雨宿り


「仁王、お前が自分の練習に熱心なのはいいが…」
「あー、分かった分かった。ちゃんと埋め合わせはするけ、勘弁じゃ」
 或る日、立海の男子テニス部の朝錬中に、珍しく仁王が参謀である柳に呼び出され、説教を受けていた。
 切原であれば誰も気にしない光景であるが、仁王は普段から何事か起こしても秘密裏に自身で解決してしまう為、呼び出される程の失態を見せる事は滅多にない。
 だから、当然と言うべきか、その光景は先程から他のレギュラー陣の視線を集めていた。
「どうしたんだ?」
「何か、柳のラケットを使って練習して、ガットをガタガタにしちまったんだってよい」
 ジャッカルが練習の動きを止めて丸井に尋ねると、向こうも人から伝え聞いた情報を言うに留まり、相棒と同じく銀髪の男へ注目している。
 ただし、その話をしてくれたのは仁王の相棒である柳生であり、それだけでも話の信憑性は非常に高い。
「へぇ…」
 もう一度仁王の様子を伺うと、説教を受けながらも彼は相変わらず薄い笑みすら浮かべており、反省しているのかどうか、外見では全く分からない。
 それを見抜いているのか定かではないが、柳は特に何の感情を顕すこともなく、淡々と仁王に説教を続けている。
 そしてその最後に、こう締め括った。
「まぁ、練習熱心なのは褒めるべきところだ。今後は人の物を使う時には必ず声を掛けるように。ペナルティーとして、今日は放課後に俺の偵察にお前も同行してもらうぞ」
「何じゃ、何処へ行くつもりじゃ」
「青学だ。どうせ俺は今日はもうラケットが使えん。一日無駄にするくらいなら、あちらの情報を手に入れた方が余程有意義だ」
「……」
「お前の観察力は非常に優れているからな、俺の目の届かないところで情報を収集してくれ」
(お前さんの目の届かんところなんて、あの世ぐらいじゃろうが)
 言ってみたいが、もし声に出したらまた説教の時間が長くなる…ので、心の中で妥協する。
 しかし青学までとは、少々長い道のりだ…高くついたか。
(まぁ、サボれると思って割り切るしかないか)
 そう思ったところで、はた、と仁王は何かに思い至ったように顔を上げた。
「…じゃあ、竜崎に言っとった方がええのう…今日当たり、ウチに来るんじゃないか?」
「む…?」
「ほれ、前に来た時、言っとったろうが?」
「……」
 仁王の問いに、柳はしばらく口を閉ざして黙考する。
 彼ほどの記憶力があるのなら、忘れているということは有り得ないだろう。
 それに何より、参謀は最近あの娘の事を非常に気に掛けている様子であり、そんな彼の変化を詐欺師が見逃すワケもなかった。
 だからこそ、仁王はそれを相手に振ったのだ。
「…それとも日を改めるか?」
 上手くすれば今日の偵察も見送れるか、と提案してみた詐欺師だったが、参謀はその案については首を縦に振らなかった。
「…竜崎が来るからと言って、俺達が青学に行かないという理由にはならない筈だ。お前の今の発言は、少々理解に苦しむところだ」
「そーか、苦しいか」
 分かっているのにそんな台詞を抜かす朴念仁は、そのまま窒息でも何でもしたらええのに…とせめて憎まれ口を心で投げつけて、仁王ははいはいと頷いた。
「分かった…じゃあ、待ち合わせはどこにする? 俺は少し遅くなるかもしれんぞ、ホームルームで長引きそうな議題が残っとるけ」
「では、青学近くの十字路の店の前でどうだ? いつか全員で入ったことがあっただろう」
「ああ、あの喫茶店か…ええよ、じゃあそこでな」
 待ち合わせの場所には特にこだわる必要もないとばかりに二つ返事で頷いて、仁王はさっさと柳から離れてコートへと戻って行った。
「お疲れさんッス、仁王先輩」
「ああ、疲れるばかりじゃ…ツメが甘かったのう」
 後輩にねぎらいの言葉を掛けられても、銀髪の詐欺師は辟易とした表情をなかなか消せずにいる。
「仕方ないだろう、練習に夢中での粗相なら、そんなに向こうも怒ったりしてないさ」
 ジャッカルに慰められた相手は、はぁ…とため息をついた。
「どうも最近、俺のラケットでも柳生のラケットでもしっくり来ないんじゃ…じゃから、他の人間のラケットでも使ってみたら、少しはスランプから抜けられるかと思ったんじゃが…」
「成る程なぁ、そりゃ確かに試したくなるよぃ」
 うんうんと丸井は相手の心情に納得の態で頷いている。
「やっぱり、バレーボールもバスケットボールも砲丸もダメじゃったな…」
『……』

