それからも二人は色々な店を見て回ったのだが、結局購入したものは何もなく、ウィンドウショッピングのみの形で終わっていた。
柳は当初から言明していた通り、桜乃と共にいる事の他には興味もなかったらしく、どの店に立ち寄っても特に食指を動かす様子もなかった。
「すみませんでした、結局、私の気紛れにばかりつき合わせてしまって…」
「いや、構わない、俺も十分に楽しめた……ここでいいのか?」
勿論、楽しんだのは様々な商品を見回っている間の桜乃の表情であった事は言うまでもない。
そんな柳と桜乃が立っているのは、駅の改札口前。
『ここでいいのか?』と言われたところで、それ以上は桜乃と共に改札口を抜け、都内に向かう電車に同乗することになってしまう。
しかし相手が桜乃の場合に限っては、彼女がねだれば柳は本当にそれを実行しかねないのだ。
「はい、わざわざ有難うございました。また時間があったら来ますから」
「…」
微笑む恋人を少しの間見つめていた柳は、ふいっと手を相手に伸ばし、彼女が気付いた時には再び唇を塞いでいた。
「!!」
塞がれながら身体を抱き締められ、桜乃は残念そうな相手の声を聞く。
「名残惜しいな…桜乃」
「も、もう…っ、あんまり困らせないで下さい、蓮二さん」
またこんな人目につく場所でキスをされるのも困る…
更に加えてそんな声でそんな台詞を言われ、こう抱き締められてしまっては、自分もそれを解きたくなくなってとっても困る!
もしこれも彼の策略だとするなら…本当に底知れない恐ろしさだ。
「またすぐに来ますから…蓮二さんに会いに」
「本当に?」
「当たり前ですよ」
だって、もうすぐ…貴方の誕生日じゃないですか…
その台詞はまだ心の中だけに留めておいて、桜乃は心苦しさを抑えながらも相手の腕の中から静かに逃れた。
「今日はもう行かなきゃですけど、次を楽しみにしていますから、ね?」
「……ああ、そうだな」
仕方がないと頷き、柳はようやく恋人を解放して、彼女を改札口の向こうへと送り出した。
手を振り合って別れ、互いの姿が見えなくなったところで、桜乃がふはぁ、と息を一つ吐き出した。
「もう……私だって寂しいんですからね」
ぽそ、と呟きながらホームに立ち、桜乃は深い溜息をつく。
(何か欲しいものがないか見たかったけど…収穫無かったなぁ)
実は、もうすぐ訪れる柳の誕生日に何か贈り物をしようと、桜乃は今日彼が同行してくれたことを幸いにリサーチをかけてみたのだが、あえなく不発に終わってしまった。
『一緒にいたい』と言われたからには、次の彼の誕生日に自分が会いに行く事で、それも贈り物になるかもしれないが、やはり別に形になるものも贈りたい。
(一つ、素敵な柄のブックカバーは目を付けているんだけど、それだけだと何だか在り来たりだし…)
香るものに造詣が深い彼に香水はなかなか良いアイデアだと思ったのだが…苦手だったとは予想外だった。
「うーん、香水の匂いがきついなら、他に代わるものってないかな…身につけるお香みたいな仄かな感じで…あ、あるのかなぁ?」
もうちょっと、頑張って探してみようかな…
そう考えていたところで、桜乃の前に電車が到着して扉が開いた…
六月四日
「凄く楽しかったですね!」
「ああ…皆の心遣い、嬉しいものだな。良い思い出になった」
柳の誕生日当日…その夕刻に当の本人は約束通り自分を訪ねて来てくれた桜乃と一緒に、ゆっくりと帰り道を歩いていた。
若者の右手には鞄が握られ、左手には大きな花束が一つ抱えられている。
ほんの数十分前まで、彼らは近くの飲食店にいた。
他の元テニス部レギュラーメンバー達がこっそり予約していたその店に、半ば強引に桜乃も一緒に連れ込まれると、否応なく自分の誕生パーティーが始まったのだった。
全員学生なので、勿論乾杯はジュースやコーラ。
しかし会は非常に盛り上がり、『もしやこっそりとアルコールでも飲んでいるのでは?』と疑ってしまう程の賑わいだった。
