「…竜崎?」
「あ、はい? 柳さん…」
 歩いて行く途中で、柳が桜乃に呼びかけた。
「何ですか?」
 振り向くと、珍しく困惑した表情の彼がいた。
 何かを思い悩む様な、憂いを帯びた顔に、桜乃も思わず眉をひそめる。
「……その、迷惑…だったろうか?」
「え?」
「俺の注意は、煩かっただろうか…すまない、俺は…お前にそこまできつい事をしたつもりはなかったが」
 どうやら先程の丸井の一言が予想以上に堪えている様で、逆に桜乃は安心した。
「全然そんな事はありませんよ、柳さん」
「そ…そうか?」
「はい、私、柳さんが気に掛けて下さるの、嬉しいですよ? 柳さんがいるから、恋人が欲しいとも思いませんし」
「……」
 少女の何気ない一言が、男の意識の海に疑念の氷塊を投げ落とした。
「……それは」
 どういう意味で、そう言うのだ?
 俺を、恋人としての立場で見てくれているのか…それとも、保護者としての存在があるから、『まだ』恋人など必要ないという意味か……
「俺は…」
 お前の父兄などではない……!
 声にならない叫びを上げた時、桜乃は叫びの欠片にすら気付かずに柳に笑顔を向けていた。
「そう言えば、雑誌で読みましたけど、立海では校章バッジが第二ボタンの代わりなんだそうですね」
「!」
 どうして今日のお前は、こう次から次へと俺の思考を揺さぶる言葉ばかり紡ぐのか…
 もしかして自分の意志を試しているのかとも思ったが、やはり相手はまるでそんな下心とは無縁の様子で、無邪気そのものだった。
 いや、無邪気だからこそ、ここまで残酷になれるのかもしれない……
「あ、ああ…学ランではないからな…そもそも第二ボタンが心臓の一番近くにあるため、その者の心の象徴として捉えられるからこそ出来たと言われる慣習だ…だとしたら、俺達の制服では心臓に最も近いバッジがその代役となったのも頷ける話だ」
「ですね…柳さんとも長いお付き合いのバッジなんでしょう?」
「無論だ。赤也の様に、何度も失くしては散財するような真似はしない。まぁ、流石にここまで付き合いが長いと、不要になってもとっておきたいと思う。ただの無機物なのに愛着が沸いてくるからな…不思議だ」
 自分でもおかしいと思う、と自嘲気味に笑う男に、少女は寧ろ嬉しそうだった。
「そこまで言ってもらえたら、バッジも幸せでしょうね」
 ふふふ、と笑って、少女は少しだけその笑みに寂しさを滲ませる。
「……でも、校章をもらっても、きっとそれは日の目を見ずに大事にしまわれるだけなんでしょうね。それなら見ず知らずの人の手に渡って大事にしまわれるより、三年間一緒にいた人の許でしまわれた方が、バッジは幸せなのかも…」
「竜崎…?」
「…あは、おかしいですね、バッジは生き物じゃないのに…私も少し感傷的になってるみたいです」
 本当にどうしたんだろう、私…柳さんのバッジに対する愛着を知ったら、自然に口をついて出てしまった。
 欲しいと思っていたけれど、もし手にする事が出来たんだとしても心苦しくて…でもやっぱり欲しいと思う自分もいる。
 いや……欲しいのは…違う…
(そうだよね…本当に欲しいのはバッジじゃなくて…柳さんの気持ちだもの)
 柳さんが大切にしているバッジを彼から引き離すのは忍びない…でも、彼の心は欲しい。
 しかしこれでは、第二ボタンの儀式そのものが成り立たなくなってしまう。
 物に感情移入しても何の実りもないと分かっている筈なのに…
「……お前は優しいのだ、竜崎」
「え…?」
 不意に言われた言葉に顔を上げると、微笑む柳がこちらを見つめていた。
「…優しすぎる程に優しい…愚かだと笑う人間がいるかもしれないが、俺は笑わない」
「そう…ですか? 自分でも馬鹿馬鹿しいんだろうなって思ってしまいますけど…」
「理屈や理論だけの世界は、それこそ機械にでも任せていればいいのだ…俺達は、人間だ」
「…柳さん」
「そして人間には、何かを変える力がある」
 俺のような小さな存在の人間でも、少しだけ…望みの形を創り上げる力はある…


 立海大附属中学校の卒業式は、学校の規模の大きさに比例した、良い意味で賑やかなものになった。
