心を封じぬままに
「ふむ…今日もいい天気だな。降水確率はゼロパーセント」
立海大附属中学 男子テニス部レギュラー…参謀の呼び名を持つ柳 蓮二は、その日もいつもの時間に起床し、いつもの様に糊の効いたシャツに袖を通していた。
普段から和の世界に親しみ日本の古き良き文化を愛する男は、今時珍しい礼儀正しい日本男児であり、当然その佇まいは、ぴしりと一分の隙も認められなかった。
白いシャツを着たその上に、背広を羽織り、鏡の前でしっかりと身だしなみを整える。
襟をぴっと引いた時、手に冷たく固い感触が触れ、柳はその正体を認めると、そっとそれに指先を触れさせた。
「…お前とも、もう少しの付き合いになりそうだな」
それは鈍色のバッジ…
彼が三年間通い続けた、立海の校章を刻んだバッジだった……
「いよいよ卒業式間近だなぁ」
「でも高校もすぐ隣だし、あんまりピンとは来ないな…遊びに来たいと思えば来れんじゃね?」
この時期、三年生達の口の端に上るのは、やはり卒業に関する話題だ。
その日もジャッカルと丸井が廊下でそんな話をとりとめもなくしていた処に、丁度、同テニス部部員である柳が通りかかった。
「あ、柳だー」
「また図書室か? 柳」
「ジャッカル…それに丸井か」
二人の姿に目を留め、柳は足を止めて彼らの方へと身体を向けた。
「何をしている?」
「や、別に何も」
「卒業式について話していただけだよぃ。代表の挨拶はお前だろぃ? しっかりやれよー」
「ふむ…まぁ、俺が出来る限り、恥ずかしくない程度に任を果たすつもりだ」
謙遜の言葉を述べた柳だが、彼の知識や語彙力は並の大人では歯が立たない程に深く且つ膨大であり、また、本人もそれらを正しく使う知恵を備えている。
彼に任せていたらまず間違いはなかろうと、二人の仲間はまるで心配などしていなかった。
「しかしいよいよ俺達も卒業か」
「卒業式にはやっぱ花束が乱れ飛ぶのかな〜…俺はお菓子の方が嬉しいけど」
「お前の性癖を知っている者ならば、その点は抜かりないだろう」
「そ、そっか?」
「代償に、バッジを要求される覚悟はしておいた方がいいが」
「う…っ、それは流石に…」
大好きなお菓子を手に入れるチャンスにも関わらず、丸井は柳の言葉に一歩退き、あからさまに嫌な顔で首を振った。
「はは、流石の丸井もお菓子と心を引き換えにするのは嫌か」
「トーゼンだっての! お菓子は特売のチャンスがあるけど、気持ちは安売りするもんじゃないことぐらい俺だって分かってら」
「……重みのある筈の言葉が、お前が言うとどうしてここまで安っぽく聞こえるのだろう」
「ほっとけよぃっ!!」
怒鳴りつつも丸井はバッジとの交換を拒否したが、無論それには相応の理由がある。
立海の制服は言うまでも無くブレザーである。
男子の制服は校章入りのシャツとズボン、ネクタイに上から羽織るジャケットがセット。
そのジャケットの襟に留められるのが、校章バッジだ。
ジャケットを羽織るとシャツの校章が隠されてしまうことから、冬服の場合はバッジの付帯を常に義務付けられているのだが、このアイテムにはもう一つ、この時期ならではの重要な役目があった。
それは、卒業式恒例の『第二ボタン』授与の代理を担うこと。
第二ボタンは言うまでもなく、卒業式に女子が慕う男子に相手から譲り受けることを希うものである。
つまり、それを望むという事は、相手が好きだという告白に他ならず、そのボタンを得られた女子は、晴れて恋を成就させることが出来たことになるのだ。
しかし、第二ボタンというのはそもそも詰襟学ランでの話であって、ブレザーになると話は違ってくる。
立海の場合では、第二ボタンは襟に留められる校章バッジというアイテムに摩り替わるのだ。
「けどなぁ、俺達は自分で言うのも何だけど…結構狙われてるんだよな〜」
「ポケットにでも隠してもうやっちまったって言うしかないだろぃ? 相手は内緒って事でさ」
「やっぱりそうなるか」
ありきたりの逃げ技だけどなーと話す二人の隣で、柳は一時その話題から外れて窓越しに外を眺めていた。
景色を眺めてはいるものの、彼の意識はそこにはない。
(…彼女がここの生徒でなくても望んでくれたら…いや、あまりに虫が良すぎる…か)
同校の生徒でもない娘にそれを望むのは、あまりに欲が過ぎるというものか。
ここにはいない想い人に、柳は想いを馳せた。