 し――――――ん…

 今までの仁王への同情の気持ちが、がらがらと音をたてて瓦解してゆく気がした。
「…は?」
 ジャッカルの呆然とした顔に背を向け、仁王ははぁ…とまたため息。
「違う感触に触れてみようと思ったんじゃが、無駄じゃった」
「無駄ッスよ」
 後輩もこの時ばかりは擁護する気は皆無で、相手の一言に即答する。
「…柳にはそういう事も言ったのかい?」
「ん? 参謀か? そりゃあ言ったぜよ、『お前さんのラケットでボールを打ってたら、ガットが傷んでしまった』って」

(肝心要のトコロはおもっくそ端折ってるじゃねーかっ!!)

 全員の心の中の突っ込みに、詐欺師は気付いているのかいないのか……
「もっと詳しいところも話せよ」
「怒られるから嫌じゃ」
「確信犯かよ」
「そういう事は、それこそ自分のラケットでやれよぃ」
「ガットが傷むじゃろうが」
「やれっての!」
「結局、遊んでただけッスね、仁王先輩…」
「よく分かったの」
「当然ッス」
 そんな三人の冷たい視線を受け流しながら、詐欺師はん〜と空を見上げて僅かに眉をひそめた。
(…何となく晴れとるが…雲が少しばかり嫌な感じじゃのう…)



放課後
 仁王の不安は見事に適中する。
 柳が学校を出てから程なく関東の狭い地域に雨が降り始め、それは見事に青学の位置する地域も含んでいた。
「…しまったな…短い時間で上がるとは思うが」
 柳はかろうじて店の前の待ち合わせ場所には間に合ったが、そこからの動きを雨によって封じられてしまっていた。
 すぐに止むかと思っていたが、なかなかその気配はない。
(今の時間は…)
 ちら、と腕時計を見てみると、仁王との待ち合わせまでは十分ぐらいある。
(メールも電話も受け付けないとは…何をやっているのやら)
 まぁそれでもあと十分の辛抱だ、彼が来てから立海に戻るか青学の偵察を決行するか決めてもいいだろう…と思っていた彼の隣に、自分と同じく店先に飛び込んだ者がいる。
 青学から走ってきた女子学生が、ハンカチを頭に乗せて、雨宿りにと走って来たのだ。
 その様子から彼女の行動パターンを即座に読んだ柳は、一度視線を前に戻し、相手がハンカチを取った時点で改めて視線を向けると…
「! 竜崎」
「え…」
 見慣れた顔が、呼ばれてこちらを見た途端、驚きの表情を浮かべた。
「柳さん!?」
「お前だったのか…」
 ハンカチで顔が隠れ、あのおさげも死角になっていた所為で、気付くのが遅れてしまった様だ。
「珍しいですね…柳さんがこんな所にいるなんて」
「あ、ああ…仁王と待ち合わせをしていてな」
「そうですか〜」
 まさか青学へ偵察に来た、と正直に言える訳も無く、柳は言えるだけの事実を述べるに留まったが、幸い相手はそれ以上の追及もせず、素直に受け取ってくれた。
「お前は…?」
「あ、立海に行こうと思ってたんですけど、ちょっと急に降られちゃって…ここで雨宿りです」
 どうやら、あの銀髪の詐欺師の言葉通りだったようだ。
「ふむ…」
 濡れたハンカチを軽く絞ってから、少女は濡れた制服の腕の部分を拭き始め、それを見ていた柳も、自分のハンカチをポケットから取り出した。



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