「こちらがメニューになります…」
「ああ…ところで、竜崎」
「は、はい?」
 自分の動揺とはまるで正反対の、非常に落ち着いた様子で、柳は初めて桜乃へ声を掛けた。
「今日だけのバイトなのか?」
「そ、そうですけど…」
「……」
 相手の沈黙が、桜乃に聞こえない筈の叱咤となって襲い掛かってきた。

『大体、中学生が短期間とは言えバイトなどをするとは感心出来ないな。そもそも学生の本分は学業であって、生活費を捻出するなどの例外を除いては、小銭を稼ぐための労働は勉学に勤しむ時間を無駄にする点からも逆に害になる。それに服のセンスももう少し学生らしく目立たないものにした方がいいのではないか。嫁入り前の娘がそんな男の目をやたらと引くような服は公序良俗にも反して……』

 声に出して言われた訳ではないが、そういう幻聴が桜乃の耳に聞こえてきて、彼女は思わず前もって貰っていた許可証を柳に取り出して見せた。
「あ、あのっ、ちゃんと許可取ってますからっ! 学校にも届けてますし、保護者にもちゃんと…」
「知っている」
「…はい?」
 きょとんとする桜乃に、柳は肘をつきながら顔を上げ、軽く頷いた。
「お前が今日ここでバイトをすることになった経過は、概ね理解しているつもりだ」
「え、えっ…どうして…?」
 何処からそんな事を、と全く事情を飲み込めていない相手に、柳はさらりと答える。
「お前の祖母である竜崎先生から聞いたが…?」
(肝心の口止め忘れてた〜〜〜〜〜〜〜〜っ!!!)
 よく考えたら、立海の校区内とか何とかを心配するよりも、身内の口から情報が漏れる心配をするべきだった!!
 おばあちゃん、きっと柳さんから電話を受けた時点でこっちから喋っちゃったんだろうな…
「今日しかやらないという事で、興味が沸いた。お前も俺に内緒にしていたのだから、おあいこだな」
「う…ま、まさか他のレギュラーの皆さんもいらっしゃるんですか?」
「……いや」
 暫しの沈黙の後、メニューを見ながら柳は否定した。
「俺だけだ」
「そ、うですか…良かった」
 ほ…と胸を撫で下ろす桜乃に、男は不思議そうに目を向ける。
「良かった? 売り上げなどを考えると、少々理解に苦しむ答えだな」
「だって…恥ずかしいです、こんな格好を知っている人に見られるのは」
「ふむ?……カプチーノを貰おうか」
「あ、はい…では、メニューをお下げ致します」
 注文をとって、一応言葉はウェイトレス仕様に戻すと、桜乃は相手からメニューを受け取った。
「…竜崎」
「はい?」
「…よく、似合っているぞ?」
「っ!!」
「…だから、恥ずかしがる必要は無い」
「は、はい…」
 そんな事を言われてしまったら、余計恥ずかしくなるのに…と思いながらも、桜乃は嬉しそうに微笑み、カウンターへと引っ込んだ。
「マスター、カプチーノ一つお願いします」
「はいよ。彼は知り合いかい?」
「はい」
 マスターは早速カプチーノを作ると、桜乃の持つトレーにそれを置いた。
「随分、大人びた友達だね。先輩かな?」
「ん…そんな感じですね。あは、実は柳さんも、マスターと同じ、マスターって呼ばれているんですよ?」
「ほう! それは凄いね」
 そんな会話を交わしつつ、桜乃は危なげなく柳へカプチーノを持って行った。
「お待たせしました、カプチーノですね」
「ああ」
(あれ?)
 いつもなら、こういう場所にも欠かさずノートやら本やらを持ち込んで、暇さえあればそれらに目を通す程の『本の虫』の彼が、今日に限ってそういうアイテムを出している素振りがない。
(部活の帰りみたいだし、忘れてきたのかな…?)