今はまだ、あの学び舎にいるのだろうな……
「へぇ、今はこんな雑誌も出ているんだねー」
「関東圏の主な中学のは大体載ってるみたいだよ」
立海の柳が窓の外を見つめていた丁度その時…
立海から離れた同じ関東県内の青学の教室の中で、一人の少女が他の級友達と一緒に一冊の雑誌を覗き込んでお喋りに興じていた。
雑誌は、最近注目の中学校の制服について特集を組んだものらしく、表紙には大きく『卒業・入学特集』と書かれている。
成る程、去りゆく先輩、来る後輩達へアタックをかけたいと思う若人達をフォーカスにした書籍の様だ。
「青学は…あった! やっぱりオーソドックスなスタイルだってコメントされてる」
「今時珍しい学ランにセーラー服だもんね」
「でも、そんなに珍しいものでもないけど…制服よりも着る人の質でしょ、質!」
「そこはバッチリ、結構高ポイントみたいだよ、ウチの学校」
きゃあきゃあと騒ぐ級友達の盛り上がりからは一線引いたところで、桜乃は微笑みながら彼女達と雑誌の間で視線を彷徨わせている。
「ねぇ桜乃、桜乃は気になる学校とかないの?」
話題を振られ、桜乃はえっと一瞬戸惑ったものの、少し悩んだ後で一つの学校を挙げた。
「ええと…立海ってある? 神奈川なんだけど」
「立海…? 神奈川って…どうしてそんなトコロの学校が気になるの?」
「あ、テニス部の関係で、知り合いがいるんだけど」
「ああ、成る程ね〜〜…えーと…あ、あるよ」
「うわ、結構大きなところだね」
みんなが注目したページには、桜乃と呼ばれた少女が見慣れた、立海の校舎の写真が大きく掲載され、横のページには男女のモデルがその学校の制服を纏って立っている姿が写されていた。
「かっこい〜〜〜」
「結構、洒落てるトコじゃん」
みんなの高評価を聞きながら、桜乃は何となく嬉しそうに微笑んだ。
(えへ……柳さんはもっと格好いいんだけどな…)
凛とした顔立ちに、テニスで鍛えられた締まった肉体…そして大人顔負けの知識の深さ。
冷たく見えて、実はとても優しく繊細な心を持つ人。
(うう…褒めてばっかりだけど、でも本当だし…)
柳を褒めっぱなしの桜乃を他所に、他の女子もすっかり立海の特集項目に見入っている。
「女子のもカワイ〜〜」
「やっぱり私立は洒落てるよね〜〜」
「あ、見て、校章バッジが愛の証、だって!」
(……え?)
非常に気になるキーワードが耳に飛び込み、桜乃は雑誌へと視線を戻す。
「校章バッジ…?」
尋ねた彼女に、他の女子が写っていた男子モデルの襟元を指差した。
「ほらこれ、この学校ではこのバッジが第二ボタンの代わりになるんですって」
「何処でも同じ習慣があるんだね〜〜」
「そりゃそうだよぉ、やっぱり重要なイベントだもん。何処の学校にも似たようなジンクスはあるってば」
みんなが再び盛り上がっている間、桜乃は再び無言になって、ただじっとモデルの襟にあるバッジを見つめていた。
(そっか…立海はブレザーだったから関係ないと思ってたけど…そういうの、あるんだぁ)
校章バッジを求めることでの愛の告白…かぁ…
(いいなぁ…ロマンティックだよね)
ぽえん…と頭の中で思い浮かぶのは、やはりあの男…柳 蓮二だった。
寡黙で秀麗な男が、それを自分に与えてくれたら、どんなにか嬉しいだろう…
(欲しいけど…柳さん、モテるだろうからなぁ…)
立海の卒業式には参加出来なくても、終わった後でテニス部の皆さんをお祝いしようとは思っているから、トライ出来ないことはないんだけど……
(あーでも、行ったところでもうありませんでしたっていうのも十分考えられるし…自惚れが過ぎるかな)
後に行く分、ちょっと形勢不利かも…私は別に…あの人の恋人ってわけでもないのに。
「あ、おさげちゃんだー」
「おっ、久し振りだなぁ」
昼に見た雑誌がどうにも心の中に残り、桜乃はその日、久し振りに立海を訪れていた。
実は彼女が懇意にしていたテニス部レギュラーは殆どが三年生であり、既に彼らは引退している身ではあるのだが、まだ後進の切原に全ての責務を負わせるのは酷という事でいまだにウェアを纏ってコートに立っていた。
尤も、彼らがコートの中で試合をするという事は最早なく、今は専ら後輩達の指導のみだ。
「皆さん、お元気そうですね」
ジャッカルと丸井に挨拶をしている傍から、同じくダブルスペアの仁王と柳生も寄って来る。
