」
「いや脅迫」
「……」
 きっと、今日の手伝いをさせた理由の仕返しだな…と心の中で思ったのかは定かではないが、柳の視線は膝の上で苦しむ桜乃と、にじり口にいる悪魔の間を彷徨った。
「…竜崎には間違っても迷惑が掛からないこと、これが絶対条件だ」
「ええよ、じゃあ邪魔者は消えるけ」
 に、と交渉成立の笑顔を浮かべて、仁王はすぅっと姿を消しながら、ぴしゃっとにじり口の戸を閉めた。
「……困った奴だ…」
「す、すみません〜〜…」
「い、いや、お前の事ではない」
 自分が責められていると思った桜乃が痺れと戦いながら謝ったが、無論、柳が言った相手は違う。
 彼は断った後、さてどうしようかと伏した少女を見下ろした。
 とにもかくにも、今の態勢のままではあんまりだ、何とか立て直してやらなくては…
「竜崎? 起きられるか…?」
「…足の感覚が…ちょっと」
 はう〜〜と桜乃は涙目で訴えた。
 やっぱり、とんだドジを踏んでしまった…何で私は人生でこうも学ばないんだろう…
 自分がどれだけドジかということは、十分分かってた筈なのに……
「すみません…緊張してて、まさかこんなになってるなんて…」
「気にしないでいい…では、俺が手を貸そう。いいか?」
「はい…」
 確認を取った後、柳は遠慮がちに竜崎の倒れた上半身に両手をかけて持ち上げる。
 その時に布越しに擦れ合った相手の身体の感触に彼は大きく動揺し、加えて彼女の身体のあまりの軽さに再び驚愕する。
(こんなに…柔らかくて軽いのか…?)
「い、たたた…・」
 男の動揺を知る由も無く、桜乃は足から流れる電流にしかめっ面をしながら小さく呻いた。
「す、すまない…まだあまり動かさない方がいいか…」
「だ、大丈夫、です…」
 桜乃はそう言うが声には明らかに我慢の色が見え、柳は一度彼女の身体を下ろす。
 ただし、再び膝上に伏せさせる訳にはいかないので、彼女の足は投げ出させたまま上半身を自分に寄りかからせる形で固定させ、しっかりと胸に抱く形になった。
「え…っ」
「動けるようになるまで、俺に凭れているといい…」
「でっ…でも…」
 わたわたと慌てながらも、自由にならない足では上手く動くこともままならない。
 それを或る意味利用して、柳は桜乃を捕え、手放すことを許さなかった。
「ダメだ…火も近い。下手をして火傷でも負ってしまったら大事だからな」
「そ、れは…そうなんですけど…柳さんに負担が…」
「…お前はとても軽い…それにとても暖かだ…」
「や…柳さん…?」
「負担ではないと言えば…お前はずっと俺と…」
「え…?」
「……いや」
 言葉を閉ざす代わりに、柳の腕が桜乃の背に回される。
 心を明かすその代わりに、せめてもう少しだけこのままお前を抱いていたい…
 離れた時も、お前のぬくもりを覚えておくために…
「…何故かな…こうしていると、とても落ち着く」
「はぁ…私は…どきどき、してます…」
 上ずった少女の素直な言葉に、柳の唇が緩む。
「ふ…確かにそのようだな」
 お前の鼓動が速まったのを感じる…その頬も更に赤みを増したようだ…
 お前のデータが増えて、お前のことを知ってゆくことが、こんなに嬉しい。
 そしてデータだけでなく、お前そのものを知り、こうして触れたいとも願っている。
 これは、何と言う感情だろう?
 茶を学ぶ為のこの場所においてすら、その自覚をかなぐり捨てたくなる感情は…?
(俺もまだ、茶道を知る道のりは遠いようだな…)
 それからも、彼の腕は桜乃をずっと抱いていた……


 そしてその後何とか茶を柳に点てた桜乃だったが、意外と出来は良かったらしく、彼は『これからの成長を期待しよう』と、すっかり彼女に師事する気でいるらしいが、それはまた別の話……






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