沢山の想い
とある茶葉専門店で、桜乃はずっと唸っていた。
「う〜〜〜ん…」
彼女が見ているのは、ずらりと並んだ抹茶缶の見本。
その小さな缶の一つ一つを、手にとっては説明を読み、また戻しては別の一つを手にとって…
まるでリピートモードをかけられているように、彼女はずっとそれらを眺めていた。
「…こんなに種類があるなんて思わなかったなぁ…抹茶は抹茶だけど、やっぱり違いが分かる人だったら、その中でも好みがあるんだろうなぁ…」
ぶつぶつと呟き、この店の中を彷徨い始めて裕に三十分は経過している。
何となく足のふくらはぎが張ってきた様な感覚を覚えながらも、桜乃はなかなかにその場から離れられずに、うろうろと…
(どれも同じ様に見えちゃう……ああ、やっぱり好みを聞いておけば良かった…)
「竜崎」
(でもテニスの練習をやっているさなかにいきなり抹茶の好みを聞くのも変よね…)
「竜崎」
(とは言っても、こうして迷っているのは、やっぱり私の準備不足の所為だし…)
とんとんっ
「え?」
不意に後ろから肩を叩かれて、何気なく桜乃は振り向いた。
もしかして、店員さんに怪しい人って思われちゃったかな…?
多少はその自覚があった少女だったが、幸いにもその相手は店員ではなかった。
店員ではなかったが…
「や、柳さんっ!?」
「随分、集中して見ているな」
背後から桜乃の注意を促したのは、立海のテニス部参謀である柳蓮二だった。
普段から物静かであまり目立つことを好まない人物であるが、その観察眼と知識の深さは、立海の常勝を支える大きな戦力として大いに畏れられている。
彼が青学に在籍する彼の古い友人と激しい試合で決着をつけたことは記憶に新しいが、普段は青学、立海の別なく、桜乃とは学年上良い先輩、後輩の関係でいてくれる若者だ。
更に、彼は他の立海のメンバーと同様に桜乃に対しテニスの指導もしばしば行い、彼女に合った練習メニューまで作成してくれる、非常に優秀な指導者でもあった。
「こんな場所でお前に会えるとは思っていなかった。何か探しものか?」
「は、はいっ…」
こんな場所で彼に会うと思っていなかったのは桜乃も同じで、出会った動揺がまだ収まらず、動悸を強く自覚しながらも、彼女は相手に向き直って深々とお辞儀をした。
「こ、こんにちは、柳さん…すみません、びっくりしちゃって失礼を…」
「いや、構わない。随分熱心に見ていた様だったからな…こちらこそ、邪魔をしてすまない」
謝る少女に優しく笑うと、彼は相手がさっきまで見ていた抹茶缶へと目を向けた。
「ほう…抹茶を見ていたのか」
「はい…素人ですから、よく分からなくて…」
「茶道を始めるつもりなのか?」
「い、いえ、今回は違うんです…あ、そうだ、あの…」
問われて返答に窮した桜乃は、はた、と何かを思いつき、相手の男におずおずと問いかけた。
「柳さんは、お好みの抹茶ってあるんですか?」
「好み…?」
「えと…抹茶って言ってもこんなに色々と名前があるじゃないですか…やっぱり柳さんみたいに茶道に詳しいと、好みの銘柄があるのかなーって」
「ふむ…そうだな」
軽く口元に手を当てると、相手は少し考え込んだ。
「確かに、銘柄によって多少は香りや味は異なるが…決めるのは本人の好みだからな。試してみて好きなものがあれば、それを選ぶのが一番だろう。俺は…そうだな、これを選ぶことが多い。香りは強いが、くどさのない清廉な味わいが気に入っている」
柳が選んだ抹茶缶を受け取り、桜乃はしげしげとそれを眺めた。
(うわ…三千円…結構するんだなぁ……でも、柳さんが選んだものだって思ったら、それだけで凄く美味しそう…)
「どうした?」
無言で缶に集中している少女に柳が不思議そうに声を掛け、相手はぱっと顔を上げて照れ臭そうに笑った。
「すみません、柳さんが、これが好きなんだなーって思ったらつい…じゃあ、これにしようかなぁ」
「ふ…お前の好みに合うかは、責任が持てんぞ?」
「大丈夫です、これにします!」
にこっと笑って、大事そうに缶を胸元に抱える少女の仕草に、微かに男の表情が揺れる。
喜びと不安が入り混じった様な複雑なそれは、少女に気取られることはなかった。
「あ…ところで柳さんもここに何か探しものですか?」
「うむ…俺は茶菓子を少し…」
「あ、お茶菓子ですか」
この店は茶葉の専門店だが、お茶請け用の菓子類もある程度の品揃えがある。
数は決して多くはないが、品質に力を入れているというのが店の売り文句だ。
柳のような者がその品を求めて出向いてくるのだから、確かにその自負は信用出来そうだ。
桜乃は、菓子類は買わないまでも、どんなものがあるのか純粋に興味が沸いた。
「あのう…一緒に見てもいいですか?」
「ん?…ふむ」
即答はせず、柳は少しだけ何かを考える素振りを見せると、一度深く頷いた。
「そうだな…その方が」
「はい?」
「いや、何でもない…では、一緒に来るか?」
「はい!」
桜乃は柳に連れられて、茶葉のコーナーから離れた、菓子類を置いた一角へと移動する。
