バレンタイン当日
「やっぱり今年も来たか…」
「確定事項に等しいものだったから、今更驚くこともなかったがな」
 ど―――――――ん
 擬似音が部室に響いているかのような、壮絶な光景…それが立海男子テニス部部室の中で見事に披露されていた。
 幸村達レギュラー部員の名前を記した紙袋やダンボール箱の中に、チョコやその他の菓子類がぎっしりと詰め込まれている。
 これをどうやって消費しろと?と真田は渋い顔をしているが、くれる相手の気持ちを考えると無碍に断れない。
「消費もそうだけど、お返しが大変だね」
 苦笑しているのは部長の幸村だ。
 テニス部内で最も多くの贈り物を受け取っている強者は、その表情のまま、一つ一つのチョコを取り上げてはメッセージを確認している。
「これだけの人数の名前と贈り物を把握するのは大変だな…それに、よく知らない人の名前も多いし、何だか申し訳ない」
 部長の意見に、ジャッカルや仁王も賛同する。
「確かに…応援してもらっているとは言え、そうそう顔と名前が一致する女子はいないな…」
「応援席は遠いし、騒がれるわけにもいかんしのう…」
 そんな男達の言葉に混じり、嬉しそうな丸井の声が響いた。
「へへ、けどコイツのは特別〜、もしお前ら要らないんなら、俺貰うけど〜?」
 彼が得意げに頭の上にかざしたのは、綺麗な薄いピンクの化粧箱を赤いリボンで包んだ贈り物。
 それを見た他の男達が一斉に首を横に振った。
「あげませんよ、当たり前でしょう」
「ってか、俺だって要らないんなら欲しいッスよ!」
「いくらブン太のおねだりでも、それは駄目」
 そういう物には普段あまり執着を示さない幸村でさえも、丸井の願いを拒絶した珍しい光景に、一人だけ意外そうな視線を向けた男がいた。
 柳蓮二だ。
「…珍しいな精市。お前がそこまでこだわるとは、余程有名な会社のチョコなのか?」