「おう、よく来たのう竜崎」
にこっと笑って挨拶をする少女に、レギュラー達は一様に笑顔で彼女を迎える。
夏からの知り合いであり、妹の様に可愛がってきた彼女と接するのは、どうやら彼らにとっても精神の一服の清涼剤と言えるようだ。
「皆さんが試合をしていないと、何だか寂しいですね…分かってはいますけど」
「私達も、少しはコートを借りてまだ打ち合いとかはやっていますが…いつまでも後輩の道を塞ぐ訳にもいきませんからね…続きは高校でという事で」
柳生の言葉に、ようやく桜乃は再び笑顔を見せて頷いた。
「そうですね…皆さんがこれからもテニスをおやりになる事は聞いていますし…寂しがってもいられませんね」
そこに、桜乃の来訪に気付いた元部長の幸村も歩いてきた。
「やぁ、お久し振り竜崎さん。来てくれたんだ」
「あ、御無沙汰しています幸村さん…もうすぐ卒業式なんですね」
先程まで後輩達の指導を続けていた美しい若者は、いつもと変わらぬ微笑を称えて少女に頷いた。
「そうだね…ちょっと寂しいけど、その分また高校で頑張るよ。これでテニスを辞める訳じゃないからね」
「そうですね」
「高校の棟はすぐ隣にあるんだ。もし良ければ、これからも立海に来た時にはそっちのコートにも顔を見せてよ」
「わ、いいんですか?」
「ああ…と、そうだ、君が来ているなら蓮二たちも呼ぼうか」
「俺、行って来る!!」
幸村の提言にしゅぴっと手を上げた丸井が、そのまま彼らがいる方へと走っていく。
「うわ……お邪魔じゃなかったですか?」
「ふふ、俺達は実質的にはもう引退しているからね、ここにいるのはただのお節介…それに君が来ているのに呼ばなかったら、後でどんな責めを受けるか分からないから」
「はぁ…?」
来客が来た事を教えないのが、そんなに重要なことなのか…と桜乃が漠然と考えている間に、丸井に声を掛けられた他のレギュラー達も続々と揃ってくる。
「竜崎か、久し振りだな」
「こんにちは、真田さん…切原さんはどうですか?」
「少しは上に立つ者の自覚が出たらいいと思っていたが…やたらと自分ばかり試合をしようとする癖を何とかしないと、後輩達にいずれ弊害が出てくるかもしれん」
「だって見てるだけなんてつまんねーッス」
「赤也!!」
叱り付ける先輩に切原が肩を竦めている隣で、レギュラー最後の若者が桜乃の傍に歩み寄った。
「久し振りだな、竜崎」
「あ、柳さん…はい、御無沙汰しています」
ぺこりん…とおさげを揺らしながら深々とお辞儀をした少女に、参謀と呼ばれる沈着冷静な若者が微かに口元を緩めた。
「元気そうで何よりだな」
「はい」
少女の持つ柔らかな空気が、冷たい人間機械の纏うオーラを溶かしているような光景だった。
「すみません、皆さんが指導しているのを邪魔したみたいで…」
「いや…お前はいつも俺達の練習の妨げにならないよう気遣ってくれる。邪魔だと思ったことはない」
「そうですか…? なら、いいんですけど」
「そうそう、俺もおさげちゃんは大のお気に入りだしなー」
はしゃぐ子供の様に丸井が桜乃の頭をわしゃわしゃと撫でて、首に両手を回す形で抱き締める。
恋人というよりは気心の知れた仲間内同士のコミュニケーションといった感じで、男女間のそれとは大きくかけ離れている…にも関わらず、それを見た柳が不快感も露に丸井に注意した。
「丸井、女子の身体にやたらと触れるものではない、失礼に当たる」
「別に嫌がってねーもん、おさげちゃん」
「…丸井」
一オクターブは下がったかと思われる柳の一言に、丸井がちぇっと舌を鳴らして桜乃から離れる。
「はいはい、相変わらずキビシー保護者だよぃ。おさげちゃんも大変だなー、恋人も出来ねーよぃ、ここまでガード固くちゃな」
「ま、丸井さん…」
丸井の一言で、ふ、と柳の表情が翳ったが、すぐに幸村がその場を取り成した。
「みんなが竜崎さんを大事に思っているだけのことだよ、誰が正しいとか、そういう次元の話とは違う。本当に嫌がっているなら彼女はちゃんと言うさ。ブン太にも、蓮二にも、ね」
そうだよね、と問い掛けられ、桜乃が頷いたのが決着となり、それから面々は部室で話そうかという事になりそちらへと足を運んだ。
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