芳しい恋


「んー、いよいよ春も終わりって感じッスね」
「段々気温も上がってきているからな」
 某日の夕方
 部活も含めた全ての学校行事を終えた、立海テニス部員達の幾人かが寄り集まり、帰宅の途についていた。
 一見するとそれだけの関連しかない様に思われるが、実は彼らには他にもある一つの共通項がある。
 その共通項とは、彼らがほぼ全員「前年に立海大附属中学男子テニス部レギュラーであったということ。
 去年の今頃は、彼らは全員レギュラーとして全国大会に向けての猛練習に打ち込んでいた。
 現在は、レギュラーの中で唯一まだ中学三年生切原を除いては、男達は同校の高校一年生へと進学を果たしている。
 それは同時に、新たな高校の男子テニス部における再出発をも示していた。
 中学時代にもあれだけテニスに打ち込んでいた男達が、そうそうその道を放棄する筈も無く、例外なく元レギュラー達は高校でのテニス部入部を希望した。
 彼らほどの実力を以ってすれば入部試験など児戯に等しく、当然全員合格。
 但し、全てが中学時代と同じという事は無く、今の男達にはレギュラーの座は与えられていない。
 上級生達が今はその座にあるのでこれも当たり前の話だが、だからと言ってそれをそのまま甘んじて受け入れる程に男達は大人しくはないのだった。
「聞いたッスよ。先輩方、また向こうのレギュラーと練習試合やって勝ったって」
 頭の後ろで手を組みながら悪戯っぽく笑う切原の台詞に、彼らは何の事はないとそれを肯定した。
「向こうは受験もあるしのう。こっちは一年とは言え、つい最近までは実戦ばかりこなしとったんじゃ。学年は下じゃが、一日の長があるんはこっちよ」
「しかし、先輩方が中学にいらっしゃった時の事を思い出しますね。中学の時にも試合はしていましたが、久し振りに同じ学校のテニス部員として手合わせしたら、何だか変な感じがしましたよ」
「ま、昔とはやっぱ色々違ってるだろ。実力も体格も」
 仁王達の言葉にジャッカルが口を挟んでいる一方では、丸井がぷーとガム風船を膨らませながらのんびりとした口調で付け加えた。
「先輩っても容赦する必要はないしさ…これでまた少しはポイント稼げたかな」
「ふふ、どうだろうね…まぁマイナスにはなってないと思うよ」
 答えたのは、物腰柔らかな色白で華奢な若者。
 優しい微笑と穏やかな口調は彼を温和な性格であると思わしめる…それは間違いではない。
 しかし、それだけでもない。
 温和なだけでは、彼、幸村精市が中学時代に全テニス部員を牽引するという部長という大役をこなすことなど出来なかっただろう。
 しかも、一時期病に臥せコートから遠ざかっていた彼を、その時のテニス部員たちは誰一人として部長の座から排除しようとはしなかった。
 その一件からも、この若者の人望、実力が窺い知れる。
「入部してから早三ヶ月、か…あっという間に過ぎた様な気もするな」
 黒の帽子がトレードマークである若者、真田弦一郎はいつもの様に固い表情で固い台詞を述べた。
「丸井の気持ちも分からないでもないが、成就するにはもう少し時間が必要だろう」
「ちぇ、やっぱりかよい」
「世の中には、建前というものも必要なのですよ」
 真田の言葉に唇を尖らせた赤毛の若者を、柳生が優しく窘めた。
 何の話かと言うと、それは先程丸井が述べた『ポイント』という単語に関連がある。
 ポイントが貯まると何があるのか…そもそもポイントとは何であるのか。
 それは目に見えるものではない、所謂彼らに対する世間の評価を示す…テニスの実力に対する評価だ。
 それを貯めていくことによって彼らは確実に近づけるのだ、高校におけるテニス部レギュラーの座に。
