春に咲くは恋の花


「柳、さん…?」
「竜崎?」

 その日、桜乃と柳が出会ったのは、全くの偶然だった。
 時は春、場所はとある有名な茶葉専門店。
 暖かな陽気に誘われ気軽に買い物に出かけた桜乃は、時々利用していたその店の前にあったのぼりに目を惹かれ、久し振りに足を踏み入れたのだった。

『春の限定 桜の紅茶、入荷しました!』

 限定、と言われると、ついつい心が惹かれてしまう。
(でも丁度ウチの紅茶葉も切れかけていたし、季節感を出すのもいいかも。おばあちゃんも桜の紅茶は好きだったし、買っていってあげよっと)
 家族への贈り物という意味も含めての買い物に、桜乃がわくわくしながら目的の茶葉が置いているコーナーに足を運び…
(あ、見つけた)
 銀色の金属製の円形ケースに美しい桜のイラストがプリントされている品物が目立つ場所に置いてあったのを見つける。
(綺麗〜、センスがいいなぁ)
 まだ味を確認した訳ではないが、こういうセンスの良さを見せられると、それだけでも購買意欲は湧くものである。
 展示物の前には他にも数人の客がいたが、誰も今のところは現物を手にとって見ようとはしていない。
(あ、丁度いいかも…ちょっと見せてもらお…)
 確認した後、桜乃はそっと手を伸ばして、ケースを取ろうとした。
 しかし、そういう時にはタイミングを見計らっても意外な事は起こるもので、彼女の差し出した手と何処かから伸ばされた別人の手が同時に見本に触れ、そして互いの指先が重なり合った。
 白く細く…しかし明らかに男性のそれだと分かる大きなものだった。
「ご、ごめんなさい…」
「ああ、失礼」
 互いにそれが予想外の事だったのだと証明する様に、手を引きながら同時に二人の口から詫びの言葉が零れた。

『………?』

 言った後で、二人が同時に沈黙した。
(あれあれ? 何処かで聞いた様な声だけど…)
 そう思ったのは向こうも同様だった様で、二人はタイミングを合わせた様に顔を見合わせる。
 そこにいたのは…
「柳、さん…?」
 立海大附属高校に今年進学したばかりの、柳蓮二だった。
 今日は制服ではなく、私服の洋装である。
「竜崎?」
 向こうも意外な処で出会った相手に少なからず驚いた様子だったが、互いに嫌悪感を持っていた訳ではなく、二人はすぐに照れ臭そうに笑い合った。
「奇遇だな、お前だったのか」
「柳さん、お久し振りです」
 異なる学校だったが、二人は一年近く前から見知った仲だった。
 柳のみでなく、過去、中学生だった時分に立海男子テニス部レギュラーだった若者達全員が桜乃とは懇意にしていたのだ。
 彼らの中でも、この柳という若者は特に知識が豊富で、且つ冷静沈着な人物であるというイメージがあり、そしてそれは紛れもない事実である。
 しかし桜乃は、そんな彼がさり気なく見せる暖かな心遣いや優しさも知る人物だった。
 人は彼を、『人型コンピューター』の様だと評することもあるのだが、桜乃は相手をそう感じたことなど一度も無い。
 それは、桜乃の目がそれを見抜く力を持っているからなのか…それとも彼自身が桜乃の前ではそういう自分を曝け出しているのか…真実は分からない。
「学校の方はどうだ?」
「クラス替えがあったから、新鮮な感じがします。でも、みんな良い人ですから楽しいですよ」
「そうか」
 寧ろ、この子が相手を悪し様に言う姿など想像出来ない。
 少なくとも、学校生活には問題はなさそうだな、と柳は笑った。
「学校なら、柳さんの方が大変じゃないですか? 中学校から高校に進んだ訳ですから」
 同じ質問をしてきた少女に、彼は軽く首を傾げる。
「そうだな…確かに、先輩達や高校から立海に来た生徒の姿も見かけるので、彼らの姿は新鮮に映る。だが、一年に限って言えば九十パーセント以上がエスカレーター組なので、大きな変化は感じない。新参の人間も直に記憶出来るだろう」
(新参じゃない人達は覚えてるってコトですか…)
 それも十分に凄いことですよ、と心の中で思いながら、桜乃は成る程、と頷いた。
 互いの近況報告が終わると同時に、彼らの興味は再び桜の紅茶へと移った。
「そう言えば、お前も茶葉を買いに来たのか?」
「はい、最初から目的だった訳じゃないんですけど、丁度ウチにあるのが切れそうで…桜の紅茶っていうのに惹かれちゃって」
「そうか、俺と同じだな」
「柳さんも?」
 桜乃に頷きつつ、彼は再び視線を見本のケースへと向けた。
「普段は抹茶を好むが、たまには違う味を楽しむのもいい。濃厚な抹茶には桜の風味は流石に付けられないからな」
「でも、桜の抹茶碗で風情を楽しむのもいいですね」
「ああ」
 頷きながら、柳は一度は手を離した見本を再び取り上げると、それをそのまま桜乃へと手渡してやった。
「わ、すみません」
「中に茶葉の現物が入っている様だな」
 持った時の重みの僅かな移動と、聞こえてきた乾いた音で察した男の言葉通り、桜乃がかぱりとケースの蓋を開けると、ふわっと鮮烈な桜の香りが漂った。
 焦げ茶色の紅茶の茶葉の中に、乾燥した桜の花弁が入っている。
 これだけ香りがしっかりとしていたら、紅茶を淹れた時にも十分にそれを楽しむ事が出来るだろう。
「香りそのものは強いけど、凄く上品な感じですね…」
「このメーカーは品質にも定評がある。そこらの物より多少値は張るが、それだけの価値はあるぞ」
「そうなんですか…」
 くんくんと小さく鼻を鳴らしながら、桜乃は品物の値段を見て、十分に購入可能な範囲だと確認した。
 購入可能で、この男の見立てが高評価であれば…買わない手はないだろう。
 勿論、他人の評価が良くても自分に合わない場合もあるが、今ここで香りを確認した分には桜乃も十分にそれを気に入っていた。
「…買ってみます」
 微笑みながら、桜乃は先に渡してもらった見本を、どうぞ、と今度は柳に差し出した。
「そうか」
 それを微笑みながら受取り、柳もくん…と茶葉の香りを嗅いで、納得した様に頷き、積まれていた商品を一つ手に取った。
 そして二人は、同じ商品を購入したのである。