 立海の名に恥じない名スピーチを披露したこの年の卒業生代表は、これからもその名を長く記憶に留められることだろう。
 それは個人の意見ではなく、式に参列した全ての人間達の共通した感想だった。
 その式の中で一際注目された人物…柳は、式が終了した後で部室に向かう前に、校庭の隅の木陰に佇んでいた。
 これから部室に行って、後輩達の見送りを受け、仲間達と喜びを共に分かち合うことになるのだが、まだ全員が揃っていない。
 悪戯に人目につく場にいると、やたらと囲まれてしまうので、柳は実質的にはその場に避難していたのだ。
 そして、そこに留まる目的はもう一つある。
「あ、見つけました、柳さん」
「!…竜崎、来たか」
 卒業生や在校生や父兄達が集まっている校舎側から隠れた校庭の隅に、柳から遅れて現れたのは、青学の桜乃だった。
「昨日はメールを有難うございました…でも、ここに来てほしいなんて、どうしたんですか?」
 どうやら昨日の段階で彼女がここに来るように仕向けた男は、木に片手をつきながらゆっくりと少女へと身体を向けた。
「いや…少し、静かな場所で話したかった」
「はぁ……あ、柳さん、御卒業おめでとうございます!」
「…ああ、有難う」
「卒業生の答辞が素晴らしかったって、皆さんが凄く騒いでいましたよ? 中学生とは思えないって。柳さんですよね、やっぱり凄いです!」
 まるで自分の事の様に喜んでくれている桜乃に柳が微笑んでいる間に、その娘は、は、と彼の襟元に注目した。
(あ、れ…?)
 ない…バッジが……てことは…
(……ああ…あげちゃったんだ…柳さん、そういう人、いたんだ…)
「一体誰にあげたんだろうと、お前は考えている」
「っ!!」
 いきなり心を読まれた桜乃は、動揺も露に相手を見上げ、そして少しだけ唇を尖らせた。
「も、もう…いきなり心を読むのは、ナシですよ」
「読んでくれと言わんばかりだったからな…」
 拗ねる仕草すら可愛らしい相手の表情を暫し愛でていた柳だったが、そんな彼の心中を知らないまま桜乃はふいっと視線を逸らし、呟いた。
「あの…答えは言わなくていいです……そこまで嫌な性格じゃありませんから」
「それは困る…お前に聞いてもらわなければ、俺の望みも成就しない」
「え?」
 いきなり理解不能な台詞を言った相手に桜乃が顔を上げると、柳は背広のポケットから、キラキラと光る金属の細い棒の様な物を取り出した。
 滑らかな縁と曲線で縁取られた、指先から手首までの長さを持つ平らな金色の棒…その一端は杖の様に大きな角度を持ち、末端には小さなチェーンが付けられていた。
 こういう物は見たことがある…確か、栞として利用されるブックマーカー…
 そしてそのチェーンの先に揺れる物体…鈍色の円形の物質。
「……あら?」
 見覚えがある…と目を凝らした桜乃に、柳がゆっくりと声を掛けた。
「…本来は、女子が男子に望む儀式だそうだが…先日のお前の様子では、言い出す事はないだろうからな……掟破りかもしれんが、こういう時には掟などそもそも意味が無い」
 そして、柳は棒を桜乃に差し出した…バッジが先端に揺れているブックマーカーを。
「竜崎…お前にこれを受け取る意志は…あるだろうか…?」
「!」
 どきりとした胸を手で押さえ、桜乃は真っ赤に染まってゆく顔で柳を見上げる。
 相変わらず冷静な表情を浮かべている男だったが、実は今の彼は答辞を述べていた時の数倍の緊張感を味わっていた。
 お前は受け取ってくれるだろうか…俺の気持ちを…
「……これ…柳さんが、作ったんですか?」
 感動で言葉が上手く継げなくなっている桜乃に、柳は軽く頷いた。
「…これなら、暗い場所に閉じ込められる事もなく、ずっとお前の傍に寄り添えるだろう…俺の心が」
「!!」
「…お前は、バッジを欲しがる女性を見ず知らずの人と言ったが…そんな事は無い…これはもう、お前の事を知っている……俺の心なら、ずっと前からお前の事を見ていたからな」
「や…なぎ、さん…」
 佇む少女に、柳は一度大きく息を吸い込み、厳かに唇を開いた。
「俺は……その…お前のことが…」
 ふわ…
「っ!」