普段は静かな日常を好む柳だが、仲間達の心遣いに苦言を呈する程に無粋ではなく、今日のパーティーは大いに楽しんだのだった。
そしてそのパーティーも無事に終了し、散会した後で、柳と桜乃は共にここを歩いている。
柳の感慨深い台詞に、少女がくるっと笑顔を向けて尋ねた。
「あらら、もう思い出なんですか?」
「ん?」
「まだ早いですよ、日が過ぎてもいないのに…それに」
そこまで言うと、桜乃は自分の鞄の中から小さな包みを一つ取り出すと、柳に向けて差し出した。
「私からの贈り物がまだですからね」
「! お前からも?」
驚いた表情で見つめてきた恋人に、桜乃がにこっと笑う。
「当たり前ですよ、だって…大好きな恋人さんですから」
「!」
「折角ですから、二人きりの時にあげたいって思ってたんです」
なかなかの大胆発言に柳が珍しく動揺している間に、桜乃がきょろっと相手の姿を改めて確認する。
右手に鞄、左手には花束…品物を受け取るにはちょっと厳しい格好だ。
「うーん…持てないみたいですから、鞄の中に入れますか?」
「あ、い、いや…」
桜乃の申し出に、は、と我に返った様子で、柳はその場…道の脇に持っていた鞄と花束を置いた。
折角、大事な恋人が持って来てくれた贈り物を、自身の手で受け取らないなど有り得ない。
正直、桜乃がこの日に会いに来てくれただけでも十分に嬉しかった柳にとって、この贈り物は特に価値あるものになった。
「はい…誕生日おめでとうございます、蓮二さん」
「有難う、桜乃…その…」
「え?」
「貰って早々に不躾だが…開けてもいいだろうか?」
贈り主の目前で開けるのは礼を失するのではないかと懸念した男だったが、相手はすぐに嬉しそうに頷いてくれた。
「勿論です、気に入って下さったらいいんですけど…」
許可を得た形で、柳はゆっくりと袋の封を開いて中に手を入れ…先ず最初に触れたものからゆっくりと引き出してみた。
「…ああ、ブックカバーだな…ん? この生地は…」
皮でも布でもない、不思議な質感を持つその特徴に早速気付いた様子の相手に、桜乃がくすっと楽しそうに笑う。
「ふふ、不思議な手触りでしょ?」
「……ああ、襖紙か、これは」
和風のものを好む柳にとって馴染みあるものだっただけに、思い出すのにそう時間は掛からなかったが、彼は和柄のそれを実に興味深そうに眺めた。
「手に心地良いな…成る程、和紙と布で出来た襖紙なら丈夫だし適度なしなりもある…これはいいものを貰った」
「うふふ…」
「…まだ中に何か入っているな…これは…?」
ブックカバーの次に柳が袋から取り出したものは、ガラスの小壷。
中は白い物体が詰められているのが分かる。
「ん…?」
何だろうと柳が上の蓋を捻ってそれを取ったところで、ふわん、と何かの香りが彼の鼻腔をくすぐった。
「……これは…練り香水?」
「あ、もうばれちゃいましたか…」
流石ですね、と言う桜乃の前で、柳は容器をより顔の近くへと運び、小さく鼻を鳴らした。
「…不思議な香りだな…若竹の様な香りと、他にも…これはハーブか…?」
その言葉に桜乃がぎょっと瞳を見開いたが、彼は相変わらず香りへと集中している。
脳裏に浮かぶのは、若竹の林…そして緑を渡る風の様な…そういうイメージだ。
そして容器を顔から離したところで、薄く微笑んで桜乃を見た。
「何処のものかは知らないが、香りそのものは清純で、しかもかなり抑えられている…これなら俺も身につけて楽しめそうだ」
「本当ですか!?」
声を大きくする少女に、男は軽く首を傾げた。
随分興奮している様に見えるが…気のせいか?
「ああ…?」
「良かったぁ!」
両手をぱちんと叩いてはしゃぐ相手の姿を見る限りでは、やはり気のせいではない様だ…
「…もしかして、随分と貴重なものだったのでは?」
もしそうなら、自分は要らぬ散財をさせてしまったのでは…?と不安に思った彼に、桜乃はいえいえと手を横に振りながら笑った。
「大丈夫です、そんなことないですよ。それ、私の手作りですから」
「…え?」
これが…手作り? この練り香水が?
