内心、言えて良かった!と心から安堵した桜乃は、改めてその歌についての記憶を辿ってみた。
「……もし桜がなければ、春は心穏やかでいられたのにっていう意味でしたよね、それ」
「ああ…在原業平の歌だ。古今和歌集、巻一春上の五十三」
「そ、そこまで覚えてるんですか」
 流石にそこまでは記憶出来ません…とごく普通の一般人の反応を返す桜乃に、柳はあっさりと頷いた。
「心に残る歌はつい深く詠んでしまうのでな…お前もやはり、桜を見ると心が揺れることがあるのか?」
「うーん、散らなければいいのにって思う事はありますけど、なくなってもらったら困りますねぇ…やっぱりこんなに綺麗だし…」
 そこまで言って、今度は少女はぴ、と自分を指差した。
「無くなっちゃったら、私の名前『乃』だけになっちゃいますもん」
「いや、流石にそれは…」
 ないだろう、と柳は軽く手を振った。
「ちゃんと別の名を付けてもらえたのではないか?」
「はぁ……でも別の名と言われても…もう十年以上お付き合いしている名前ですから、全然想像出来ませんね」
「ふむ…まぁ、それは納得出来る話だ」
 うん、と深く頷いて柳が賛同した後に、彼はふと思い出した様に言った。
「そう言えば、お前は誕生月が一月だったな…春と呼ぶには少々早い気もするが…」
「あ、それはですね…」
 桜乃は、それに対して桜を見上げながら答えた。
「春の桜の花の様に、可憐で、優しい子に育つようにとお祖母ちゃんがつけてくれたんだそうです」
「ほう…」
 その願いの通りに育っている…と柳は心の中で認めていたのだが、桜乃本人はどうした訳か、眉を少しばかりひそめて不本意そうに付け加えた。
「……春のお花畑みたいに呑気すぎる、緊張感のない性格になっちゃったって、今は少し後悔しているみたいですけど…」
「お前は怒っていいと思うぞ?」
 幾ら実の孫とは言え、そこまでけちょんけちょんに言わなくてもいいだろうに…
 気の毒に思っている男の前で、しかし桜乃は相変わらずのほん、と平和な笑顔を浮かべていた。
「でも、確かにのんびりしていますから……それに、名前負けしているのは間違いないですし」
「名前負け?」
「だって…」
 ちょっぴり残念そうに肩を落として、桜乃は羨ましそうに頭上の桜を見上げる。
「とても敵いませんよ…こんなに綺麗な花の様に、なんて」
 凄く畏れ多いと言うか、大胆なことをしてくれたものです、と少々拗ねた口調で言った桜乃に、逆に柳は心底疑問だという表情を浮かべて答えた。
「そうか? お前は十分に美しいと思うが」
「え…?」
「…?」
 桜乃にまじっと見られながら問い返され、柳ははた、と自分の発言について省みた。
「……」
「……」
 互いに見詰め合って数秒間…
「……あ!」
「〜〜〜〜」
 ようやく柳は、自分が何気なく…しかし大胆な事を言ったのだという事実に気付き、直後、激しく狼狽えた。
 しまった、つい本音を!!
 何かを発言する時には、常にその言葉がどういう影響を与えるのかという事まで考慮した上で行動すべし…
 それはずっと自分自身、単に思うだけではなく、心掛け、実行してきた事だった。
 それなのに…どうしてよりにもよってこんな所で、この子を前に、あんな大胆な台詞を言ってしまったのだろう!?
(ら、らしくもない事を…桜に惑わされたか…っ)
 別に罵詈雑言ではないし、寧ろ相手を褒める言葉である…そして、真意である。
 自分にとってはあまりにも当たり前だという認識だったからこそ、特に深く考えるでもなく、さらりと口からそんな言葉が出てしまった。
 だからこそ……それが聞かれてしまった時の気恥ずかしさたるや、相当なものだった。
「いや……その…」
「…」
 どう取り繕うべきか…と思いながら言葉を探しあぐねている柳の前で、美しいと賞賛された少女は頬を真っ赤に染めて、恥じらい、俯いていた。
 動揺している最中ですら、柳はそんな相手の姿に見入ってしまう。
 ほら…やはり、美しい……