 それにしても珍しいことだと桜乃が考えていたところに、いきなり慌しい音を響かせて、ドアの向こうから一人の男性が飛び込んできた。
「おいマスターいるかい!? アンタんとこの荷物運んでたトラックが、そこの近くの交差点で事故に遭ったらしいぞ」
「何だって!?」
 どうやら友人、あるいは知人らしい人が言った言葉に、マスターも驚きを隠さずにカウンターから飛び出してきた。
「大きい事故なのか!?」
「さぁ、人だかりが出来ててそこまでは…」
「そうか…少しだけでも状況を見に行きたいな…あ! 君!」
「…?」
 マスターは、桜乃が控えている傍で、ゆっくりとカプチーノに口をつけていた柳に声を掛けた。
「君、竜崎さんと知り合いで、マスターやってるんだって!? すまんが、少しだけ! 俺の代理をしてくれないか!?」
「え…」
「……」
 驚きの声を漏らしたのは桜乃で、柳は無言のままカップの中身を飲むのを中断する。
「あ、あの、マスター! 柳さんはそういう意味でのマスターじゃなくて…」
「この時間帯は殆ど客もいないから店番だけでいいから! 勿論お礼もするし、どうか宜しく頼む! 古い友人でどうしても気になるんだ!!」
 桜乃の詳しい説明を聞く間すら惜しんで、マスターはエプロンを脱ぐとあたふたと訪ねて来た男と一緒に外へと出て行ってしまった。
 友人の安否を気にするのは心情として理解は出来るものの、残された桜乃達にとっては由々しき問題だ。
「ええ〜〜〜〜っ!? あのっ、あのっ…!!」
「……」
 自分の軽はずみな発言でとんでもない事に!?と、パニックに陥っている桜乃の前で、柳はゆっくりと立ち上がった。
「…この時間帯と、店に面している道路の利用者の傾向、そして事故が生じたという場所と近接しているという事実などから、今現在、人が集中してここを訪れる可能性は十パーセント以下…メニューも、飲み物以外はほぼ出来合いのもので間に合う。不可能な事ではないな」
「え…?」
「とは言え、出来れば校章は隠したい。そのエプロンを借りよう」
「ええ…?」
 ぽかんと桜乃が口を開いて見ている前で、柳は何の迷いもなくマスターの黒のエプロンを身につけると、ゆっくりとカウンターへと入っていく。
「や、柳さん、まさか本当にマスターやってたんですか!?」
「俺にバイト歴はない。店を任せると言われたら断るが、振りをしろというのなら短時間であれば可能だ…しかし、少しは予備知識も必要だな」
 桜乃が柳を追いかけてカウンターへと向かうと、そこにインテリアとしても置かれていた幾つかの本を取り上げて中身を見ている彼がいた。
 頁を見ると、どうやら色々な種類のコーヒーの煎れ方を記している専門書の様なものらしい。
 そこから、簡潔に煎れ方をまとめている見開きの部分を探し出すと、柳の目がぱちりと開いた。
 きゅいい…ん…・と、まるで機械が回路を起動させたような音が響いた気がした…
 凝視したまま約五秒。
「よし」
(ええ〜〜〜〜〜〜〜っ!!)
