「…ん」
微かな声と共に桜乃の意識が現実へと覚醒したのは、不意に、何の切っ掛けもなくだった。
あれ?
私、今どこにいるんだろう…?
確か、天気がいいから公園に来て、そしてベンチに座って……
それから…?
「…?」
何だろう、凄く暖かくて良い気持ち…ほっとする暖かさ…これって?
「…あ…?」
ゆっくりと瞳を開けると、視界に木々の立ち並んだのどかな光景が広がっていた。
枯葉がはらはらと舞い散る様を見ると、風が吹いているのだろうが…何故か、それは感じなかった。
とても暖かな何かに包まれて、自分は…自分は…?
「…あれ?」
自分を包むその暖かな物を確認すると、それは厚手の生地…コートの一部だった。
自分の知らないコートが、包むように自分を囲んで…そのコートを着ている人が、私の隣に…
「…え!?」
はたっ!と顔を上げてその人物を見ると、向こうも自分が目覚めた事に気付いていたらしく、こちらを見下ろしていた。
「…起きたか?」
「やっ、柳さんっ!?」
何これ! どういう事!?
一人で来てた筈なのに、何で柳さんが隣に…しかも、コートの中で包まれて…!
(かっ…肩まで抱いてもらってる…!!)
これこそ夢ではなかろうか…と思いながらも、向こうが投げかけてくる言葉が、明らかな現実であることを教えてくれた。
「ここに来たらお前の姿が見えたのでな、場所を少し貸してもらった…今日のお前の服装では、今からの時分は少々寒い。眠っていたのを起こすのも悪かろうと思い、勝手をさせてもらった」
「い、いいいいいいえっ!!!! 勝手なんてそんなっ!! 私こそ、御迷惑を…!!」
立ち上がった桜乃は、その拍子に相手のコートの庇護から外れてしまう。
ひゅうぅぅ…
「っ…!」
コートの中では感じなかった風が、晒された少女の全身を容赦なく撫でてゆき、一気に体表の温度を奪ってゆく。
自然の不意打ちにぶるっと身体を震わせた桜乃の前で、柳がゆっくり立ち上がり、再び自身のコートの中に、相手を包み入れた。
「や…なぎさん!?」
「お前の服では寒いと言った…いいから、中にいろ」
「でも…それじゃ柳さんが…」
不自由をしてしまう、と遠慮した桜乃だが、柳はあくまで相手の身体の方を優先する。
「俺は…どうでもいい。お前の方が心配だからな、正直、こうしていてくれた方が俺も安心だ」
「……」
柳を不安にさせることは、勿論桜乃にとっての本意でもなかった。
だから、彼女は逆らえず、そのまま柳のコートの中に留まる。
言葉を使い、彼女をこの場に引きとめた、男の作戦勝ちだった。
「…や、柳さんは、いつからここにいたんですか?」
「ん?…そうだな…いつからだったか…」
それは正直、柳も覚えていなかった。
彼女を見てから今まで、時計を見る余裕など無かったのだ。
何故なら、腕時計をつけている左腕は、彼女自身を抱いていたから…
「覚えてない…」
「そ、そんなに前からいたんですか!? 私、何か失礼しませんでした!?」
「いや? 何だ、失礼とは…」
「い、いえ、その…いびきかいたりとか…」
「いびきをかくのか? もしかして、鼻の奥の形がいびつになっているのか? それなら耳鼻科へ…」
「いいい、いえ、多分…いびきはかいてないと思いますけど…自分じゃ分かりませんから!」
「ああ、そういうことか…いや、いびきは特にかいていなかったな…微かな寝息だけだ」
「そう、ですか…って、寝息まで聞こえてたんですか!?」
「ああ」
慌てるばかりの桜乃に対し、柳は淡々として応じている…が、その口元は相手の反応を楽しんでいるのか、僅かに歪められている。
「そんなに…近くに…」
柳さんの顔が…あった?
