「ほら、これも使え」
「あ、いいですよー、軽く濡れただけですから…」
「…この気温の下、濡れた状態で身体活動も行わなければ、一時間以内にお前の体温は一度近く低下する。同時にふるえに伴う熱産生が亢進、体力の消耗に伴い免疫力の低下を惹起し…」
「は、はいはいはい…」
つらつらつら…と柳の説明が始まり、桜乃の身体が少し後方に引いてゆく。
そういう話を聞いても桜乃が理解出来るのは半分かそれ以下であったが、質問する暇も許さない柳の講義は一分強続いた。
「…結論として、お前が風邪を引く可能性が高くなるということだ」
「…お気遣い、有難うございます…」
何も言えず、桜乃は再び差し出されたハンカチを今度は素直に受け取ると、ふ、と何かに気付いたのか柳へ笑顔を向けた。
「…ハンカチにも香を焚き染めているんですか?」
「ん? ああ…少しだけだが…お前は鼻が利くようだな」
「いい香りです…」
ハンカチを口元に寄せて、くん…と香りを嗅ぐ相手の動作にどきりとする。
はっきりとは見えないが、相手の唇が布地に触れているかもしれない…そう思った柳は、自分の思考そのものに内心慌てた。
(何を考えている、俺は…)
不埒なことを…と戒めている脇で、桜乃はちょいちょいと遠慮がちに彼のハンカチを濡れた服に押し当ててゆく。
そしてあらかたの作業が済んだら、それをまた元の通りに折りたたむ。
「これ、洗濯してお返しします」
「いや、その必要はない…」
す、と手を伸ばし、自分のハンカチを鞄にしまおうとしていた桜乃の手を止めたところで、彼は今度は明らかな目的をもって彼女の手を掴む。
「きゃ…」
「まだ冷たいぞ…寒くないのか…?」
ハンカチをしっかりと取り戻しながら、柳は桜乃の手を握ったまま放さずに尋ねた。
「だ、大丈夫です…」
「……」
相手の手に己の熱を少しだけ分けると、彼は一度その手を離し…
「…っ!」
ほっと安心した少女の両頬を、自分の両手で優しく挟んだ。
「や…柳さん…?」
「こちらも冷たいな…俺の手も冷えてはいるが、多少はましだろう。じっとして…」
「は…はい…」
大きな手が、優しく頬に触れて体温を分けてくれる。
真摯な表情でこちらを見下ろしてくる男の視線を感じるだけで、外気の冷たさなど吹き飛んでしまい、少女は恥らいながら無言で瞳を伏せた。
その仕草が、更に相手の視線を向けてしまうことなど知りもせず……
「……」
冷えて血の気を失った肌なのに、頬だけが心なしか朱に染まっている。
泣いている訳でもないのに、そう思わせてしまいそうな程に潤んだ瞳は伏せられ、こちらを見ることはない。
何の意味もないことは分かっている、しかしそれが非常にもどかしく思え、柳は自らの指を滑らせ、相手の頬を撫でた。
「…!!」
その動きで相手の注意を引き寄せ、彼は少女の視線を得ることに成功する。
はっとこちらを見上げた桜乃の瞳は、予想以上…だった。
予想以上にどうだったか…という説明をするのは困難だ、自分でも理解していないのだから。
ただ、心が衝かれた。
原因、過程、結果…何がどう作用してのものなのか、そこに至るための条件は何なのか…
得意の理論構成もまるで役に立たない…しかしいつもの事なのだ、彼女の前では。
言葉で語ろうと思った瞬間、既に自分は負けている。
勝負の話ではないかもしれないが…何度も敵わないと思い知らされてきた。
こんな心の中の嵐を、俺がお前に与えることは出来ないのだろうか?
俺はこんなにお前のことが気になっている…だが、お前は俺のことを見てくれているだろうか?