 あっさりと本を閉じて元の場所に戻すと、柳は全て理解し終えたとばかりに悠然とカウンターに立つ。
 元々が身長が高く大人びた顔立ちのため、不自然さはまるでなく、何処か洒落た店でも十分にマスターとしても通じる程だ。
「……俺が平気なのに、何故お前がそんなに慌てる」
「で、で、でも…私が余計な事を言った所為で、柳さんが…」
 まだ平静を保てない少女が、青い顔で自分を見上げてくるのに対して、柳は可笑しそうに笑った。
「俺は凄く楽しいが」
「え…?」
 チリーン…
 ドアベルが鳴り、ざっと血の気が引いた少女の振り向いた先に、運命の来客…
 数人の奥様方らしき女性達が入ってきて、柳はおや、とばかりに視線を向けた。
「ふむ…記念すべき客人だ」
「う…っ」
「…お前の出番だぞ、竜崎」
「は、はいっ」
 これはもう腹を括るしかない。
 柳を信じようと桜乃は自分に出来る仕事をやり遂げる決意をし、客人たちを席へと案内して注文を取る。
「アメリカン、エスプレッソ、カプチーノです」
「分かった」
 まるで何年もそれを煎れ続けてきたベテランの様な態度で注文を受けた男は、一見、とても中学卒業間近の年齢とは思えない程に威風堂々としている。
「あら、マスターじゃないのね、今日は」
「あ…丁度席を外しておりまして、今は代理の方が」
「そうなの、でも結構イイ男ね、楽しみだわ」
 桜乃が客の相手をしている間に、柳は頭の中に叩き込んだばかりの知識を引き出し、受けた品の作成に取り掛かっていた……


「いや、すまなかったね。遅くなった」
 本来の店のマスターが帰って来た時には、あの婦人方は帰っており、のんびりとした時間が店を包んでいた。
「何かあったかい?」
「いえ、別にこれといっては…」
 あの女性達も、柳の煎れたコーヒーに満足した様子で帰って行ったし、それからも客はぼつぼつと訪れる程度であった…無論、文句無く帰って行ったのは言うまでもない。
「…御友人は大丈夫でしたか?」
「ああ、単独事故だったが、命に別状はないそうだ…肝を冷やしたが、生きていただけで良かった。君にも迷惑を掛けたね、ちゃんと賃金は払うよ。それと竜崎さんも、今日は本当に有難う、もうそろそろ上がってくれていいよ」
「いいんですか?」
「ああ、どの道今日は早めに店じまいをしようと思ってね。後でまた病院に顔を見せようかと」
「……」
 暫く黙していた柳は、マスターに声を掛けた。
「報酬の代わりに、一杯、自分で煎れたいのですが」
「ん?」
「…柳さん?」
 マスターと桜乃が不思議そうに見つめる前で、柳は相手に続けて願い出た。
「一杯だけ煎れて、少しだけ、ここで過ごす時間を下さい。いいでしょうか」
「…それでいいのかい? 分かったよ、じゃあその間に俺は病院へ行く準備をしようか」
 契約は成立し、柳はもう少しだけカウンターを自由に出来る権利を得ると、時間が惜しいとばかりに動き出した。
「柳さん? 何を煎れるんですか?」
「内緒だ…お前は少し座っていろ」
「…はい」
 促され、桜乃はカウンターの椅子にちょこんと座って、柳の仕事ぶりを見ていた。
 本当に…振りだとは思えない程に馴染んだ手つき。
(……何か、このマスターの柳さんもいいかも…)
 達人としてではなく、小さな店のマスターとして悠然と時を過ごすマスターか…
(そしたら、私もウェイトレスでお手伝いしたりして…って、何考えてるんだろ私…!)
