策略家の婿探し
四月某日、とある家宅にて
「お早うございます、蓮二お兄ちゃん」
「ああ、お早う、桜乃」
二人の兄妹が、居間で清々しい朝の挨拶を交わしていた。
兄である若者は細目でさらさらの黒髪を持つなかなかの美丈夫で、長身痩躯と呼べる体つきをしているが、よく見ると細いだけではなく鍛えた筋肉を誇っている。
対し妹の方は彼よりかなり身長は低めでではあるものの、同じく体つきは非常に細く、色が白い。
男と同じく艶やかな黒髪を持っていたが、腰より下に届くそれは今はきっちりと二本のおさげでまとめられていた。
大きな瞳をしたその少女は、兄に屈託のない笑みを浮かべながら、ぴっと両腕を真横に開き、自身の姿を誇らしげに見せた。
「えへへ、似合う?」
「ふむ…」
白いシャツも眩しく映える、所謂制服姿の彼女に、兄の蓮二は口元に軽く手を当てながら相手を眺め、軽く頷いた。
「問題ない。スカートの裾も、シャツの袖の長さも、立海の校則の指定に合致している。目立った違和感もない」
実に事務的な相手の返答に、それを聞いた桜乃が少々不満気味に唇を尖らせた。
「んも〜、そうじゃなくて、『私』に似合うかどうか聞いてるの! 相変わらず色気がない返事なんだからー」
「…制服に色気を求める行為が理解不能だが…ふむ」
断りつつ、相手が不満であるらしい事を察した蓮二は、再度口元に手をやって再び頷く。
「そもそもそういう質問自体が愚問だ。桜乃には、どんな服でも似合うからな。元が可愛いのだから当然だ」
「!!」
兄のとんでもない理論と発言に桜乃が真っ赤になっている間に、彼はなでなでと少女の頭を優しく撫でる。
「お前が俺と同じ立海に入学してくれて良かった…別の学校に行って、俺の目が届かないところで変な虫がついてしまったらどうしようかと、お兄ちゃんは心配で心配で…」
「…お兄ちゃんなら、私が地球の裏側にいたって大丈夫だよ…」
朝も早くから早速実兄の溺愛攻撃を受けてしまい、赤くなりつつ桜乃はそう答えた。
そう。
今日は立海大附属中学の始業式であり、入学式。
兄、柳蓮二にとっては中学三年生としての初日であり、妹、柳桜乃にとっては中学生デビューの栄えある一日なのだ。
ぴかぴかの卸したての制服を纏った桜乃は、これから始まる中学生ライフに胸を躍らせつつも、自分に並ならぬ愛情を注いでくれる兄にはちょっぴり不安も感じていた。
当人が言うのも何だが、この柳蓮二という若者は兎に角小さい頃から妹である自分を大事に大事にしている。
元々読書家であり幼い頃より読書に明け暮れていた柳は、昔の思想家達の教えの中で家族愛、兄弟愛を強調する箇所に感銘を受け、自分もそうあるようにと常日頃から自戒していた。
そして妹はそんな努力家の兄の背中を見て育ち、当然、彼を家族として自慢に思い、尊敬もしてきたのだ。
純粋に敬い慕ってくる妹の存在が憎い筈もなく、常に自分の一番近くにいる彼女の存在は、いつしか柳にとっての世界の中心となっていた。
実は、桜乃が立海に入学する事になったのも、半分以上は彼の策略によるものである。
先ほどの兄の発言にもあった様に、自分の目の届かない処で知りもしない異性と恋仲になるのではないかという懸念から、妹の入学に際しての家族会議の中で、彼は両親や祖母に桜乃を立海に入学させるように進言したのである。
『桜乃は心が優しい分、何かトラブルがあったら大きな傷を負ってしまうかもしれない。立海に入学したら自分が兄としても先輩としても傍にいてやれるし、アドバイスも出来る。立海は全国的にも有名な進学校だから彼女の将来の進路についても申し分ない条件だし、勉強も自分が責任をもって見てやれる。如何だろうか』
全くもって反論の余地のない兄の持論に、家族達は然程反対の様子は見せなかった。
確かに、少々病弱で純粋培養された感の強い彼女の場合、身内が近くにいた方が何かと安心出来るし、その提案をした兄も責任感が強い自慢の息子であり孫である。