 最後までなかなか言葉を継げない男の、『心』を持った手が少女のそれに優しく触れられ、彼は思わずそれを相手に渡してしまった。
「……ありがとう…ございます」
 一筋の涙が瞳から零れ落ち、桜乃はしかし微笑んで、両手で心が飾られた相手の想いを握り締めた。
「…こんなによくしてもらって…ここまでしてもらって……私、凄く嬉しいです…私が欲しかったのは…柳さんの心だけで…十分だったのに…」
 なのに、こんなに気持ちのこもった贈り物まで…
「竜崎…」
 この時ほど、柳は自分が人間であったことを自覚した事はなかったかもしれない。
 心が止まらない。
 何かを考えるより早く、思考の決定を待つ事無く、身体が勝手に動いて求めるものを得ようと渇望のままに動く。
 女子の身体にやたらと触れるものではない…
 あの時丸井にそう言った自分と今の自分が同一の存在など、信じられない。
 今こうして、お前を強く抱き締めて…離せない自分が……
「…柳さん…柳さんの心…本当に私に…?」
「…まだ、証が足りないか…?」
 お前が欲しい。
 お前に触れたい。
 それが叶うのなら、俺は心などいつでもくれてやるのに。
「……お前が…好きだ」
「や…」
 自分の中にこんなにも大きな炎があったのかと驚くほどに熱の篭った声で告白して、柳はその熱に操られるように桜乃の唇を奪った。
 自分の心を与えるために。
 相手の心を奪うために。
 自分の知りうる言葉でも到底表せない想いの丈を、少しでも彼女に伝えようと唇を重ねる。
 そして唇を重ねたら、満足するどころかもっと彼女が欲しくなる。
 甘く、柔らかく、温かな唇が、自分を狂わせようと……
「…俺は…おかしくなりそうだ」
 唇を離し、苦笑いを浮かべながら柳は桜乃に囁いた。
 いつもの理性が働かない…
「どうしたらいい? こんなに好きだと伝えたいのに…俺にはそのやり方が分からない」
 どんなに好きでいるか分からせるには、どうしたらいいのだろう…?
「…くす」
 涙で赤くなった目を細めて、桜乃は困惑している男の首に縋りついた。
「りゅう…ざき…?」
「卒業したからって、今日でお別れじゃないですよね、柳さん…じゃあ、今日で全部教えるのは勿体無いですよ」
「え…」
「…これからもまた会う度に…教えて下さい…そうしたら、会う時がもっともっと楽しみになりますから」
 嬉しそうに己に抱きついてくる少女の身体を、柳は遠慮がちに抱き締めながら相手の顔を覗きこみ、笑った。
「それも結構辛いな…会うまで我慢が効かなくなるかもしれない」
「じゃあ、一杯会いましょうね」
「……成る程な」
 それはいい、俺にとっても願ってもない事だ。
 頷いた柳にもう一度笑うと、は、と桜乃が重要な事実を思い出した。
「あ! そうでした…柳さん、そろそろ部室に行かないといけないんじゃ…皆さん、待ってるかも」
「…そうだったな…ん?」
 同意はしたものの、少し名残惜しそうにしていた柳の細い指先が、軽く彼女の頬に触れる。
「ああ…すっかり赤くなってしまった」
「え…そ、そんなに目立ちます?」
 はた…と桜乃が頬に両手を当てて動揺する。
「しっかりと」
 どうしよう、さっきの涙の所為で……
「うああ、困りました〜…これからテニス部の皆さんにお会いするのに〜」
「水のみ場に行くか? 少し冷やせばましになるだろう」
「は、はい…」
(…その間はまだ、お前を独占出来るからな)
 自分の本当の目的を知らせることもなく、柳は桜乃の手を握った。
 エスコートをする形で、彼女を自分の傍に繋ぎとめる為に。
「では行こうか?」
「はい…あ、あの…でも、柳さん…?」
「ん? 何だ?」
「…手を繋いでいると、見られちゃいますよ?」
 まだ水のみ場の近くにも沢山の生徒さんがいるのに…と桜乃が戸惑いの表情を向けたが、柳は飄々とした表情を崩さなかった。
「…何か問題が?」
「……アリマセン」
 心から思い知った。

 テニス部内で一番冷静沈着だった若者は、恋に関しては実は最も熱い男だった事を……






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