「うふふ、今日からのティータイムが楽しみです〜」
「良い買い物というものは、モノだけを買うものではないからな…こういう心の高揚感も対価と考えるべきだろう」
 店の外に出たところで、柳ははしゃいでいる少女に微笑みながら答えた。
「春はやっぱり桜ですよね…綺麗で儚くて…散っているのを見ると物悲しくなりますけど」
「一年の内の今だけ楽しめる風物詩だな…丸井なら『団子』と言うだろうが」
「あはは、確かに」
「……」
 本当によく表情が変わる子だ…
 ころころと笑う桜乃を暫し優しく見つめていた柳は、少し遠慮がちに相手に尋ねた。
「お前は…これからの予定は何かあるのか?」
「え? いいえ、特に決めていませんから、また街を回ろうかと…」
「そうか…」
 答えを聞き、暫し沈黙していた男は、再び遠慮がちに桜乃に尋ねる。
「…良ければ、近くでお茶でも飲まないか? その…俺の気に入りの場所なんだが」
「え?」
「……気が乗らないか?」
 微かに不安を滲ませて訊いた男に、しかし少女は逆に非常に嬉しそうな表情を見せた。
「いいんですか? 私なんかお邪魔して…」
「あ、ああ…勿論だ、俺が誘ったのだから」
 既に桜乃は誘いに応じる気だというのが分かっているにも関わらず、柳は捕らえたチャンスを決して逃がすまいとするかの様に、逸った様子で同行を確定させた。
「では行こう。それ程遠くない場所だから、徒歩でも十分だろう。疲れてはいないか?」
「大丈夫ですよ」
 皆さん程ではなくても鍛えてますから!と笑う桜乃に、同じく笑い返し、ようやく柳は安心した様子で彼女を連れて歩き出していた。

