Master of Master
「え? 臨時バイト?」
或る日桜乃は、学級の友人の一人から、珍しい頼まれ事をされていた。
「そうなの、ウチの従兄弟の家がやってるトコなんだけど、その日がどうしても人手がなくて困ってるの。私も丁度家族で旅行に行っちゃうし、何とかならない?」
「でも、中学生は基本、バイト禁止でしょ?」
「家人の手伝いってことなら結構上手く誤魔化しきくのよ。ねぇ、ちょっとだけ手伝ってもらえない? 休日だから、他の知り合いもみんな捕まらなくって」
「うう――――ん…」
頼まれるとなかなか断れない人の好い性格である桜乃は、結局それを保留にしたまま自宅へと戻った。
「そういう訳なんだけど…」
「ふぅん? 喫茶店のバイトねぇ」
保護者に内緒にする…という思考を持たなかった桜乃は、早速帰宅した祖母に事の次第を報告して許可について伺いを立てていた。
「で? 何をするって?」
「基本的には品物を運ぶだけのウェイトレス。時間があれば裏方で洗い物をする程度で、一日だけ」
「タダ働きかい?」
「おこづかいぐらいの賃金はくれるって」
そんなに長く考える素振りもなく、祖母の竜崎スミレはあっさり許可を下した。
「ま、いいんじゃないかね、社会見学と思えば」
「いいの?」
「継続じゃないなら構わないよ。たっぷり世間に揉まれて稼いどいで。喧嘩するなら負けんじゃないよ」
「いや、別に喧嘩買いに行く訳じゃないんだけど…」
簡単に許可を貰った桜乃は翌日には友人にその旨を報告した。
「という訳で、許可は貰えたから、私やってもいいよ?」
「ホント!? 助かる〜〜、じゃあお願いね! あ、お店の場所とかはこのチラシに載ってるからね」
「うん…」
何気なくそれを受け取った桜乃は、一瞬、目が点になってしまった。
(……何、コレ)
心の中で呟く。
貰ったチラシには店の名前と簡単なメニュー、地図が掲載されていたのだが、桜乃が注目していたのはその中の地図だった。
近い…
青学に、という意味ではない。
(近い〜〜〜っ!! 立海のすぐ傍にある〜〜〜!!)
心の中で、桜乃は悲鳴を上げた。
校区内…ということであれば、別に文句はないのだが、地理的には立海の校舎とかなり近接している、更に悪いことには通学路に面している!
青学の生徒である桜乃にとって、実際は異なる学校区内でのバイトは、寧ろ好都合の筈なのだが、今回ばかりは事情が違った。
(だっ…大丈夫だよね…幾ら何でもそうそう都合よく皆さんにバレるなんてことは…)
「桜乃、どうしたの? 何か顔色が物凄く悪いけど…」
「うっ、うん……大丈夫…多分」
「は?」
「ううん! 何でもない…! ちょっと知り合いが近くにいるから…」
「大丈夫よー、立海の生徒はよく使うみたいだけど、青学の生徒なんか滅多に来ないみたいだし」
(イヤ―――――――――――ッ!!!!)
気を楽にしようという心遣いで言ってくれたのだろうが、桜乃にとってはダメ押しだった。
そうではない。
青学の生徒が問題ではないのだ。
桜乃にとって大問題になっているのは立海…そう、立海大附属中学男子テニス部のレギュラー達。
彼女は青学の生徒でありながら、立海の学生である彼らと非常に深い縁をもっており、非定期ながらも足繁く通っているのである。
足繁く通っているだけに、無論、彼らとは親しい先輩と後輩の関係。
日曜であっても部活動に精を出す彼らは、きっと通学路を利用するだろう。
もし、その帰り道にでも、店に立ち寄るなんてことがあれば…・そして、そんな彼らにウェイトレスをしている姿を見られたとなれば……
(ダメダメダメッ!! 恥ずかし過ぎる〜〜〜!)
寧ろ、青学で親しくない顔見知りに見られた方が、ましというものだ!