二人の兄妹仲が非常に良い事も周知の事実であり、何のデメリットもないと判断されたところで、本人である桜乃に最終決定権が委ねられた。
その肝心の桜乃は…
(…立海かぁ、お兄ちゃん、毎日元気に楽しそうに通学してるしとても良い学校みたいだよね…制服も可愛いし、距離も近いし、何よりお兄ちゃんがいたら凄く心強いし…)
そう思った後、それに…と少女は一番の不安をこっそりと心で呟いていた。
(もし私が『嫌だ』なんて言ったら……蓮二お兄ちゃん、絶対泣くよね…)
もしかしたら泣くだけに留まらず、拗ねたりいじけたり、最悪、私が入学した別の学校に転校するかも…
冗談や杞憂では済まない想像をしながら、桜乃はその家族会議の中、傍にいた柳の顔をちらっと見上げた。
そこにはいつもの端正な顔に笑みを浮かべている兄の姿。
自分が拒否することなど、端から考えていない信頼しきっている態度。
それが果して、兄の策略だったのか本気だったのかは分らないが…
『……立海に行かせて頂きます…』
かくして、桜乃はその宣言をもって立海への進学が決まったのだった。
(まぁ、別に後悔はしてないけど…確かに立海って文句が付けられない程に評判良いし)
過去の反芻から戻ってきた桜乃は、それから改めて兄と一緒に朝食をとり、いよいよ学校へと出かけて行った。
一緒に式に参加する予定の親は、後で会場に向かう事になっている。
「お前はもう少しゆっくり来ても構わないのだが…式には多少時間があるだろう?」
「だって家にじっとしててもつまらないし…お兄ちゃんの元気の素も見てみたいもん」
「ん?」
「テニスよテニス! お兄ちゃん凄く強いし、家に沢山の賞状やトロフィーあるじゃない。今日から私も立海の学生だし、お兄ちゃんの部活動とか見られるから楽しみ〜〜!」
「そんなに大げさなものではないのだが…」
きゃーっ!と大いに盛り上がっている妹の桜乃とは裏腹に、何故か兄の柳は浮かない顔をしている。
その心中は…
(…中学生という立場になり、新たな学び舎に入ると心がどうしても浮ついてしまう…その心の隙を突かれる形で、恋などというものにあまり早く目覚められても困るのだが…しかし俺が言うのも憚られるが、ウチのレギュラー含めて部員には見栄えが整っている若者も多数いるからな…少なくともレギュラーに関しては皆、俺を含めて恋人がいない確率は百パーセント…ううむ…)
「お兄ちゃん?」
妹の呼びかけにも気付かない程に、柳の思案は集中している。
(と言っても、逆に部活動から下手に遠ざけてしまえば、それこそ俺の目の届かない場所で何が起こるとも分らない…幸い俺は現在『参謀』という位置にあるし、桜乃が見学に来た場合でも目を光らせておけば変な男達は寄らせずに済む…となると妥協という形で監視しておけば問題はないな)
「もしもーし、お兄ちゃん?」
「…うむ、桜乃」
何かに一人で納得してから、柳はようやく妹に反応を返した。
「はい?」
「その…あまり近づいて騒ぐことは好ましくない。見学をするならば、少し遠くから行うことを勧める。何しろ俺達は、今年は三連覇の悲願を果たさねばならないからな。メンバーのやる気を外野の雑音で削ぐわけにもいかない」
「あ…そっかぁ」
実に正論である兄の忠告に、素直に妹は納得する。
「俺が参謀という立場であるだけに、妹のお前が普段から特別視されているという印象を与えられるのもまずいからな…だが、俺がいる時にはお前がいても構わない場所を教える事ぐらいは出来るから、声を掛けてくれ」
勿論、その場所の第一候補は、自分の目の届く隣なのだが…
「うん分かった。なるべくお邪魔にならないように気をつけるね」
「頼むぞ」
こくんと頷く桜乃に、柳も満足そうに頷き返した。
本当に、この子は素直で良い子に育ってくれた…からこそ、兄である以上、彼女の為に全力で守ってやらなければ!