 今は非レギュラーである以上、彼らは公式戦の時には『傍観者』でなければならない。
 そのままではより強いプレーヤーと戦う機会が持てないのだ。
 だから彼らは、一日でも早く自分達の実力をもってレギュラーの座を得るべく、日々邁進しているのだった。
 これもまた、男達のテニスに対する執念の為せる業と言えよう。
 しかし如何に実力があるとは言え、世の中それだけで動いている訳ではないことも知っている彼らは、自分達の望みの地位を得られるまで、今しばらくの時間が要るという事実も理解はしていた。
「なぁ柳―、あとどのくらい掛かりそう? 俺らがレギュラーになるまで」
「そうだな…」
 訊かれても普通は返答に窮する内容を受けながら、一人の男が軽く思案を巡らせる。
「…俺の予想としてはそろそろ三年の先輩達が受験を理由に退く気配だ。その時に運がよければ二年の先輩達に混ざる格好で俺達の幾人かはレギュラーに昇進出来るだろうが…流石に全員となると二年の先輩達の面目というモノも立たなくなるだろうからな、そこまでにはもう少々時間を要するか」
「柳先輩達がいなけりゃ、多分今年の夏の大会、三年生と二年生で出たでしょうね…」
 幾ら実力が伴わないとは言え、追いたてられるように座を明け渡さなければいけないとは…実力主義の立海(ウチ)とは言え、ちょっと気の毒な気もする…と切原がこっそり二年、三年の先輩達に同情していた時、そこに明らかに女性のものと思われる細い声が加わってきた。
「皆さん凄いんですね…一年生では普通レギュラーになんてなれませんよ」
 その声の持ち主は、どうやら傍の柳の陰に隠れる形で、彼らと一緒に歩いていた少女であるらしい。
 腰まで届く長いおさげをした、まだ幼さが残る顔立ちの少女だ。
 彼女は立海ではなく都内の青学の生徒であるが、男達とは彼らが中学に在籍していた頃からの親しい知己であり、名を竜崎桜乃と言った。
 立海メンバーに言わせてみたら、桜乃は彼らにとっては可愛い妹分なのだ。
 今日も彼らの練習内容の見学に訪れていた桜乃は、遠慮がちに傍にいた柳へと視線を向けた。
「立海ではよくあるんですか?」
「ふむ? いや、これまでなかったという訳ではないが…これだけの人数となると流石に前代未聞だ。一人二人だったらそれ程に問題はないだろうが、一年生八人が先輩方を蹴り出してレギュラーに就くのは、幾ら実力至上主義の立海とは言え少々体面に問題がな…」
「二年と三年の先輩方はタイミングが悪かったですね…」
 生まれたタイミングが…と心で付け加えた桜乃は、それから少し考えてからああ、と納得した様に頷いた。
「でも確かに…去年の今頃って、リョーマ君はもうレギュラーになってましたけど…」
 ぴくん…
 立海の面々の肩が微かに揺れるのに気付かず、桜乃はふーむと彼女なりに思案する。
「あの時に例えると、八人のリョーマ君並の実力者が、手塚先輩達を押し退けるって事と同じですもんね…ちょっと想像出来ないなぁ」
 変わった例えをして笑う桜乃に幸村が同じく穏やかに微笑み返す。
「まぁ決めるのは先輩達だからね…俺達は彼らの眼鏡に適う様に努力するだけさ」
「幸村さん達ならきっと出来ると思いますよー、早くレギュラーになれたらいいですね!」
 そんな事を語り合う二人を見ながら、他の男達は内心同じ事を考えていた。
(あーあ…更に本気になっちまったい、幸村のヤツ…)
(加速度がつきそうですね…レギュラーまでの道程に)
(まぁ俺らもあんまり面白くないしな…あの生意気小僧と比較されんのは)
 そうしている内に、ふと柳の顔が上空に向き、微かにその細い眉が顰められた。
「ん…雨の匂いがする……降るな」
「ウソ、マジっすか!?」