同級生の紹介だったから、てっきりこの辺りの地区の話だと思っていたのに…だったら、自分は一年生だし、そんなに学内でも知己が大勢いるという訳でもなかったから引き受けたのに……
完全に裏目に出てしまった。
(うう…青学の人よりあの人達に見られる可能性の方が恐いよ〜〜〜)
一部の男達はそれでも好意的に見てくれるだろうけれど、もしあの副部長さんに見られたとなれば、一時間近い説教は覚悟しなければならないだろう……因みに正座で。
それにもう一人…参謀と呼ばれ、且つ、達人という呼び名を持つ男、柳蓮二…
彼も真田と並んで品行方正を地でいく男であることから、中学生がこういうバイトに就くことには、あまりいい顔をしないかもしれない。
(柳さんにだけは、見られたくないなぁ…)
別に彼が嫌いという訳ではなく、寧ろ逆である。
立海に通うようになってから、物静かな素行と冷静な思考、そして優しい心を持つ彼と話す機会を得た。
実は柳の事については、多少は乾から話を聞いてはいた。
参謀、達人(マスター)、教授…知性の高さを伺わせる通り名を幾つも持ち、それに負けぬ深い知識、知恵をもって立海を常勝へと導いてきた人物。
最初はそんな言葉から『冷酷な人物』をイメージしていたのだが、立海に通って言葉を交わす内にそんな事はないのだと知った。
テニスの試合に於いては確かに機械をも思わせる正確さ、冷徹さが面に出るが、日常に於いては普通の人と変わりなく言葉を交わすし笑顔も浮かべる。
その笑顔に惹かれたのかもしれないし、何かと不慣れな自分に心を砕いてくれる優しさに惹かれたのかもしれない。
正直、どうして自分がこんなに彼に気に入られたのか分からないが、今、自分と柳は特に親しい間柄になっている…恋人同士…と言っていいものだろうか?
正直、秘密を持つのは心苦しいが、恥ずかしいものは恥ずかしいもの。
しかし、引き受けてしまった以上は……
(こ、来ない事を祈るしかないよね……)
ホワイトデーを過ぎた休日…
「よし、本日の練習は以上」
『有難うございましたっ!!』
休日であっても、立海テニス部は決して進歩への歩みを止めることはない。
この日も、部員達は参謀・柳の綿密に立てられたスケジュールに従って練習に打ち込み、ようやくそれを終えたところだった。
皆がそれぞれ解散していく中で、柳も手持ちのノートを抱えながら部室へと足を向ける。
「お疲れ、蓮二」
「精市。ああ、お前こそ、みんなに適切な指導をしてくれて有難う。お前が来てくれてから、やはり部員達の上達は目覚しい」
柳は薄い笑みを口元に称えて、率直に部長を賞賛した。
「そうなのかい?」
「俺はどうにも理詰めになってしまうし、弦一郎は多少言葉が少ない部分があるのでな…お前の教え方からは学ぶところが多い」
「ふふ、達人から言われるとは光栄だね」
「からかうな、精市」
柳の薄い笑みが苦笑に変わったところで、幸村は話題を変える。
「今日は、蓮二はこれからどうするの?」
「ん? そうだな…たまには図書館に足を伸ばそうかと思う。特に赴く用事はないのだが、雰囲気が落ち着くのでな」
「そうか」
「精市は何か予定があるのか?」
「お母さん達の買い物のお付き合いだよ。今までずっと入院していたからね、家族と一緒にいる時間をなるべく持つようにしているんだ…丁度ホワイトデーも終わって一段落したからね」
「そうか…いいことだ」
親友らしい予定に嬉しそうな笑みを浮かべた柳は、それからノートを抱えなおして、ふと脳裏に桜乃の事を思い浮かべた。
(ホワイトデーと言えば…そう言えば、竜崎は何をしているだろうか…)
当日は彼女の部活があり、今日は自分達の部活で会えない日が続いているが、どうしているだろう?
バレンタインデーには既に互いに贈り物を贈り合っており、それだけにホワイトデーに何かを贈るという切っ掛けを得るに至らなかったのだが、いざ当日が過ぎてしまうと何となく気になってしまう。
『ホワイトデーには、部活があるから立海には行けないんです。お返しなんて気にしないで下さい、私はもう柳さんから、十分過ぎる程に気持ちを頂いていますから…』
(尋ねた時には、ああ言われはしたが…周りが騒がしいと却って寂しくなるな……)
言われた時には、相手の素直な気持ちが嬉しくて、つい抱き締めてしまったのだが、もしかして無理してそう言ったのではないかと今になって疑念が湧き上がる。
それに何より、他人への義理を渡しておきながら一番大切な人に何もしていないという事実が、柳の心に重くのしかかっていた。
(ホワイトデーそのものが日本だけの風習で、菓子業界に踊らされている事も知っている筈なのにな。全く、自分で自分が分からなくなる…)
考えれば考える程に少女の姿が思い出され、柳の心が疼いた。
会いたい…いや、会えないまでも声を聞けたら……
どんなに冷静な参謀であり、テニスの達人であっても、想う気持ちを止める術は知らない。
柳は部室に入ると、ロッカーの中に入れてあった携帯電話を取り、桜乃の携帯電話に掛けた…が、何度コールしても相手が取る気配がない。
(家か…?)
