秋の空と恋の風
天高く 馬肥ゆる秋…
確かに秋になると、蒼々とした天が己を見下ろし、世界の広さを感じさせる。
食欲もそうだが、この心地よい気候は、スポーツや読書、何かに打ち込む集中力を持続させるのにはもってこいだ。
軽やかに吹く風は、秋を告げる紅葉の舞を更に美しく際立たせ、物悲しさをも醸し出す。
だから秋は、そんな悲しさを埋める為に人肌を求めさせ…恋を生むのかもしれない…
或る日の昼下がり
柳はその日の陽気に誘われ、少し遠出をして自然公園へと愛読書を抱えて出掛けていた。
今日の降水確率はゼロ、非常に快晴であり、風も程よく吹いている。
こんな日に外にも出ないとは、人生の浪費そのものだ。
テニスもいいが、こういういい風が吹いている時は、外で自然に包まれながらの読書も悪くない。
訪れた自然公園は、心地よい自然の息吹に包まれ、自分と同じ目的の人々のささやかな声が響いていた。
(少し厚着をしてきたか…しかし)
コートを羽織ってきたが、今の気温では少々暑い。
僅かに汗を感じてしまうほどだが、柳にとってはそれも以降の気温の変化を見越してのことだった。
確かに昼間は快晴だが、徐々にこれから低気圧の接近の影響で夕方になると気温も下がってくるだろう…その為のコートの着用なのだ。
暑ければ、脱げばいい…着脱可能のコートを選んだのもその為だ。
(まぁ、あまり暗くなっても読書には適さないからな…)
夕方に近くなれば早々に帰ってもいいかもしれない…と思いつつ、柳は読書に好ましい場所を探し始めた。
公園の中にある遊具に近いと、どうしてもそこで遊ぶ子供達、家族連れの声が気になる。
今日は木々の囁きの中で静かに読書をしたい気分だ…
遊具などのない、静かな場所…出来ればベンチなどの座る場所があれば好ましいのだが…
「ふむ……」
公園を軽く散策して、柳は自分が最も適所であるというポイントに来ると、ぐるりと頭を巡らせた。
赤い色が目立つ木々の下に、ぽつぽつと置かれているベンチ…
既に埋まっている場所が殆どだが、良く見るとまだゆとりがあるものもある。
隣が静かにしていてくれるのなら、自分は構わない。
柳はそれらの中で、空間が比較的空いていそうなものを探しつつ、距離を縮めていった。
「ん…?」
そんな時だった。
糸のように細い目でありながら、その驚異的な視力を誇る彼の視界に、見慣れたものが飛び込んできた。
おさげの少女…の後姿。
背中の殆どはベンチの背もたれに隠れているので、おさげの長さなどの詳しいところは不明だったが、柳の目は、離れている距離と少女の身体のおよその目測で、相手の体格が自分の知己のそれとほぼ一致している事を認識した。
隣は…空いている。
そう確認した時点で、柳の歩く速度は一気に上がった。
ゆっくりのんびりと、自然を楽しみながら読書を、と思っていたにも関わらず、今の柳はまるでそんな心のゆとりなど無かった。
誰もまだあのベンチに近づいていない事は分かっているのに、この心の逸りを止めることが出来ない。
ベンチの場所を取るのではなく、あの場所に少しでも早く行きたいと、目的そのものが摩り替わっていた。
そして…
「……」
ベンチの背もたれにすぐに触れられる近さまで来たところで、柳はようやく足を止める。
そんな彼の訪れにまだ気付いていないのか、おさげの少女は振り向かない。
「?」
声を掛けようとしたところで、男は相手に微かな違和感を覚えた。
首の傾き…僅かに上下している頭…落とされた肩…
そして…微かに聞こえてくる、寝息…
「…竜崎?」
口元に笑みを浮かべ、そっと相手を覗きこんだ柳は、彼女の様子を見てから更に笑みを深くした。
「ふ…」
予想通り…だ。
やはり、彼女は自分が予想した少女…竜崎桜乃だった。
自分の古い友人であり、ライバルが在籍している青学の一年生…
女子ではあるが、青学の男子テニス部と繋がりが深く、また、自分達立海のテニス部メンバーとも縁があるという少女だ。
彼女自身、中学生になってテニスをたしなみ始めた初心者だが、自分を含む立海のメンバーの手ほどきも受け、実力はまだ発展途上の状態にある。
男子である自分達とは比べること自体が無理というものだが、小さな身体に余るほどの努力の才能があることは知っており、それが彼女の力を引き上げていると柳は分析していた。
多少の失敗を恐れずに邁進することは才能でもある。
そして自らの向上の為に努力を惜しまない人間は、好ましい。
更に柳にとって、桜乃は、素直で優しい…触れてしまえば手折ってしまいそうな花の様な儚さを秘めた、不可思議な存在でもあった。
そして今…桜乃はまさに、物言わぬ花となっていた。
瞳を閉じ、座ったままで身体の力を抜き、微かに頭を上下に揺らして…彼女は眠っていた。
よく見ると、その膝の上には開かれたままの文庫本が一冊…
ページが、吹き渡る風に煽られ、ぱらぱらと捲られている。
彼女も、きっとここで読書をしていたのだろう…だが、この陽気と風の心地よさに誘われて、本の世界から夢の世界へとしばしの旅へと出掛けてしまっているらしい……
(…昼間だからいいものの)
あまりに無防備な寝顔に、柳は苦味を含んだ笑みを浮かべた。
まぁ、昼間の公園だ、滅多なことをするような輩はそうそういないだろうが……
「……」
取り敢えずは、座ろう。
静かにベンチの前に回り、柳は桜乃の隣にゆっくりと、深く腰を下ろした。