「あ、やべ。今日傘持って来てないんだった!」
 慌て出す切原や丸井の声を聞いて、元部長の若者が全員に言った。
「もうすぐ駅前だし、そこまで走ろうか。で、各自解散にしよう」
 雨が降る、という柳の言葉を疑う者は誰もいない。
 全ての情報…データを操り解析を行うデータマンの言葉は、真実に最も近い事を皆が知っているからだ。
「大丈夫か? 竜崎」
「はい」
 真田の気遣いに答えながら、桜乃もまた彼らと一緒に駅前まで短いランニングを開始した。


「じゃ、またなー」
「お疲れさまっしたー、先輩方」
 全員が無事に駅前まで辿り着き、それぞれの帰途に散っていく。
 かろうじて雨は本格的に降るまでには至っていないが、ぽつぽつと小雨の雨粒が地面を濡らしつつあった。
 或る者は一人で、或る者達はもう少し帰路を楽しみたいのか共に連れ立って、思い思いに歩き出していく中で、桜乃はそのまま改札口を抜けようかどうしようか迷っていたが、不意にぽんと背後から肩を叩かれた。
 柳だった。
「あ…柳さん…?」
「帰るのか?」
「うーん…ちょっと迷ってます。折角来たから、この辺りの店をもう少し見て行くのもいいかなって…折り畳みは持ってますし……柳さんは?」
「…」
「?」
 答えない相手に再度声を掛けると、向こうはいきなり顔を桜乃のそれに近づけてひそりと囁いた。
「俺の名を呼ばないのは…お前の意地悪か?」
「っ…!」
「約束した筈だろう? 桜乃」
 密やかな囁きが耳を通して桜乃の脳髄に運ばれ、そのまま彼女の背筋を微かに震わせた。
「あ、あの…?」
 台詞の後も顔を離してくれそうにない相手は、更に彼女の左手までも握り、自分の傍から離すまいとしてくる。
 そして、彼は再び彼女の耳元へと唇を近づけると、吐息と共に言葉を吹き込んだ。
「さっきも、俺の前であの青学の男の名を口にしたり……今の俺は少しばかり、お前に怒っている」
「…!」
 そのまま反論の機会も与えられずに、桜乃は相手から口付けを受けた。
 柔らかな唇が、しかし激しく己のそれを塞ぐ。
 時間的には短かったが、それは少女の羞恥心を強く刺激し、惑わせるには十分すぎる罰だった。
「れ、蓮二さん…っ」
 唇が自由になったところで、桜乃は手でそれを覆いながら、真っ赤になって相手の名を呼んだ。
「こんな所で、そんな…」
 二人きりにはなったが、それはあくまでも他の部員がいなくなったというだけの話。
 ここは駅前だけあって人の往来も激しく、当然人の目にも付き易い。
 そんな場所でキスを交わすなど、いつ、何処で、誰に見られているかもしれないのだ。
 桜乃の訴えは尤もなことだったが、言われた当人の柳は、少しは気が済んだのか寧ろさっぱりとした表情をしていた。
「恥ずかしいのなら約束を守ることだ…恋人の前では他の男の話もしないことだな」
「う…」
 『恋人』という単語を聞いて、桜乃は更に赤くなった…が、相手の言い分には全く反論出来ない…事実だったからだ。
 実はこの二人はつい最近、恋人同士になったばかりなのである。
 或る日、柳が告白し、桜乃がそれを受けた。
 最初に相手に惚れたのはどちらだったのかは不明、しかし、今は二人ともが互いの事を一番大事に想っているのは間違いない。
 兎にも角にも恋人になった二人は、以降、今まで以上に仲睦まじい関係となるのだが、その時に柳が桜乃に求めたことがあった。
『せめて二人きりの時には、名を呼んでくれないか…そして俺にも、そう呼ばせてほしい』
 当然、桜乃は受諾した。
 拒否する理由も無い…寧ろ、より相手を近く感じられる事を喜んでもいた。
 今も、その決定を後悔しているということは決してない…が!