想像して、桜乃の顔が紅葉にも負けない程に真っ赤になった。
「…どうした?」
「…ね、寝言、とか…言ってませんでしたか?」
「…何か、夢でも見ていたか?」
「は……はぁ、少し、だけ…」
「何の?」
「……それはその…秘密ってことで…」
「…認められないな」
「え?」
冷静な立海の参謀…そのままの口調で、柳は相手の主張を一蹴し、コートの中の彼女の身体を両腕で拘束する。
「え…」
「俺はお前が夢を見ている間、お前の幸せそうな寝顔を見ていた…ずっと傍にいて、その内容も知らされないというのは、少々不本意ではある」
「寝顔…って…」
「お前にあんな顔をさせる夢がどんなものなのか…是非知りたいものだ」
「〜〜〜〜〜〜」
「言うまで、お前を離すつもりはない」
随分と子供っぽい無茶な作戦に出た参謀に、桜乃も照れるより先に驚いた。
「え…でも、もし本当に言わなかったら、ず―――っとこのままですよ?」
常識的に考えて、まさかそんな事は出来ないだろうと思っていた桜乃に、しかし柳は至極真面目な顔で言い返す。
「俺は……それでもいい」
「!?」
「お前が言わない限り、こうしていられる…それもいい」
「ちょ…」
ずっとこちらを見つめてくる相手の真摯な言葉に、桜乃は言葉を詰まらせ、すぐに相手が本気であることを悟った。
(さ、流石、データを取る執念がスゴい…柳さん…何に使うかは知らないけど…)
根本的に勘違いしているところもあったが、柳が自分に執着しているという見方は合っている。
最早、逃げ道はない…自身の言葉だけが、扉を開く鍵なのだ。
馬鹿馬鹿しい作戦ほど、それが決まると凄まじい威力を発揮するものである。
「……わ、分かりました、言いますから…」
あっさり陥落した桜乃に、柳は一瞬、残念そうな顔をした。
もう少し抵抗してほしかったと言わんばかりに…
しかし顔を下に俯けて照れる桜乃に、それは見られることはなかった。
「…ええと……夢を、見てました…柳さんの」
「!? 俺の…?」
「…はい…二人で…テニス、してました」
ばらしたら腹が据わったのか、少女はさっぱりした表情に一変し、柳を見上げて笑う。
「いつも通り、データテニスで格好良く負かしてくれてましたよ、柳さん」
「格好良く…?」
「はい」
「……お前の夢の中の、俺…?」
気にしていた相手の夢の内容に自分が出ていたにも関わらず、柳の表情は複雑だった。
他の男の名前が出なかったのは喜ばしいことだし、自分が出てきていたというのも喜ぶべきことなのだろうが……知らない自身が彼女と楽しくテニスに興じていたかと思うと、胸がもやもやする。
(…夢の中の自分にすら、妬いてしまうとは…)
相当、心を乱されてしまっているようだ…この娘に…
「あ、あのう…不可抗力ですよ、それ」
幾ら何でも、夢の中にまで俺を見るんじゃない、と否定されてもどうしようもない、と桜乃は先に断りを入れ、柳も当然それには理解を示した。
「あ、ああ…勿論、分かっている」
当然のことなのに、慌てている相手の反応が面白くて、つい柳は笑ってしまった。
笑いながら、約束通り腕を離して相手を解放する…勿体無いとは思いつつ。
「…さて、解放はしたが、風は冷たいからな…」
お前をコートの外に押し出す訳にもいかないと言った男に、桜乃が何かを思いつき、あっと声を上げた。
「あのう、柳さん、少しお時間ありますか?」
「ああ…別に予定はない」
「近くに甘味処があるんですけど、あったまりに行きませんか? お抹茶が美味しいんです、そこ。風から守ってくれたお礼に、ごちそうします!」
にこにこと笑ってそう言ってくれた桜乃に、柳は再び笑う。
人に奢るのに、こんなに嬉しそうに笑う人間がそういるだろうか?
「いや、気を遣う必要は無いぞ、俺が勝手にしたことだしな」
「それじゃ、私の気が済みません。じゃあ、お時間あるなら行きましょう。柳さんが好きそうなお店なんですよ? 雰囲気とか、和菓子とか…通う度に、柳さんを連れてきたいなーって思ってました」
「ほう…」
柳さんが好きそうな…か…それに、通う度に、何度も…
何気ない相手の言葉に、心が満たされていく…
(…俺はお前を欲しいと思っていたのに…もしかしたら、お前の方が先に俺を手に入れているのかもしれないな…)
お前の生活の中に、少しずつでも俺の居場所が出来ているのなら…そこはとても居心地がいいだろう…それが夢の中であっても現実であっても…
お前を欲しいという願いは変わらない、しかし…どうやらお前のものになりたいという願いもあるようだ…全く、何処まで矛盾しているのだか。
「…竜崎」
「はい?」
「…いや、何でもない…では、歩きにくいかもしれないが、道案内を頼むぞ」
「はい!」
店に着いたら、お前の名を呼んでみようか…俺が心を奪われた唯一の存在…その名を。
思いつつ、柳は少女をコートの中に捕らえたまま、ゆっくりと歩き出す。
男の想いは自分だけが知っているとばかりに、ひゅうと風が笑い、その秘密ごと、吹きぬけていった…
了
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