その挙動の中に、桜乃を起こすまいという心遣いが見え隠れしている。
桜乃を起こす事無く、腰を落ち着ける事に成功した柳は、持ってきた本を膝の上に開いた。
栞が挟まっていた場所を確認し、読み始める前にちらりと桜乃へ視線を送り、そして柳は静かに読書を始めた……
こくり……こくり……
「……」
静かに読書をする為に来た筈なのに…柳は全くそれを達成している実感が沸かなかった。
静かに、という点については全く申し分ない。
しかし読書については……
(…いけないな、どうにも目が泳ぐ)
本の内容に集中しようと視線を落としても、すぐ隣で桜乃の頭がこくりと動き、その度についつい視線をそちらへと向けてしまうのだった。
ここに座って既に十分が経過しているが、柳の読書のスピードは遅々として進まず、まだ三ページしか読めていない。
その上意識を読書に集中出来ていない為に、その内容も普段より理解度が低い…
(これでは、家で読んでいた方がまだましだな…)
桜乃がいなければ、きっといつもの調子がすぐに戻るのだろうが…それでも柳は今座っているベンチから立とうとはしなかった。
桜乃がいなければ、読書に集中出来る、しかし彼女がいなければ最初からここには来なかっただろう。
自分が選んだことだ、だから相手を責めるというのはまるでお門違いだ。
(…しかし)
ちら、と眠り姫を見遣った柳が、少し困った様な表情を浮かべ、どうしたものかと悩む。
自身が読書に集中出来ていない理由は、他にもあった。
こくりこくりと船を漕いでいる少女の身体のバランスが徐々に崩れてきつつあったのだ。
最初は小さな頭の揺れで済んでいたが、今は上半身がそれに倣って動きつつある。
柳は桜乃の右側に座っていたのだが、彼女はその反対…左へと身体を傾げつつある。
このままでは何か、小さな切っ掛けでベンチへと身を倒してしまうかもしれない。
いや、余程の鈍い人間か、熟睡しきっている人間ならそれもあるだろうが、大抵の者は身体が大きく傾いた時点でそれを感知し、目を覚ますだろう。
それで起きるのもいいのだが……
(……よく眠っている)
とても、心地良さそうに…微笑すら浮かべているような寝顔……
起こしてしまうのが、気の毒にすら思える……それに。
彼女が起きてしまったら、もうこの寝顔は見られなくなるだろう。
確率はゼロパーセントではないが、学校が異なり、彼女の眠っている状況に再び遭遇する可能性を考えると、望みはかなり薄い。
(勿体無いな…)
単純にそう考えた柳は、もう暫く彼女を夢の中へ引き止める為、その身体の固定に取り掛かった。
固定と言っても、大した作業ではない。
刺激を与えて覚醒させないように細心の注意を払いつつ、彼は自身の左腕を横へと伸ばし、ベンチと少女の背中の間に入り込ませ、肘をゆっくりと曲げた。
「すぅ……すぅ…」
隣で何が行われているのか気付く事も無く、桜乃は小さな寝息を変わらずたてている。
それをモニター代わりにしながら、柳は徐々に肘を深く曲げていき、遂に桜乃の左腕に自身の腕を触れさせた。
「……」
相手の様子を伺い起きていないことを確認すると、また肘を曲げ、少女の小さな身体の傾きを是正しながら、今度は自分の方へと引き寄せる…いや、抱き寄せる。
(軽いな…)
力を込めたら、一気にこちらへと倒してしまいそうな程の少女の軽さに内心驚き、それが更に彼の注意力を掻きたてる。
ゆっくりと、ゆっくりと……
とん…
「……すぅ」
「……」
遂に桜乃の身体が柳の身体に密着し、その頭はくたりと相手の肩へと預けられた。
寄り添う形で、二人はベンチに座る…一人はこうなっていることを知りもせず。
しかしその無知によって、柳は桜乃の寝顔をすぐ傍…間近で見る事が出来ていた。
少し頭を左下へと向けたら、そこにはもう彼女の顔が至近距離で存在していた。
小さな寝息が、よりはっきりと、自分の耳に届けられる。
上下する胸が、何より明らかに彼女の生を教えてくれる。
(竜崎…)
お前は何も語っていない、その視線すら今は感じない…なのに、何故俺は今、こんなにも心が昂ぶり、胸が苦しいのだろうか…?
お前の閉じられた瞼を見ると、その奥にある瞳の輝きを見たいと願いながら、もっと今の安らいだ寝顔を見ていたいとも願ってしまう…あまりに矛盾している。
今まで俺は、テニス以外でここまで何かに執着したことなどなかった。
自身をコントロール出来なくなる程に、何かを欲しいと焦がれたことなど……
それが今はどうだろう…
「……りゅう…桜乃」
姓を呼びかけて、名で呼び直し、柳はそれだけですら喜べてしまえる自分を感じていた。
姓ではなく、お前をより強くお前と知らしめる名…
いつかそれを呼ぶ事が出来る権利を、俺だけが持てたらいい……眠っている時だけでなく、いつでも、どこでも、お前をその名で呼べたら……
いや、名前だけではない……名前だけでは、もう、足りない程に…
「……桜乃」
己の腕の中で眠る花…その化身に、柳はひそやかに呼びかけつつ、顔を寄せる。
ふわりと感じたのは、少女の黒髪の香り…
愛おしい…きっと、そういうのだろう、この感情を。
感じた本人にしか分からない、この心の痛みと喜びを。
柳は、静かに…眠る少女の艶やかな髪にそっと唇を触れさせた。
「…お前が欲しい…桜乃…」
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