(…まさか、こんなに熱い人だなんて思わなかったなぁ…)
 そうなのだ。
 恋人になってから初めて、桜乃は相手のもう一つの一面を知る事になった。
 『参謀』と呼ばれる程に冷静沈着なデータマンという顔の一方で、どうやら恋愛面では人一倍相手に執着する性質だったらしい。
 執着と言っても、例えば一日に何十回となくメールを送るとか、そういう狂気染みたものではなく、より相手を優先してくれるという意味だ。
 事実、恋人になってから、桜乃はより一層柳に大事にされるようになった、それは素直に嬉しい。
 しかし、今の様に意外なところでヤキモチを焼かれたり、不意に何気ない場所で何気ない時にキスをされたり…ちょっと困ってしまう面もあったりするのだ。
 互いが好きあっている以上は、贅沢な悩みと言うものだろう。
「…行こうか?」
「はい?」
 今後の二人のあり方について桜乃が幸せな悩みを抱えている間に、若者が声を掛けてきた。
「店を回るのだろう? 行こう」
 それが当然とばかりに言い切る相手に、桜乃は少しだけ戸惑いながらも頷いた。
「え、ええ……あの、蓮二さんも何処か見たいところが?」
「別に無い」
 けろっと断言して、柳は全く口調も変えずにそのまま続けた。
「俺はお前と一緒にいたいだけだ」
「!!」
 そう、こういう風にさり気なく『執着』を見せるのだ…そしてこちらを夢中にさせる。
(ああもう…ダメだなぁ)
 別に勝負事ではないのだが、敵わない、と思ってしまう。
「さぁ、行くぞ。あまり遅くなってもいけない」
「はぁい」
 柳に呼ばれて、桜乃は相手に手を取られながら歩き出した。
(……でも、それでいいんだよね…)


「あ、ちょっと待ってくれませんか?」
「ん?」
 不意に桜乃が言いながら立ち止まったのは、とある店の香水のコーナーだった。
 各社の代表的な香水がずらりと軒並み揃えられており、容器の一つ一つ取っても非常に見栄えがする。
「香水…か」
「最近では、小柄な容器でリーズナブルな物も多いんだそうです…わ、綺麗」
 特に買うつもりはなく、あくまでも見るだけらしいが、それでも桜乃は十分に楽しいらしく、目がキラキラとしている。
 そんな彼女がふと思い出して柳へと振り返った。
「そう言えば、蓮二さんはお香には詳しいですけど香水はどうですか? 男性用のも結構ありますよ?」
 常に香袋を持ち歩いている程にそれを気に入っている若者だったが、相手のその質問に対しては、彼はほんの少し逡巡して首を横に振った。
「あまり詳しくはないな…知識としては知っているが、興味はどうかと言われたら正直、然程でもない」
「意外ですね」
 桜乃の正直な反応に、柳が苦笑する。
「香水、となると俺にとっては匂いが強すぎる。そもそもそれは、西洋で入浴の習慣がなかった時に体臭を隠す為に作られたものでもあるからな」
「あ、聞いたことあります」
「日本人にも古来より香りを楽しむ習慣はあったのだが、西洋人ほど体臭はきつくないから、身体に直接付けるものよりも香袋や部屋に焚く香の方が発展したと言われている。日本人そのものがまだ香水の文化に触れて浅いので、下手なつけ方をすると却って相手を不快にしかねない…匙加減が難しいな」
「成る程〜」
 良い香りなんですけどねぇ、と一つの瓶を手にとってくん、と香りを嗅ぐと、桜乃はそれを再び台へと戻した。
「仄かに香るぐらいならいいんですけど、確かにきつい匂いをいつまでも嗅がされたら、ちょっと嫌になっちゃうかも…香水は難しいかな」
「付けたいものがあるのか?」
「あ、いえ、そういう訳じゃないんですけど…ほ、ほら、もうすぐ梅雨でしょ? じめじめすると身体がべたべたして、その、汗の匂いとか…」
「ああ…」
 確かに、この季節になると香水ではないがその手のグッズのCMとかも増えてくるな…と納得した様子で柳が頷く。
「…しかし、中学生には少々早すぎるアイテムかもしれないな」
「生活指導の先生に、怒られちゃうかもですね」
 互いに香水の使用については今回は見送り、ということで意見が一致したところで、二人は軽く笑い合っていた。



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