見事なシスコン精神も新たに、柳は桜乃と一緒に通学路を歩いて行った。
朝から早速、テニス部について教えてもらっているかと思いきや、桜乃はそこではそのまま兄と別れて自分の教室へと向かっていた。
流石に学期の初めともなれば、部活動も気を引き締めてのものになるだろうと気を遣ったことと、やはり何より自分が何処のクラスに配属されたかという純粋な興味が勝ったのだ。
クラスを確認し、教室に入り、そこの備品や窓から見える景色を堪能している間に時間はあっという間に過ぎ去るもので、そうしている内に教室には同じクラスの同級生になる生徒達も増えてくる。
賑やかになり、どうやら全員が揃ったところで担任の教師が登場。
全員の自己紹介が終わったところで場所を講堂へと移動し、いよいよ彼らが立海に迎えられる儀式である入学式が始まった。
(あ、蓮二お兄ちゃんだぁ!)
普段は退屈になりがちな学校の集会行事だが、流石に入学式は例外である。
それに、この日の入学式は桜乃にとっても特別なものだった。
在校生を代表して訓辞を垂れる生徒が、自分の兄である柳蓮二その人だったのだから。
臆することも迷うこともなく颯爽と歩き、壇上に上がり、滑らかに書状をぱらりと開く一連の動作全てが、見る者に小さな感動を生んでいた。
『ちょ…格好いい』
『三年生よね…』
『あの先輩、頭脳明晰で、スポーツも万能なんだって…』
ひそひそこそこそと聞こえてくる新入生の女子達の話し声が、桜乃の耳にも微かに、しかしはっきりと届けられる。
(えへ…お兄ちゃんが褒められるのって、やっぱり嬉しいなぁ)
でも、あれだけ格好いいんだから当然よね…ちょっとシスコン気味だけど…
そう言いながら、自分もかなりのブラコンである事実に桜乃は気づいていない。
『お早うございます、新入生の皆さん。ご入学、おめでとうございます…』
マイクを通しての兄の声は緊張など微塵も感じさせず、実に堂々としたものだった。
これが自分達の先輩…と思うと、自然と身が引き締まると同時に誇らしい気持ちにもなる。
それからの柳の言葉も、淀みなく誤りもなく、流暢に続いてゆく。
もしやしたら、校長の訓辞よりも心に刻まれたかもしれないと思える程にそれは立派なものであり、その感動のままに、全校生徒は無事に入学式という大事な行事を終えることが出来た。
「ホームルームも終わったし、これで今日の行事は全部済んだんだよね…?」
ホームルーム終了後、解散した自分の教室の中で、桜乃はんーと天井を見上げながらこれからの予定について考えていた。
このまま家に戻ってもいいのだが、何となくもう少し外を歩いてみたい気もする。
しかし、流石に今日会ったばかりのクラスメート達とも、いきなり一緒に帰宅する程に親交を深めた訳ではないし、一人きりというのもつまらない。
「…お兄ちゃん、まだいるかな」
テニス部の活動があるなら丁度見せてもらってもいいかもしれない、無事に訓辞も済んでいるし、朝よりはゆとりがあるかも…
思い立って、桜乃は配られた学内の案内図を見ながら、とことことまだ見慣れない廊下を歩いて行った。
「えーと、えーと…こっちを右に曲がってぇ…あれ? 間違えてる?」
幼い頃から方向感覚が抜群に悪く、その所為で過去幾度となくデパートで迷子になった経験のある桜乃は、入学初日から早速その能力(?)を如何なく発揮していた。
自分はテニスコートに行きたかったのだが、先ほどから結構歩いているのに、一向に靴箱へ辿り着く様子がない。
普段なら、自分がいない事に気づいた兄の柳が、あらゆる可能性を考慮して最短で探し出してくれるのだが、今現在の自分の状況を相手が理解しているとは思えない。
「あああ、やっぱり〜〜! でも授業に遅れる場合じゃなくて良かった〜〜!」
少なからず落ち込む状況だが、それでも桜乃はポジティブに考えながら必死に出口を探し続け、突き当たりの角を曲がろうとした時だった。
『たるんどるっ!!』
突然響いてきた怒声に、桜乃は深く考える前に飛び上がって訳もわからないまま詫びていた。
「ひゃああ! ごめんなさい〜〜っ!!」
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