 二人並んで和やかな会話を楽しみながら、彼らは街路を歩いていき…やがてその道から外れた小道が導いた先にある一軒の喫茶店に到着した。
 まるで隠れ家のような雰囲気だが、敷地内の庭は非常に丁寧に管理されており、季節の花々や草木が青々と茂っているのが外からでもよく分かる。
 小さい庭でも、桜乃が凄く好きなバランスだった。
 そしてそこで何より目を惹いたのは…
「まぁ…見事な桜…」
 庭の中に一本の桜が立ち、見事な花を咲かせていた。
「今の時期だけ、茶を飲みながら花見も出来る場所だ。桜が好きなら、お前も気に入るのではないかと思ってな」
「気に入りました!」
 即答してくれた桜乃に、良かった、と微笑み、柳は彼女をエスコートして店へと入った。
 大通りから外れた目立たない場所だったという事と、店のコンセプトそのものが隠れ家の様な目立たなさから、店の中は意外にも空席があった。
 店員と少し話したところで、柳が桜乃に確認する。
「店内ならすぐに座れるらしいが、もう少しでテラスが空きそうだ。その方が桜を楽しめるから、待つことにしよう」
「そうですね」
 美しい桜をすぐ傍で楽しめるのなら、少し待つことなど何でもない、と桜乃も柳の案に賛成し、二人は暫し店内で待った。
 十分も待ったところで、テラスの客が席を立ち、柳達は続けてその場へと通された。
 桜の木の傍に準備されたテーブルと椅子は、正に特等席。
 柔らかな風が吹くたびにはらはらと散ってゆく桜の花弁は、まるで幻の様な美しさだ。
「わぁ…桜の花のシャワーですね」
「ああ…これだけのものを見たら、寧ろ言葉で表す必要も感じないな」
 言わずとも、万人が心に思うだろう…『綺麗だ』と、『美しい』と。
 それなら今更言葉に乗せる必要もない。
 二人は席に着き、メニューを見ながら暫し歓談し、注文をしたところで一息つくと改めて桜の花々を見上げた。
「青空に、花弁が映えて綺麗…」
「うむ」
 ほう…と溜息をつき、眩しそうに目を細めて桜を見上げる少女を、柳もまた眩しそうに見つめていた。
 桜も美しかったが、柳にとっては目の前の少女が見せてくれる豊かな表情もまた、見逃し難いものだったのだ。
 幸い彼女は、今は桜に夢中になってくれているお陰で、こちらからの視線には気付いていない。
(…ここに連れて来たのは、正解だったな)
 これだけ心に正直な表情を見せてくれる子なのだ…どうせなら、心に迷い無く、いつでも朗らかに笑っていてほしい…幸せでいてほしい。
 確率や理論など、机上の可能性を追い求めていた自分が、こんな人間臭い事を考えるようになったのも、彼女と知り合ってからだ。
 今でも戸惑うことがある、知るべきではなかったのかと悩むこともある。
 しかしそんな逡巡も、この子本人に会ってしまえば途端に打ち消されてしまい…姿を見失えば再びその逡巡がむくりと頭を持ち上げる。
 何度繰り返された事だろう…
(全く……まるで毎年散る桜を眺めてはさざめく心そのものだな)
 そう言えば、この子の名は桜乃…桜に因んだ、何とも因果なものだ。
 肘を付き、柳は自嘲する様に唇を歪めると、首を動かして真上の桜たちを見つめた。
(桜に心を乱されるのは俺だけではないか……古来より、桜に揺れる心は日本人には共通したものだったな、確か…)
 そう思ったところでふと前へと視線を戻すと、彼の笑みが気になった様子の桜乃と視線が合った。
「……?」
 どうしたのだろうと見つめてくる相手に、柳はちょっとだけ悪戯心を出した。
「……世の中に」
 再び桜を見上げながら柳が謎かけをする様にそれを指差し、その一語を口にして…押し黙る。
「…!」
 少しだけ考え込んだ桜乃は、はっと何かを思い出して彼に続いた。
「ええと…絶えて桜のなかりせば?」
 正解であると男の微笑が答え、彼は最後の句を継いだ。
「春の心はのどけからまし……流石に知っていたか」
「えへ、凄く有名ですもん」
「そうだな…このシーズンになると、花見の紹介と一緒に載せられることも多い歌だ」
 和風のものを好み、日本文化を愛する柳にとっては、和歌もまた馴染み深いものらしい。



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