 桜の様に可憐に…と望まれたというのならば、彼女は本当に素直に、その通りに育っている。
 自分はそう思い、その心のままに答えた。
(……どっちみち、ばれてしまったな)
 目の前のこの娘の様子から察するに…少なくとも自分が彼女に好意を寄せているのだという事実は、明らかになってしまった。
 今更それを撤回する意味などないし、するつもりもない。
 そもそも、真実なのに、何故撤回しなければならないのか…
「……」
 想い人に本音を吐露してしまい、一度は心を揺らしてしまった若者だったが、流石に『参謀』は立ち直りも早い。
 今はもう、冷静にこれから自分がとるべき行動について熟考するまでに落ち着きを取り戻していた。
(…悪あがきをするだけ無様になるだけか)
 恋愛ごとの謀略など練ったことなどないし、そもそも経験もない…となると下手に誤魔化しても却って状況は悪化するだけだ。
 真心を相手に届けたいと思うのならば…行動もまたそれに伴うものでなければならない。
「……」
 一つの覚悟を決めて、彼は軽く深呼吸をした後…ゆっくりと口を開いた。
「…急で、すまないが」
「は、はい…?」
「さっきの言葉は…嘘とか、世辞ではない。俺は本当に、お前の事を美しいと思っているし…」
「……」
「…そんなお前の誰より近くにいたいと、願っている」
「!」
 一度は引きかけていた少女の頬の赤みが、再び増してゆく。
 瞳を大きく見開いてこちらを見つめながらも、何も言葉を発しようとしない桜乃に、柳は最悪の結果を想像せずにはいられなかった。
 やはり、時期尚早だったのだろうか…蕾の桜に無情に降る氷雨の様に…
「……駄目だろうか?」
 もしそうだったとしても、せめて心の動揺は隠し切らなければ…
 下手に傷ついた様を見せたら、この子までもが罪悪感に苦しむことになる。
 そんな殊勝な事を考えていた柳だったが…
「…え?」
 そんな彼も想定していなかった。
 目の前で、相手がぼろぼろと大粒の涙を流すという状況までは。
(そ、そんなにダメだったのか!?)
 断られる事はあったとしても、泣くほどに嫌がられていたのか、自分はっ!!
 これでも、メンバーの中でも親しい方だという自負はあったのに…それこそ独りよがりな思いだったのか!?
 かなりのショックを受けながらも、柳は即座に立ち上がり、桜乃が座っている椅子の傍に寄って相手を宥めた。
「す、すまない! お前が嫌なら無理強いをするつもりはないのだ、二度と困らせる事は言わないから…泣かないでくれ」
 お前が泣くと…どうにも辛い…
 手を伸ばすも、嫌われているなら、とどうしても触れられずに宙を彷徨ってしまう。
 珍しくあたふたとしていた柳だったが、そんな彼に、いきなり桜乃が縋りついた。
「!?」
 嫌われているのに…これは、胸だけを貸してほしいということか?と変わらず悩んでいる若者の耳に、桜乃の声が途切れながら聞こえた。
「…う…れし…」
「…え?」
「うれしい…や、なぎ…さん」
「…嬉しい?」
 思わず、肩を抱いてやった時に感じた柔らかさと温もりに、ぞくりとする。
 そして、彼女の取った行動の意味を考え、導き出された結論に、胸がかぁっと熱くなった。
 もしかして…その涙の意味は拒絶ではなく…?
 思いながらもどうしても信じられなくて、つい確認してしまう。
「…俺で、いいのか…?」
 そんな問いに、相手の胸に縋ったまま、桜乃はこっくりと頷いた。
「……柳さんじゃなきゃ…いや、です」
「!!」
 己だけに許された特権なのだと言われ、一瞬だけでも意識が白く、遠くなる。
 これを喜びと言うのなら、自分が今まで感じていたコート上の勝利のそれなど、足元にも及ばない。
「…竜崎」
 手に入れた…もう、絶対に手放したくない、手放さない…!
 柔らかな身体を壊さないように…優しく、しかし決して逃さない強い意志を込めながら抱き包み、柳は相手に告白した。
「…お前が誰よりも愛しい」