言葉が出なくなってしまった柳に、桜乃は安堵したように笑っていた。
「結構簡単に出来るんですね、練り香水って…私なりに蓮二さんをイメージして作ってみたんです。作り方は簡単ですけど香りを調香するのが難しくて…でも、香りを控えめにして正解でした」
あまり強いと、使ってもらえなくなりそうですから…と説明したところで、柳は再度確認した。
「お前が…作ったのか、これを」
「はい、世界にオンリーワンですよ。蓮二さんだけの、此の世で一つだけの香りです」
すると、何故か柳が明らかに困惑の表情を浮かべる。
「…そ、そんな事を言われると…」
「はい?」
「……勿体無くて使えないのだが…」
使ってこそのものだということは理解しているが、使ってなくなるというのがどうにも耐えられない、という相手に、少女は大丈夫ですと頷く。
「レシピはしっかり保存してますから…無くなったら、言って下さればまた作りますよ?」
「そ、そうなのか?」
「はい!」
また作ってもらえる…という保証を得たところで、ようやく柳も安心した様子で改めてその練り香水を見つめる。
どうやら改めて感動して言葉がないらしい若者に、桜乃がふと何かを思いついた様子で相手の手からその小壷を取った。
「えへ…付けてあげますね、蓮二さん」
「ん…?」
桜乃の指が壷の上を掠めるように動き、白色の練り香水をほんの少しだけ掬い取ると、そのまま指を柳の耳元へと近づける。
「練り香水って、体温が高いところに付けるんですよね…手首とかうなじとか耳の後ろとか…」
さわ…と優しく首筋から耳の後ろの皮膚に触れられ、その感触に微かに柳の身体が揺れる。
それには気付かない様子で、桜乃は優しく指の腹で柳に香水を塗ってやり、そしてそれは反対側にも及んだ。
「…はい、どうですか?」
己を包んでくる香りに心が乱される。
これが…お前にとっての俺のイメージか…
黙している間に桜乃にまで香りが伝わってきたのか、彼女もまた目を閉じてくん、と鼻を鳴らした。
「あ、香ってきますね…」
「…そこではよく分からないだろう?」
「え?」
呼びかけた柳が、今度は桜乃の手から壷を取り、自分の指に練り香水を掬うと、それを相手の首筋へと伸ばす。
さわり…
「…っ!」
柳がそうされた時より明らかに、桜乃の身体がびくんと震えた。
「動かないで…」
優しく言われた事を守ろうとしながらも、どうしても首筋を辿る相手の指の感触に身体が戦慄いてしまう。
ぞくぞくとする戦慄を覚えているのは桜乃だけではなく、香水を塗っている柳もまた同じだった。
真っ赤になりながら震えている少女の姿、指先に伝わる相手の首筋の感触と温もり…その全てが柳の理性を激しく攻撃していた。
人通りの無い道…無音の世界の中で、自分の鼓動だけが生々しく聞こえてくる。
聴覚は己の心音…嗅覚は己の為にと贈られた清純な香り…触覚は柔らかな白い肌…視覚は愛しい恋人の姿に犯されていく…
残されているのは味覚だけ…それを犯すのは…
「え…っ?」
沈黙が続いて桜乃がふと瞳を開いた時には、既に相手の顔が直前まで近づいており、彼女はまたすぐにそれを閉じることになった。
「…っ!」
いつもなら唇だけを奪う相手のキスだったが、今日のそれは違った。
これで五感の全てを犯された若者は、その為に己を制御するのが困難になったとばかりにそれを放棄し、何度も繰り返し唇を塞いでくる。
「蓮二さん…あ…っ」
何度目かに離された男の唇はそのまま少女の頤を下り、つけた香りに誘われるように滑らかで柔らかな首筋へと移ると、微かに濡れた滑らかな何かがそこに触れた。
「っ!!」
びくんっと一際強く背を反らし、息を止めた桜乃を抱き締めた男は、そのまま顔を離し、ゆっくりとそれを相手の耳へと近づける。
「…今度は俺が…お前の為に調香しようか?」
言葉も出せずにくたりと身を預けてくる恋人に、若者はふ、と微笑み、再び囁いた。
「…香りを纏うなら、膝の裏もいい…少なくとも、お前はそうするべきだな」
「…?」
「それだと立ち昇る香りを上品に纏えるし…何よりもここに付けられてしまうと…」
最後の言葉は一際小さく…
「お前の味も香りも、分からない」
「!!」
どうやら先程、香水の成分も一緒に味わってしまったらしい。
その首筋に、もうそれを付けるな、という事は…
「ま、また、こんなコトする気ですか…?」
「さあ…な。嫌なら首筋につけても構わないが…?」
「う…」
「…ゆっくり考えることだな…お前が立てるようになるまでもう暫し時間が必要な様だ」
男は、それから桜乃が自力で立てるようになるまでずっと彼女を支えるという役得を得た。
その後、かの男が調香した香水を、彼の愛しい恋人は何処につけたのだろうか…?
了
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