『……』

 し――――――ん、と全員が一気に無言になった事で、更に柳は、ん?と首を傾げる。
「…どうした? みんな」
「蓮二…本気なのか?」
「? どういう意味だ、弦一郎」
 驚きを隠さない真田に、更に疑問を露にする柳の様子に、はっと気付いた幸村が声を掛けた。
「待って、弦一郎。そう言えば蓮二は、暫く部室の中にいたから貰っていないんだよ、きっと」
「む…そう、だったか」
「?」
 まだ納得出来ていない柳に説明したのは丸井だった。
「へっへー、さっきさぁ、おさげちゃんが来たんだよぃ。そいで、俺達にコレ配ってくれたんだー! 手作りチョコだぜぃ!」
「相変わらず、律儀な方ですね」
「!」
 みんなが何故それだけあの贈り物に執着しているのかをようやく理解した柳だったが、それでも彼はなかなか納得の笑みを浮かべることは出来なかった。
「竜崎が…?」
「ああ、今は外で練習を見学しているよ。きっと蓮二に会えば君の分のチョコもくれる筈だよ」
「そうか…楽しみにしていよう」
 そう言いながら、柳は席を立とうとはしない。
「あれ? 行かねぇの?…柳もあいつはすっごいお気に入りだったじゃんか」
 不思議そうに尋ねる丸井は、まるで納得いかない様子で相手を覗き込んだ。
 丸井程ではなくても他の男達も似た反応を見せたが、柳はそれでも動かない。
「残念だが、この資料をまとめるまではもう少しだけかかりそうだからな。今日中に会えればいいのだから、焦る必要はなかろう」
「うお、余裕の発言」
 ジャッカルがそう言ったところで、幸村がさぁとみんなに声を掛ける。
「俺達も外に出て練習を始めよう。蓮二も終わったら来てくれ、焦る必要はないから」
「すまないな、精市」
 ぞろぞろと仲間達が部室から退出した後は、しん…と静かな空気が柳を包んだ。
「……」
 余裕だと? 違う。
 こんなに胸が苦しいのに、余裕などあるものか…!
 彼女は…俺の姿が無いことに気付いている筈だ。
 そして、彼らの内の誰かからでも、俺がここにいることも聞いている筈だ。
 作業を続けていた柳の手が、ぴたりと止まる。
 それでも、お前はここへ来ない…来て、くれない…
「…ふぅ」
 テニスについてのデータのまとめなど、今の気持ちを抑えることに比べたら、何の苦労でもない。
(…竜崎…お前の俺に対する想いを知るにはどうしたらいい?)
 情報収集にはそれなりに長けていると自負していた俺だが、お前にだけはそれが通じない。
 笑っている時も、テニスをしている時も、お前について知ること以上に、より知りたいことばかりが増えてゆく。
 お前という存在は未知数だ。
 他のテニス選手の情報を得るのは、こんなにも容易いというのにな…テニスの試合の様に、人の心のやり取りというものは上手くいかない様だ。
 す、と視線を上げた先には、自分の名前が記された箱達。
 その中に詰め込まれた数多くの気持ち達…大切にするべきものなのだろうけれど。
(俺が得たいのは、唯一つ…一つだけ…)
 これだけの想いを前にして、俺はその一つの願いを叶えることも出来ないのか?
(……ふ、参謀の名が泣くな)
 寂しげに笑う男の耳に、かちゃ…と部室のドアが開かれる音が聞こえた。
「ん?」
 誰か忘れ物か…?と顔を向けた柳の視界に映ったのは、ドアからこっそりと顔を覗かせてこちらを伺う桜乃の顔だった。
「竜崎…!?」
 今まで考えていた相手のいきなりの訪問を受けて、少しだけ慌てた柳だったが、相手はそんな彼の様子に気付きもせず、ひたすらに部屋の中を覗いている。
「こ、こんにちは、柳さん…あの、今、柳さんだけですか?」
 少し顔を赤くした少女が、首を傾げて尋ねてくる様子が、やたらと可愛く見える。
「あ…ああ、そうだが…どうした?」
「良かった、少しだけお邪魔してもいいですか?」
「それは、構わないが」
 柳以外には誰もいないのに、桜乃はきょろっとまだ辺りを気にしながら部室の中に入ってきた。
 少女の肩には大きなバッグが下げられており、柳の傍まで来ると、彼女はそれをよいしょっと床へと置いた。
 そちらへ視線を向けると、あのピンク色の包装紙に包まれた箱が入っている。
 しかし、他のメンバーに見せられていた物より随分と大きな形だ。
「…それは?」
 不思議に思って尋ねた柳に、桜乃は箱を取り出しながら答えた。
「バレンタインです! はい、これ、柳さんにです」
 差し出された箱は、見ていた物の裕に二倍の大きさはあった、が、さして重くない。
「良かった…なかなか渡せなかったんですよ。柳さんが一人の時を狙ってたんですけど…」
「え?」
 それは渡すタイミングを図っていたということだろうか…?
 もしかして、俺だけに渡していなかったのは…
「何故…」
 率直な質問に、桜乃はえへ、と照れながら笑う。
「柳さんのは特別製だから…チョコじゃなくて、抹茶ケーキにしてみました。だから結構かさばっちゃって…」
「え……」
「あ、他の人には内緒ですよー」
 騒動になりそうですから…と笑う相手に、柳が硬直する。
 俺のだけ…特別製?
 考えて、はっとする。
 もしかして、あの日、彼女が抹茶を買っていたのは…もしかして…
「その…竜崎?」
「はい?」
「…お前が抹茶を選んでいたのは…その…」
「あ…」
 はた…と手を口に当てた少女の自然な仕草が、何より素直な答えを教えてくれた。
 やはり、そうなのか…
「やっぱりばれちゃいましたか…本当は抹茶チョコを作るつもりだったんですけど、柳さんの意見を聞いて予定変更しました」
「…大変では、なかったか?」
 予定を変更することで、彼女の手間隙もその分掛かっただろう、それに、あの抹茶は中学生が買うには結構な出費だった筈だ。
 気持ちは金額ではない、とは言うが、やはり値段を知っている者としては、それだけ気を遣ってくれたことは有り難い。
「いえ…そんなのは大したことじゃないんです…あ」
 不意に、柳の傍にあった例のチョコレート山積みの箱と袋を見つけて、桜乃がそちらにたたっと駆け寄り、覗き込む。
「柳さんのですね? うわ…やっぱり沢山…スゴイなぁ…」
「う…い、いや、しかし、俺は…」
 何故、自分がここまで動揺しているのか…分からない。
 別に悪い事をしている訳ではないのに、何故か強く否定したくなる。
「その……」
「『好き』って気持ちが一杯なんですね、柳さん。この中に一杯詰まってるんです…でも」
 くるんっと首を巡らせて、桜乃がにこりと笑う。
「私も負けないくらい、一杯、一杯詰め込んでみました。自分の気持ち」
「!!」
「この全部のチョコの中に入っている気持ちより、私の気持ちが沢山伝わるように…」
 軽く自分の頬に手を触れて恥ずかしそうに微笑む桜乃が、現実に存在するとは思えない程に清らな存在に見え、柳はそれを一瞬目にしたことですら罪悪感を覚えた。
 そして罪を悔いるどころか、悦びすらも覚え、口元を緩めてしまう。
「竜崎…」
「え、と…目には見えないものですけど…」
 今更照れても仕方ないとは分かっていても、それでも照れずにはいられない桜乃の前で、柳はかたんと席から立ち上がると、何故か相手に背を向けた。
「?」
 きょとんとしている桜乃の前で、彼は背後にあった自分のロッカーの前に立つと扉を開け、中から小さな箱を取り出して再び桜乃に向き直った。
「柳、さん?」
 そのまま彼女の目前まで歩み寄ると、柳は微笑みながら彼女にその箱を差し出した。
「では、これは俺からのお返しだ」
「わ…」
 笑う柳から受け取ったのは、黒の正方形の形をした、掌からややはみ出る程度の大きさの小箱…
 見覚えがあった桜乃は、少し考えて思い出した。
「あれ…これ、あの日に柳さんが買っていた…」
 お茶菓子…だったよね?
 見上げてくる桜乃に、柳は浮かべていた笑みの中に微かに苦味を滲ませた。
「すまないな…手作りではなくて」
 せめて、あの日、お前が気に入っていた物を選んでみた、と言う相手に、少女はぱあっと顔をほころばせる。
「うわぁ…いいんですか? 柳さん!」
「ああ…お前から貰った物に比べたら、小さいものだがな…だが」
「…え?」