「…あったかいですね…」
「!」
桜乃の言葉にはっと我に返ると、相手は自分の両手に彼女のそれを置いて笑っていた。
「…有難うございます…でも、もう十分ですよ、今度は柳さんが冷えてしまいますから」
「あ、ああ…」
本当は放したくなかったがそれを正当化する理由はなく、柳はゆっくりと両手を離しつつ身体を道側へと向けた。
雨はまだ降っている。
「…なかなか止まないな」
「そうですね…」
『では、中に入って少しお茶でも飲まないか』
雨宿りをしている喫茶店を指差しながら、そう言いたいのに言えなくて、柳の心に暗い影が落とされる。
世の中にはそんな台詞を息を吐くように言える人種もいるらしいが…自分には無理だ。
もし言えていたのなら…こんなもどかしい思いはしないで済んでいるだろう。
それに、今回は仁王との待ち合わせもあるのだ。
思い出し、柳が再び腕時計を見てみると…
「…待ち合わせ時間を過ぎたか…」
「遅いですね、仁王さん…でも、時間には正確な人だったと思いましたけど…」
「ああ、その通りだ…しかしもう十分も…」
何をしているんだ、と思った時、突然柳の携帯が鳴り出した。
「…もしもし?」
『おう参謀、俺じゃ』
向こうから聞こえてきたのは、全く悪びれる様子のない仁王の笑みを含んだ声。
「仁王か? お前、今何処に…」
『俺の情報筋からの連絡じゃがの。柳、青学の今日のトレーニングは中止だそうじゃ』
「…なに?」
『確かな情報じゃよ。疑うんなら調べてみんしゃい。俺も途中まで向かっとったが、今日はお前のラケットの修理に向かう。立海に戻ったらどうじゃ?』
仁王の言葉に柳が訝しむ表情を浮かべたが、そこまで言い切るとなると確かな情報なのだろう。
どの道、無駄足になったか…と思っていたところに、ああそうじゃ、と仁王が続けた。
『もし途中で竜崎に会ったら、一緒に連れて来たらどうじゃ? まだ雨が降っとるんなら少しばかり雨宿りしてからでもええじゃろ』
「…え?」
『じゃあの』
柳にそれだけ言うと、向こうはさっさと通話を切ってしまった。
「仁王?…仁王?」
「…? どうしたんですか?」
相手の行為に桜乃が声を掛けると、彼は忌々しげにこちらの通話ボタンを押しながら呟いた。
「仁王からだった…立海に戻るように、と」
「そうですか」
「何か…見透かされている様な気がするな…気の所為か…」
「? はぁ…そうなんですか?」
「…そう言えば、お前はどうする?」
「あ、私ですか、私は…」
自分へと話を振られ、桜乃はふいっと柳を見上げると屈託の無い笑顔で答えた。
「柳さんが行くなら、私も立海に行きます」
「え…」
思わず聞き返してしまった男に、少女がはっと何かに気付き顔を赤くする。
「あ…えっと…」
「…今の言葉は…その」
「…え、と…御迷惑…ですか?」
「い、いや…そんな事はない…来てくれるのなら、俺は歓迎する」
「…良かったです」
「……」
俺が行くのなら……
少女の言葉が、自分の中で幾度も繰り返されている。
今の台詞…少しは、お前に期待してもいいのだろうか?
立海に来るお前の目的の中に、俺という存在も含まれているのだと…思ってもいいのだろうか?
思う男の前で、桜乃はまだ泣いたままの雨雲を残念そうに見上げている。
「でも…まだちょっと雨が…」
「ああ、そうだな…」
もう仁王との約束が無いことが彼の心を軽くしたのだろうか?
それとも、桜乃の言葉が彼の背中を押したのだろうか?
どちらにしろ、それは柳にとって大きな前進だった。
「…では、少しだけ雨宿りしていかないか? 竜崎」
「え?」
柳の喫茶店を指差しての誘いに、桜乃が嬉しそうに笑う。
「…でもいいんですか? 向こうは柳さんを待っているんじゃ…」
「もう少し雨が止むまで待ってもいいだろう…お前を濡らすわけにもいかない」
「!…あ、りがとうございます」
きぃ、と喫茶店のドアを開き、柳が桜乃に入るように促す。
「一服している間に雨も止む…身体を暖めて、一緒に行こう」
「はい」
そして二人は一緒に入店してゆく。
やがて彼らが窓際に座り、仲睦まじくメニューを見ながら語り合う姿を、店の外、十字路の陰から見守る人影がいた。
「…ったく、十分も待ってやったのにのう…」
銀髪を揺らし、手にした携帯を弄りながら、仁王は苛立たし気にしかめっ面をしていた。
「結局俺が背中押さんと動きもせんか…手がかかる朴念仁じゃ。もう後は自分でやれよ、参謀」
くくっと笑い、一言、付け加える。
「じゃあ、埋め合わせはこれでチャラってことでな…」
上手くやりんしゃい、と見えない場所からエールを送った詐欺師も姿を消し、店の中では、心も身体も暖められた二人が言葉を紡ぎ、微笑み合っていた……
了
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