何となく気になり、今度は自宅へと掛けてみる…と、今度は反応があった。
「もしもし? 柳ですが…あの………え?」
桜乃と話せないかと切り出す前に、何かを相手に言われたらしい柳は、ぴくんと肩を揺らせた。
「それは……何処で、ですか?」
何とはなしに、声が若干震えている気がする。
何か物凄い事態が生じているのだろうかと他の部員が見守る中で、何かを聞きだした柳は携帯の通話ボタンを押すが早いか、凄まじい勢いで着替えを始め、挨拶もそこそこに部室を飛び出して行ってしまった。
「…何だぃ、ありゃあ」
「さぁ…」
ジャッカルや丸井が唖然とする脇で、真田が幸村に問い掛けた。
「…何か急用があったのか?」
「図書館に行くと言っていた筈だけど…目当ての新刊でも入ったのかな?」
何にしろ、あの冷静な柳があれだけ慌てるなんて、余程珍しいものなんだろう…という話で落ち着いたが、それは一部正しく、一部誤りであった。
珍しい…それは合っている、しかし、本ではなかったのだ……
「有難うございましたー」
チリーンとドアベルを鳴らしながら客が去っていき、桜乃はその背中に向かって丁寧な送りの言葉を投げかけていた。
日曜の午後ともなれば、人で賑わうのではないかと思いきや、予想よりは客の入りは少なく、桜乃は肩透かしを食らった感じだった。
マスター一人にウェイトレス一人であるが、これなら十分にこなせる。
今日の桜乃はおさげは普段と変わらないが、明るい色のスカートにエプロン姿という出で立ちは、可愛さの中でちょっとした女性の色香も漂わせていた。
最初は照れ臭いものだったが、誰も自分を知らない場所だという気楽さもあって、少しずつ動きも滑らかになっていった。
人が混まなかった分慌てることもなく、徐々に要領も掴めてくると、意外と面白い仕事だ。
「有難う、随分と慣れてきたね。客もいなくなったし、少し休んだらどうだい?」
喫茶店のマスターは壮年の男性で、人当たりがよく、初心者の桜乃にも丁寧に仕事の内容を教えてくれた。
まぁ、そういう人となりだからこそ、喫茶店のマスターという職を選んだのだろう。
「他にやることはありませんか?」
休息を勧められた桜乃だったが、今はこの滅多に経験出来ない仕事を楽しみたいらしく、他の仕事を求める返事を返した。
「え? うーんそうだねぇ…じゃあ、悪いけど外を簡単に掃除してくれるかな。君みたいに可愛い子を見たら、入ってくる客がいるかもしれないしね」
「そ、そんな事はありませんよ…」
一瞬、外に出て誰かに見られるかも、という危惧を抱いたが、辺りに気を配りながらすぐに作業を終わらせたら大丈夫だろう、と自分に言い聞かせる。
「えと…じゃあ…」
「ああ、箒と塵取りは、レジの陰に置いているよ」
「はい」
お掃除アイテムを取って、入り口のドアへと向かい、扉を開ける。
チリーン…
ドアベルが鳴り、開かれた扉の前に、ぬっと一人の人影が立ちはだかり、桜乃の視界を塞いだ。
(あ、お客様…)
箒と塵取りを手にしたままだったが、桜乃はすぐに挨拶をしなければと顔を上げて唇を開いた。
「あ、すみません。いらっしゃいま…」
「……」
「せ……」
最後まで台詞を言ったのは見事だったが、桜乃の表情は完全に固まっている。
自分のよく知る人物が、入り口に立って自分を真っ直ぐに見下ろしていた。
「え…?」
どうして…柳さんの姿がこんな所に……?
私…疲れて幻覚でも見ているんじゃないかしら…
「竜崎さん? お客様かい?」
「はっ…はい?」
マスターは、カウンターの向こうからこちらの様子を察して、桜乃に断った。
「掃除はいいよ。お客様を先に御案内して」
「は、はい!」
反射的に頷いてしまった後で、桜乃は改めて目の前の男性を見上げ、確実にその人が自分の知己であることを認識した。
(うそ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!!!!)
本当はその場から逃げ出したい衝動に駆られたが、何とか敵前逃亡は踏み止まった。
しかし、一度伏せた顔はもう上げられない。
「あ、あの…お席へ御案内します、どうぞこちらへ…」
「ああ」
柳は相変わらずこちらを見下ろしている様子で、自分が席に案内している間もずっと、こちらの背中への視線を感じていた。
(うああああん! よりによって、一番見られたくなかった柳さんに〜〜〜!!)
少なからずショックを受けていた桜乃は、柳が席に着くと、メニューを手渡した。
柳編トップへ
サイトトップヘ
続きへ