 きゃーっと心の中で自分に突っ込んでいる桜乃の前に、柳がかちゃりとカップをソーサー付きで差し出した。
「ほら…」
「え…?」
 見ると、甘い香りが漂うホットココアで、白いマシュマロが浮いている。
(あ…このマシュマロ、ハート型だ…)
 こんなマシュマロは置いてなかった筈…と思いつつ柳を見たが、相手は背中を向けて片づけを始めている。
 偶然か…それともタイミングを図っていたのか…
 とにかく、これが柳が報酬の代わりに願ったものだったのかと知り、桜乃ははっと何かに気付いた。
(そっか…柳さん、きっと…)
 多分、間違いないと思いつつ、桜乃はにこりと笑って相手の心を受け取った。
「…いただきます」
「うむ…」
 少しだけ振り返り、桜乃の嬉しそうな笑顔を見届けると、柳も微かに笑っていた……

 心が温まる時間は過ぎ、店が閉店になると共に、その日の最後の客となった柳は桜乃と共に外へと出ていた。
「柳さんは、このままお帰りですか?」
「ああ、図書館に行こうと思っていたが、今日はもうやめておく…代わりに珍しいお前の姿も見ることが出来たしな」
「はう…ほ、他の方には言わないで下さいね」
「当然だ」
 あんなに愛らしい姿の少女は、誰にも教えずに自分だけの秘密にしておきたいぐらいなのに、わざわざ教える筈はない…だから、一人で来たのだ。
 心の中で白状し、こほんと軽く咳払いをする参謀に桜乃はじっと視線を向けていたが、不意に向日葵の様に眩しい笑顔を見せた。
「…ホワイトデーの贈り物、有難うございました」
「う…む…」
 ココアに浮かべた小さなメッセージを読み解かれ、柳はそれを予想してはいたものの、一瞬言葉に窮して、沈黙した。
「…義理をやって、お前に何もないというのは…気持ちが悪かったからな」
「…じゃあ、私も柳さんに貰ったバレンタインのお返しあげますね…ちょっと屈んでくれます?」
「ん?」
 身長差が激しい男にそう願うと、相手は疑問に思いながらも言う通りに腰を屈め、視線を合わせてくれた。
「何だ…」
 尋ねる男の言葉を待たず、桜乃は相手の首に縋りつくと、ちゅっとその頬に可愛い音をたてて口付けをした。
「!!」
 柳がそれに驚いている間に、離した唇でこっそりと耳元で囁く。
『柳さん、大好き…』
 甘く、はにかんだ声…
 僅か数秒の間で、正確無比な人間コンピュータは再起不能に陥る程のショートを引き起こした。
「おっ…お前は…」
 真っ赤になってしまった顔を手で押さえ隠しながら、柳は上手く継げない言葉をそれでも必死に投げかけた。
「…お前は、俺を心臓発作で殺す気かっ…!?」
 もう一歩で鼻血が出そうなところを何とかマインドコントロールで抑えたが、激しく脈打つ動悸が止まらない…!
「あ、いえ…そんなつもりは無かったんですけど…」
 いけない事しちゃったかな、と思いつつ、桜乃は弁明する。
「正直な気持ちを伝えたいと思って…嫌でした?」
「〜〜〜〜〜」
 最早言葉にならず、ぶんぶんぶんと柳は首を横に振った。
 この子はマズイ! 何の意識も自覚も無しに、男を夢中にさせる素質がある。
 俺のデータにも今までなかったことだが…解析以前の問題だろうな、これは。
「その…竜崎…」
「? はい?」
「……人前では…あまり、その…そんな事は言うな…言う相手も、俺だけにしろ」
 当たり前の事だが、これだけは確認しておかねばなるまい!
 心で叫んでいる柳に対し、桜乃はぽっと赤くなりながらすぐに答えた。
「あ、当たり前です! 柳さんだけにしか言いませんよ!…人前でも、恥ずかしくて言えません…」
「そ、そうか……なら、いい…」
 嘘のない言葉に胸を撫で下ろしつつ、柳はようやく落ち着いてきた心臓の鼓動を耳の奥で聞いていた。
 こんなに鼓動がよく聞こえる事など、試合の時ですらないぞ…しかし…
(…ホワイトデーも、悪くないな…)
 それが売り上げを伸ばす為の製菓業界の企画だったとしても、今日この時を過ごせた分については感謝してもいいぐらいだ、と柳は思った。
 不意に視線を落とすと、こちらを見つめてくる少女のそれと合い、同じことを考えていたのかは分からないが、相手も何かを察した様ににこりと微笑む。
(…この子相手に限るが、な)

 逢瀬の時は過ぎ、暫しの別れの時を迎えながらも、柳は満たされた心で桜乃と満ち足りた笑顔を交し合った……






前へ
柳編トップへ
サイトトップヘ