 ぎゅうっ

「…・!?」
 抱き締めた小さな少女の耳元で、柳が優しく囁いた。
「俺も、一番大きな『好き』は、お前にやろう…見えないが、俺の中に在るありったけの想いだ…こうしたら、少しはお前にも伝わるだろうか…?」
 こんなデータは持っていないからな…実際やってみるしかない、と柳は笑う。
「や、なぎさん…」
 暖かな腕に包まれて、大きな胸に抱き締められて、桜乃はぼうっと頭が真っ白になってしまう。
 この感覚…覚えていたいのに、あまりに嬉しくて気が遠くなりそう……
 でも、私…言わないと…
「あの、柳さん…私…」
「ん…?」
 聞き返す男は、相手を手放す気配はない。
 この手に捕らえた幸福は、誰にも渡すつもりもなければ、逃がすつもりもない…
「素敵な事だって言ってたけど…私、本当は…不安でした。柳さんが沢山の贈り物、貰うこと…」
「……」
「柳さんが人気があることは喜ばないといけない筈なのに、心からは喜べなくて…私、心狭いですね…ごめんなさい」
 桜乃の小さな謝罪の声に、ぞくっと甘やかな震えが男の背に走った。
 何だ、これは…
 試合に勝利した時の歓喜ですら足元にも及ばない程の感情の昂ぶりに、背中だけでなく柳の全身がぶるっと震えた。
 駄目だ…こんなものを知ってしまったら、もう俺は…引き返せない…!
「…竜崎…俺は…」
 欲しくなった…お前が…本気で欲しくなってしまった……
 人の執着は、ともすればその者の視界を狭め、破滅すらも招く。
 しかし、それでも、俺は…
「え…?」
 ふ…と顔を上げた桜乃の額に、柳がそっと唇を触れさせた。
 ほんの微かな…とても優しい接吻だった…
「…っ!」
 瞳を大きく見開く桜乃に、再び囁きかける男の声…
「とても嬉しい…お前の気持ちが…」
「や…柳さん…」
「…だから、もう少しだけ…このままで」
 このまま、俺の腕の中にいてほしい…
「…はい」
 自分も腕を回し、ぎゅう、と抱き締めてくる少女があまりに可愛くて愛しい…
 時など、止まってしまえば良いのに…
 在り得ないことだと知っていながらも、冷静な参謀は今だけはいつもの自分を忘れ、愛しい存在を優しく抱き締めていた……






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