和菓子類はガラスケースに入れられて展示されており、様々な色合いの物が、宝石のように綺麗に並べられていた。
「冬にちなんだものなんですね、今は」
「ああ…もうじき春のものも入荷する筈だが、今はまだ早いようだな」
「でも綺麗です…繊細ですねー」
ケース越しに菓子を眺める少女の様子を微笑みながら見つめ、柳も同じ様にケースの中へと注目した。
細やかな職人の仕事が一つ一つの菓子の中に生きている。
こういう物は、口で食するのも勿論だが、目で食するのもいい。
「茶請けというのは本来は茶を活かす為のものだから、脇役とも呼べるのだが、こういう風に見るとそんな事は全くないな…」
「そうですね、見るだけでも凄く楽しいし…私だったらお菓子の方に集中しちゃうかも」
恥ずかしげに、しかし飾ることもなく本音を口にする少女に、自然と視線が引き寄せられる。
「……」
「あ、あれ可愛いですねー…うーん、どれも食べるのが勿体無いなぁ」
ケース越しにお菓子を指差して笑う桜乃の傍に歩み寄り、柳も彼女と同じ目線の高さでケースを覗き込んだ。
「どれが?」
「ああ、あれで…」
隣に感じた相手の気配に、くるっと首を巡らせた桜乃は、すぐ傍に相手の横顔があるのを見てどきりとする。
(うわぁ! や、柳さんの顔がすぐそこに…っ)
ケース内の灯りに照らされた相手の端正な顔が、桜乃の視神経を直撃して、彼女は一気に顔を紅潮させてしまった。
向こうは、どれを桜乃が指したのか、まだケースの中を覗き込んで探している。
「…あの白いものか?」
「は、はい…」
「ふむ…」
何を考えているのか、じっと考え込んでいる柳にちらちらと視線を送りつつ、桜乃は他の場所へもそれを送り、自分の彼への注目を誤魔化そうとした。
そんな彼女が目を留めたのは、店の外、柳の向こうにあるガラス窓越しに映る真向かいの通りの洋菓子店のノボリだった。
(…やっぱり洋菓子店の方が宣伝が大きいよね)
バレンタインデー…か。
「…竜崎?」
「あ…はい?」
呼びかけた男が、何を見ているのかと同じ様に窓へと目を向ける。
「…何を見ていた?」
「あ、あっちの店ですよ、そう言えばもうすぐバレンタインだなーって」
「ああ、そうか…もうすぐだな、確かに」
「やっぱりこの時期には洋菓子店の方が盛り上がっていますよね、贈り物の主役はチョコですから」
「ああ……そうだな」
肯定している男の表情が、しかしあまり優れない。
「…もしかして、チョコ、苦手ですか?」
「いや、そんな事はないのだが…この時期は正直、見るだけで食傷気味でな…」
「……はぁ」
少し考えて、桜乃はすぐにその理由に思い至った。
「柳さん、沢山貰いそうですよねぇ…テニス部の皆さんは全員、もてそうです」
「他人に気に掛けてもらっているという事実は、有り難いのだが…正直知らない人間から物を貰うというのは落ち着かないものだな」
「成る程…」
「元々バレンタインというものは、ローマ皇帝の迫害で殉教した聖ウァレンティヌスに由来する記念日で、ヨーロッパでは男女の別なく愛する人に贈り物を贈る日だ。こうもチョコばかり贈るのは日本独自の文化だな」
「チョコじゃない方が嬉しいですか?」
「いや…貰う物ではなく、やはり相手次第だ」
苦笑して答える男に、桜乃はふむふむと頷き、そしてにこりと笑った。
「そうですか…でも、やっぱり嬉しいことですよね」
「ん?」
「だって、沢山の好きっていう気持ちを貰えるんですよ? 素敵じゃないですか、そういうの」
「……」
柳にとっても意外な答えだったのか、彼は珍しく瞳を見開いて桜乃を見つめた。
「あ、あれ? おかしかったですか?」
「いや…そう、だな…お前の言う通りだ」
言いながらも、柳は相手に視線を合わせようとはせず、横へとそれを逸らした。
不快感などによる態度ではなく、相手の言葉に対する驚きと、照れ臭さ…そして少しだけの寂しさで。
好意を持つ人が他人からバレンタインの贈り物を貰ったら、多少は気になるものだろうが、彼女はそういう事が無いのだろうか……それとも、俺は彼女にとってそういう対象ではないのだろうか?
「…ああ、いけないな。つい長く話し込んでしまった」
「あ、いえ、こちらこそ」
揺れる気持ちを持て余し、柳は早々にこの話題を切り上げようと、和菓子の選別へと戻った。
そして桜乃が再び色々な和菓子を見ては楽しんでいる間に、柳は店員と何事か話しつつ、幾つかの和菓子を買った。
「どれを買ったんですか?」
「ん? それは内緒だ」
「わ、そう言われると何だか気になっちゃいます」
「ふふ」
そして桜乃は抹茶を、柳は和菓子をそれぞれ大事そうに抱えると、彼らは店先でそれぞれの帰り道へと別れた。
「ではな竜崎、付き合ってくれて有難う」
「こちらこそ、です。アドバイス、有難うございました」
二人が別れ、互いの道を歩み始めてからそれぞれの姿が見えなくなった時、不意に、二人は天を仰ぎ、同じ様に呟いていた。
『バレンタイン…か』
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