 紅茶を丁寧に淹れる店だったのは、この二人にとっては幸いだった。
 注文した品物が彼らの許に運ばれた時には、二人は再び互いの席についていたのだから。
 しかし、見た目は来た時と同じでも、彼らの心は歓びと幸せに満たされていた。
「店を出たら…一緒に街を回らないか?」
「はい、柳さん」
「……」
 すぐに返事を返さず、何かを考え込んだ様子の柳に、桜乃はどうしたのかと声を掛けた。
「あの…何か?」
「いや、それでもいいのだが…その、折角、恋人になったのだから…」
「…あ」
 何かに思い至り、桜乃は小さく声を上げ…はにかみながら言い直した。
「…蓮二、さん…?」
「ああ、それがいいな…桜乃」
「!…うふふ」
 そして互いの名を呼び合う事を形無き約定として、彼らは初めての恋人同士としての一時をゆるりと過ごした後に、店を出ることになった。
「忘れ物はないな?」
「はい…あ」
 ひゅう…と風が一陣吹き抜け、それと同時に桜乃が手で顔を覆った。
「?…桜乃?」
 どうしたのかと振り返った柳の視界に、手の甲で顔を覆いながら、目尻に涙を滲ませた少女の姿があった。
「ま、また泣いているのか…?」
「い、いえ…違います…風で砂が目に入ったみたい…」
 痛みに眉をひそめながら、桜乃がこし、と手で右目を擦ろうとしたところで、慌てて柳がその手を押えた。
「駄目だ、強く擦ると角膜に傷がつくぞ」
「でも…」
「じっとして、そのまま上を向いて…」
 桜乃の両の頬を優しく手で押えて上向かせ、柳が上から覗き込むと、うっすらと目尻に涙を溜めたままの桜乃が素直に目を閉じていた。
「…っ」
 本人にその気がなくとも、何とも蟲惑的な表情に、柳の心の奥底に潜む雄が身震いする。
 かろうじてそれを抑え込みながら、柳は声を掛けつつ顔を近づけていった。
「動かないで…」
「?」
 ちゅ…
 小さな音が聞こえると同時に、自身の右の瞼に何かが触れ、湿った柔らかなものがその隙間を通り過ぎていった。
(え…)
 何…と思っている間に、再び瞼に何かが押し当てられ、ぴちゃ…と濡れた音と感触が伝わってくる。
「あ…っ」
 その正体を察した時、桜乃は思わず身を引きかけたが、既に腰に手を回していた男はそれを許さず、逆にきつく抱き寄せてきた。
「蓮二さん…っ」
 掠れた声を密かに上げた少女に、唇を離した柳が囁いた。
「…もう痛くはないか?」
 言われ、ゆっくりと瞳を開くと、優しい目をした相手がじっとこちらを見つめていた。
 もう、目は痛くない…
 ただ、見つめてくる彼の視線が、怖いほどに嬉しくて…身体が燃え上がってしまいそうだった。
 恥ずかしげに視線を逸らした桜乃に、柳は小さく笑い…耳元に唇を寄せた。
『今年より 春知りそむる 桜花 散ると言ふことは ならはざらなむ…』
「…え」
 何かの和歌を囁いて、彼はようやくその手の中から恋人を解放する。
「…では行こうか」
「れ、蓮二さん…?」
 桜乃を促してレジへと向かいつつ、柳は過去に歌人が詠んだ歌の意味を心の中で繰り返していた。

『今年から咲くことを覚えた桜の花よ…どうか散るという習慣には慣れないでほしい』

 今年、恋の花を咲かせたお前はどうかそのままに…
 美しいままに、艶やかなままに、これからも俺だけの傍で咲き続けていてほしい…






*『今年より 春知りそむる 桜花 散ると言ふことは ならはざらなむ』…紀貫之  古今和歌集 巻第一 春歌上 四十九


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